忘れられないひと〜結婚の挨拶に行った先の継母は、私が昔追い出した父の恋人でした〜
「なんの音でしょうね」
訝るスタッフの声に押されるように、私の足が勝手にドアの方へ動いた。
前のめりに、私は隣の部屋のドアを開けた。
「圭介?」
呼びかけたが返事がない。
私の横を亡霊のような誰かがすり抜けた。
「……じゃま、じゃました……じゃま」
呪文のような言葉が耳に絡まる。圭介の元へと駆けながら流れるようにその陰に視線を向けた。
女だった。顔に色がないのっぺりとした――
床に、血の付いた包丁が転がるのをまるでスローモーションのように見た。
…………え、血?
嫌な予感が心臓の音を追い抜いていった。
「圭介……、圭介、圭介……圭介」
私は圭介の名を連呼しながら衝立を越えた。
「け、けい、すけ……」
声が震えた。
声だけじゃない、手も足も、私を作るなにもかもが震えている。
「や、やだ……、や」
床に倒れている圭介に駆け寄って跪いた。流れる血が床を汚している。着替えたばかりのチェックのシャツが湿って重くなっていく。
「……なに、これ、な、に」
圭介は苦しそうに表情を歪めて、荒い息を吐いた。
「心菜、……いる?」
「ここにいるじゃないっ、圭介しっかりしてっ」
安心したように圭介は口元を横に引いた。
「俺ね、心菜、心菜と会うまで、ひねくれて、ひどく、いつも……」
圭介はだらりと下がった腕を空に浮かした。
「いいからっ、圭介、動かないで……、だ、誰か! 早く来て!」
圭介の指先が私の頬をなぞる。その弱い力が、母の臨終を思い出させてフラッシュバックが起きた。
「いやあっ! 圭介っ」
「だ、だいじょ……ぶ、心菜、泣かない、で。でさ、俺、ほんとにサイテーなヤツで。あたりまえの、幸せ、持ってるヤツがキライで……、キライでさ、俺、ほんと、心ではいつも、怒ってた、んだ。明るく振舞ってた、だけ、装ってただけ、なんだ……」
私は必死に左右に首を振った。圭介の腕を、頬を、髪を、ただただ夢中で撫でた。
「俺もずっと神様に、夢の中で、おまえの探し物は手に入らないって、言われ続けてた、……悔しくて、俺は、あらがった……。森の中……青磁色の壺……割れ――でも、さ、手に入ったよ、心菜、俺の探してるもの、ちゃんと、最後に、手に入った」
「いやよっ、なに言ってるのよ最後って」
「俺の勝ち。やっぱ、神様もたいしたこと、ないよ。だから心菜、心菜も『サイアク』に負けないで……、負けないと宣言したら、負けないから。俺みたいに、な」
救急車っ! 誰かが怒鳴っている。
「誰か、誰かっ。警察に電話! その女、捕まえて!」
廊下から引き攣れたような声が飛んでいる。
「心菜は……、あきらめるくせ、ついてるから……、なんでも、自分が我慢すれば、いいって、思ってるけど……、それはだめだ、よ、じゃないと、解ける、誤解も、解けないよ、……わかった?」
「圭介お願いもう喋らないで」
「心菜、俺のこと、愛してる……?」
「愛してるよっ、あたりまえでしょっ、だって結婚するのよっ!」
「どのくらい、愛してくれて、る……」
「世界中で一番! 誰よりも、なによりもっ、自分よりもよっ。圭介!」
圭介が笑った。笑ったはずなのに顔からは血の気が引いていって、どんどんどんどん、白く、弱く、なっていく。
「心菜が、俺の探していたものを、くれたよ。俺は、俺を、一番に愛してくれる人がほしかった。願いは、叶った」
圭介。圭介!
答えない圭介を揺すっているのは、私?
――俺は一生ぜったい、心菜から離れない
そう言って深い瞳で私をみつめたのは数ヶ月前のことなのに。
――俺から離れるときは死ぬときしかないからね
これはいつの言葉?
足がむず痒くてたまらない。
意識が朦朧とする。
これは絵本の続きなの?
いつまで『サイアク』は続くの?
誰か、教えて。
誰か