魔法が使えないと虐げられていた令嬢は、余命わずかな辺境伯の妻になりました
第4話
数日後、クリスティアーナは、小さな荷物だけを持ってテニエス伯爵家をあとにした。馬車が屋敷を離れていっても、テニエス伯爵もクラウディアもヴィッキーも、その姿を見送ろうとはしなかった。
こうしてクリスティアーナは、長年暮らした家を離れた。
向かう先は王都から遠く離れた北の辺境地だ。
長い旅の末、クリスティアーナを乗せた馬車はアルディオン辺境伯邸へ到着した。黒い石造りの大きな屋敷を見上げながら、クリスティアーナは思わず息を呑む。ここがこれから自分の暮らす場所であり、この屋敷の主こそ、王国一といわれるほど強大な魔力を持つアルディオン辺境伯なのだ。
執事に案内された応接室でしばらく待っていると、やがて重い扉が開いた。入ってきた男を見た瞬間、クリスティアーナの身体が強張った。
背が高く、黒い髪に綺麗な銀色の瞳をしている。整った顔立ちではあったが、表情がほとんどないせいかひどく近寄りがたく、彼が部屋へ足を踏み入れただけで空気まで変わったように感じられた。
目には見えない何かが肌を圧迫してくるような、不思議な息苦しさがある。これが膨大な魔力を持つ者の威圧なのだろうか。
「君がテニエス伯爵家の令嬢か?」
低い声に、クリスティアーナは緊張しながら頭を下げた。
「……はい。クリスティアーナ・テニエスと申します」
「俺がこの地の領主、ジェラード・アルディオンだ」
ジェラードはそう名乗ると、クリスティアーナを上から下まで眺めた。その視線に耐えきれず、クリスティアーナが俯くと、やがて彼の目が手元へ向けられる。
「ずいぶん痩せているな。それに、右手の甲に魔紋がない。本当にテニエス伯爵令嬢なのか?」
ぎくりとして、クリスティアーナは無意識に右手を隠した。
また魔力がないことを責められるのだと思った。無能、役立たず、テニエス伯爵家の恥。これまで何度も浴びせられてきた言葉が脳裏をよぎり、身体が自然と身構える。
「……はい。間違いありません」
だが、ジェラードはしばらく彼女を見つめただけで、「そうか」と短く答えた。
「さて、テニエス伯爵から聞いていると思うが、これは契約結婚だ。俺も、君に夫婦らしいものを求めるつもりはない」
あまりにも淡々とした声音だったため、クリスティアーナは反応することもできなかった。
「俺には時間があまりない。長くても、あと五年といったところだろう」
「五年……ですか?」
「ああ。俺の魔力は多すぎる。人間の身では耐えられないほどにな。アルディオン辺境伯の血筋は代々そうだ。だから、俺が生きているうちに次の辺境伯を残さなければならない」
まるで自分のことではないように語るジェラードを、クリスティアーナは呆然と見つめた。
(まだ若い。それなのに、あと五年しか生きられないの?)
「君には俺の子を産んでもらう。この結婚で求められるのはそれだけだ」
なるほど、そういうことか、と思う。自分はみっともなくて魔法も使えない役立たずだ。だから妻としてではなく、子供を産む道具として扱われるのだ。妙に納得して静かに頷いた。
「妊娠が確認されたあとは、出産まで別邸で過ごしてもらう。そのほうが君も子供も安全だろう。それから、子供が無事に生まれれば、テニエス伯爵家には契約どおり追加の金を支払うことになっている。それとは別に、君にも十分な金を渡すつもりだ」
「……わたしにも……ですか?」
「ああ。子供はアルディオン辺境伯家の別邸で跡継ぎとして大事に育てる。君はその後、好きな場所で暮らせばいい。そのための金だ」
その言葉を聞いた瞬間、クリスティアーナは改めて思い知らされた。お金で買われた子供を産むための道具は、役目を終えたら追い出されるのだ。
テニエス伯爵はクリスティアーナを差し出し、その代わりに金を受け取った。そして自分が無事に辺境伯の子供を産めば、さらに金が支払われる――あまりにもわかりやすい取引だったし、クリスティアーナは自分が人間ではなく家畜みたいだと思った。
「承知いたしました。あっ、生まれてきた子が女の子だった場合はどうなるのでしょう?」
「問題ない。アルディオン辺境伯家では、第一子が男女にかかわらず強い魔力を受け継ぐ。娘であっても、後継者になれる」
「……そうなのですね」
「必要なものがあれば侍女に言え。この屋敷にいるあいだは遠慮する必要はない。今日は長旅で疲れただろう。ゆっくり休め」
それだけ告げると、ジェラードは居間を出ていった。
扉が閉まったあとも、クリスティアーナはしばらくその場から動けなかった。
ジェラードから特に優しい思いやりを見せられたわけではないのに涙が出た。
(長旅で疲れただろう、と言ってくれた。ゆっくり休め、とも。こんな優しい言葉なんてお母様が亡くなって以来かけられたことがないわ)
自分は跡継ぎを産むために金で買われた妻でしかないが、彼はクリスティアーナの右手に魔紋がないことを知っても、一度も「無能」とは言わなかった。「役立たず」と罵ることもなかった。
それはクリスティアーナにとっては、意外なことだった。
それから執事に部屋へ案内された。足を踏み入れた瞬間、クリスティアーナは驚いた。そこは、辺境伯夫人のために用意された立派な部屋だったのだ。
大きな窓からは庭園が見渡せ、鏡台には新品の化粧品が揃えられている。奥には天蓋付きの大きなベッドが置かれ、壁際の暖炉には火が入り、室内は暖かく保たれていた。
(子供を生むだけの妻だから、使用人と同じような部屋だと思っていたのに……)
以前はクリスティアーナも伯爵令嬢として立派な部屋を与えられていた。だが、母ジョアンナが亡くなってからは、物置小屋だ。寒い日には隙間風が入り込み、暖炉などもちろんない。夜には毛布にくるまり、寒さに耐えながら眠るしかなかった。
そのせいで、かつてなら見慣れていたはずの貴族の部屋が、今は眩しく贅沢に見えた。
「こちらが奥様のお部屋になります。隣が衣装部屋、その向こうに湯浴みのためのお部屋があります。準備しますので、その間にお着替えを出しておきましょうか」
そう声を掛けてきたのは、クリスティアーナの世話を任されたマリーという侍女だ。
マリーが衣装部屋に収めようと、クリスティアーナの持ってきたトランクを開ける。
だが、中に入っていたのはわずかな身の回りの品だけだった。
伯爵令嬢が嫁入りに持ってきた荷物とは、とても思えないほど少ない。
「まあ、奥様。これは……」
「あっ……これは、その……」
クリスティアーナは言葉に詰まった。
(ああ、恥ずかしい……きっと、笑われるわ)
次にくる嘲りの言葉に身構えていると――
こうしてクリスティアーナは、長年暮らした家を離れた。
向かう先は王都から遠く離れた北の辺境地だ。
長い旅の末、クリスティアーナを乗せた馬車はアルディオン辺境伯邸へ到着した。黒い石造りの大きな屋敷を見上げながら、クリスティアーナは思わず息を呑む。ここがこれから自分の暮らす場所であり、この屋敷の主こそ、王国一といわれるほど強大な魔力を持つアルディオン辺境伯なのだ。
執事に案内された応接室でしばらく待っていると、やがて重い扉が開いた。入ってきた男を見た瞬間、クリスティアーナの身体が強張った。
背が高く、黒い髪に綺麗な銀色の瞳をしている。整った顔立ちではあったが、表情がほとんどないせいかひどく近寄りがたく、彼が部屋へ足を踏み入れただけで空気まで変わったように感じられた。
目には見えない何かが肌を圧迫してくるような、不思議な息苦しさがある。これが膨大な魔力を持つ者の威圧なのだろうか。
「君がテニエス伯爵家の令嬢か?」
低い声に、クリスティアーナは緊張しながら頭を下げた。
「……はい。クリスティアーナ・テニエスと申します」
「俺がこの地の領主、ジェラード・アルディオンだ」
ジェラードはそう名乗ると、クリスティアーナを上から下まで眺めた。その視線に耐えきれず、クリスティアーナが俯くと、やがて彼の目が手元へ向けられる。
「ずいぶん痩せているな。それに、右手の甲に魔紋がない。本当にテニエス伯爵令嬢なのか?」
ぎくりとして、クリスティアーナは無意識に右手を隠した。
また魔力がないことを責められるのだと思った。無能、役立たず、テニエス伯爵家の恥。これまで何度も浴びせられてきた言葉が脳裏をよぎり、身体が自然と身構える。
「……はい。間違いありません」
だが、ジェラードはしばらく彼女を見つめただけで、「そうか」と短く答えた。
「さて、テニエス伯爵から聞いていると思うが、これは契約結婚だ。俺も、君に夫婦らしいものを求めるつもりはない」
あまりにも淡々とした声音だったため、クリスティアーナは反応することもできなかった。
「俺には時間があまりない。長くても、あと五年といったところだろう」
「五年……ですか?」
「ああ。俺の魔力は多すぎる。人間の身では耐えられないほどにな。アルディオン辺境伯の血筋は代々そうだ。だから、俺が生きているうちに次の辺境伯を残さなければならない」
まるで自分のことではないように語るジェラードを、クリスティアーナは呆然と見つめた。
(まだ若い。それなのに、あと五年しか生きられないの?)
「君には俺の子を産んでもらう。この結婚で求められるのはそれだけだ」
なるほど、そういうことか、と思う。自分はみっともなくて魔法も使えない役立たずだ。だから妻としてではなく、子供を産む道具として扱われるのだ。妙に納得して静かに頷いた。
「妊娠が確認されたあとは、出産まで別邸で過ごしてもらう。そのほうが君も子供も安全だろう。それから、子供が無事に生まれれば、テニエス伯爵家には契約どおり追加の金を支払うことになっている。それとは別に、君にも十分な金を渡すつもりだ」
「……わたしにも……ですか?」
「ああ。子供はアルディオン辺境伯家の別邸で跡継ぎとして大事に育てる。君はその後、好きな場所で暮らせばいい。そのための金だ」
その言葉を聞いた瞬間、クリスティアーナは改めて思い知らされた。お金で買われた子供を産むための道具は、役目を終えたら追い出されるのだ。
テニエス伯爵はクリスティアーナを差し出し、その代わりに金を受け取った。そして自分が無事に辺境伯の子供を産めば、さらに金が支払われる――あまりにもわかりやすい取引だったし、クリスティアーナは自分が人間ではなく家畜みたいだと思った。
「承知いたしました。あっ、生まれてきた子が女の子だった場合はどうなるのでしょう?」
「問題ない。アルディオン辺境伯家では、第一子が男女にかかわらず強い魔力を受け継ぐ。娘であっても、後継者になれる」
「……そうなのですね」
「必要なものがあれば侍女に言え。この屋敷にいるあいだは遠慮する必要はない。今日は長旅で疲れただろう。ゆっくり休め」
それだけ告げると、ジェラードは居間を出ていった。
扉が閉まったあとも、クリスティアーナはしばらくその場から動けなかった。
ジェラードから特に優しい思いやりを見せられたわけではないのに涙が出た。
(長旅で疲れただろう、と言ってくれた。ゆっくり休め、とも。こんな優しい言葉なんてお母様が亡くなって以来かけられたことがないわ)
自分は跡継ぎを産むために金で買われた妻でしかないが、彼はクリスティアーナの右手に魔紋がないことを知っても、一度も「無能」とは言わなかった。「役立たず」と罵ることもなかった。
それはクリスティアーナにとっては、意外なことだった。
それから執事に部屋へ案内された。足を踏み入れた瞬間、クリスティアーナは驚いた。そこは、辺境伯夫人のために用意された立派な部屋だったのだ。
大きな窓からは庭園が見渡せ、鏡台には新品の化粧品が揃えられている。奥には天蓋付きの大きなベッドが置かれ、壁際の暖炉には火が入り、室内は暖かく保たれていた。
(子供を生むだけの妻だから、使用人と同じような部屋だと思っていたのに……)
以前はクリスティアーナも伯爵令嬢として立派な部屋を与えられていた。だが、母ジョアンナが亡くなってからは、物置小屋だ。寒い日には隙間風が入り込み、暖炉などもちろんない。夜には毛布にくるまり、寒さに耐えながら眠るしかなかった。
そのせいで、かつてなら見慣れていたはずの貴族の部屋が、今は眩しく贅沢に見えた。
「こちらが奥様のお部屋になります。隣が衣装部屋、その向こうに湯浴みのためのお部屋があります。準備しますので、その間にお着替えを出しておきましょうか」
そう声を掛けてきたのは、クリスティアーナの世話を任されたマリーという侍女だ。
マリーが衣装部屋に収めようと、クリスティアーナの持ってきたトランクを開ける。
だが、中に入っていたのはわずかな身の回りの品だけだった。
伯爵令嬢が嫁入りに持ってきた荷物とは、とても思えないほど少ない。
「まあ、奥様。これは……」
「あっ……これは、その……」
クリスティアーナは言葉に詰まった。
(ああ、恥ずかしい……きっと、笑われるわ)
次にくる嘲りの言葉に身構えていると――