奴隷娼婦の成り上がり
第10話『宴と追悼、ファティマの囁き』【1】
王宮の大広間には、夜を忘れさせるほどの灯りが満ちていた。
天井から吊るされた幾つものシャンデリアが、磨き上げられた床と銀食器に光を散らしている。長卓には焼き菓子や果物、香辛料を利かせた肉料理が並び、給仕たちが絶え間なく葡萄酒を注いで回っていた。
貴族たちの笑い声が、弦楽器の奏でる軽やかな音色に重なる。
王宮で催される宴は、いつも似たようなものだった。
誰もが笑顔を浮かべ、誰もが互いの腹を探っている。忠誠を誓う者は王太子の機嫌をうかがい、将来の地位を求める者は有力者の隣に席を確保する。甘い酒と華やかな装飾で飾り立てられた、欲望の見本市だ。
そして、その中心にいるのがソル=アンリだった。
ヴェルムート王国では、病床に伏した国王に代わり、王太子ソル=アンリが政務を取り仕切っている。
もはや、王の名で下される命令よりも、王太子の一言のほうが重い。
若き王太子の背後には、王国最大の勢力を誇る大貴族──ファミーユ家がいる。莫大な財力と広大な領地、王宮や教会にも通じる人脈を持つファミーユ家。その後ろ盾を得たソル=アンリは、父王が生きている今なお、実質的な王として王国を動かしていた。
そして人々は、いつしか病床の王ではなく、王太子の顔色をうかがうようになっていた。
ソル=アンリは、手にした杯を揺らしながら隣席の青年に声をかけた。
「なあ、エドワール。聞いたか?」
「何のことでしょう、殿下」
エドワール・ド・ヴェルモンは、背筋を伸ばして答えた。仕立ての良い礼服に身を包み、髪も隙なく整えている。いかにも貴族の子息らしい、如才ない青年だった。
その反対側では、ファティマ・ド・ファミーユがソル=アンリの腕に身を寄せている。王太子の正式な婚約者となった彼女は、葡萄酒の杯を片手に、穏やかな笑みを浮かべながら二人の会話に耳を傾けていた。
ソル=アンリはわざとらしく声を潜め、エドワールの目を覗き込む。
「あのリアーヌとかいう女だ。今では恩寵の館の娼婦だそうだぞ」
エドワールの表情が変わった。
ほんの一瞬だった。だが、ソル=アンリは見逃さなかった。
「……まさか。本当なのですか?」
「まさかも何も、大罪人の娘だからなぁ」
ソル=アンリは愉快そうに笑いながら、言葉を続ける。
「貴様の元婚約者は、今や誰にでも股を開く女になったというわけだ」
「殿下……」
エドワールは杯を握り直した。口元には笑みを保っているが、その目は笑っていなかった。動揺しているのか、それとも怒っているのか。あるいは、別の感情か──どれでも構わなかった。ソル=アンリにとって重要なのは、エドワールがリアーヌの話題に反応した、という事実だけだ。
リアーヌ・ド・ヴィエル。
かつてソル=アンリの愛人になることを拒んだ女。
その女が、今や国営娼館で客を取っている。彼女に客を選ぶ権利はない。
彼女について考えるだけで、笑いが込み上げてくる。
ソル=アンリはにやりと笑いながら、エドワールに問いかけた。
「あの女がどれほど落ちぶれたか、興味がないわけではなかろう?」
エドワールが答えに詰まると、ファティマが楽しげに声を添えた。
「でも、彼女……自分から指名を取ろうとはしないそうよ。きっと、誰かを待っているんだわ」
言ってから、ファティマはエドワールを見た。
ファティマの優しげな目元には、憐れみのような色が浮かんでいた。しかしソル=アンリには分かっている。彼女は心からエドワールに同情しているわけではない。彼女は、相手の心の隙間に忍び込むのが好きなのだ。
ファティマは、柔らかな声で続けた。
「……ねえ、エドワール。リアーヌに会いに行ってあげたら? 強がったところで、誰のためにもならないわよ?」
エドワールは答えなかった。
その沈黙を、ファティマは肯定とも拒絶とも受け取らず、ただ微笑んでいた。
ソル=アンリは、杯の中身を一口飲んだ。
そうだ。行けばいい。リアーヌの顔を見てくればいい。どれほど惨めな姿になったのか、その目で確かめればいいのだ。かつての婚約者がどんな扱いを受けているのかを目の当たりにすれば、未練も、優越感も、あるいは欲望も、何かしら刺激されるだろう。その先は、いくらでも誘導できる。
ソル=アンリは、エドワールの肩を軽く叩いた。
「貴様の財力なら、身請けもできるだろう。あるいは、現実を教えてやるのも悪くない」
エドワールが、ゆっくりとソル=アンリを見た。
「現実、ですか?」
「そうだ。落ちぶれた女など、もはや愛される価値すらないのだからな」
ソル=アンリは口角を吊り上げた。
エドワールは、何も言わずに杯を傾けた。
その沈黙が、ソル=アンリには心地よかった。
かつてリアーヌに拒まれたときのことを思い出す──あの女は、自分の申し出を断った。王太子の愛人になるという栄誉を、平然と拒んだのだ。婚約者がいるから、という理由で。まるで、自分の方が選ぶ立場にあるとでも言いたげに。
今となっては、笑い話にもならない。リアーヌはもう、選ぶ側ではない。どんな相手であろうと拒むことは許されない。そして誰かに選ばれなければ、あの館から出ることすらできないのだから。
「ははははは!」
ソル=アンリは、声を上げて笑った。
ファティマもそれに合わせて笑う。しかしエドワールだけは、杯を手にしたまま黙っていた。
その横顔を眺めながら、ソル=アンリはふと思った。あの女は後悔しているだろうか。あのとき、この男に操を立てて、自分の求愛を拒んだことを。そうであってほしいと思った。そうでなければならないと思った。しかしリアーヌのことを考えると、決まって別の顔が脳裏に浮かぶ。
ジェラール・ド・ヴィエル。あの男の顔だ。
あの男さえ、あのとき余計な口を挟まなければ──ソル=アンリは杯を置いた。葡萄酒の赤い色が、燭台の光を受けて揺れる。その色を見つめるうちに、彼の記憶は数年前のある日へと引き戻されていった。
天井から吊るされた幾つものシャンデリアが、磨き上げられた床と銀食器に光を散らしている。長卓には焼き菓子や果物、香辛料を利かせた肉料理が並び、給仕たちが絶え間なく葡萄酒を注いで回っていた。
貴族たちの笑い声が、弦楽器の奏でる軽やかな音色に重なる。
王宮で催される宴は、いつも似たようなものだった。
誰もが笑顔を浮かべ、誰もが互いの腹を探っている。忠誠を誓う者は王太子の機嫌をうかがい、将来の地位を求める者は有力者の隣に席を確保する。甘い酒と華やかな装飾で飾り立てられた、欲望の見本市だ。
そして、その中心にいるのがソル=アンリだった。
ヴェルムート王国では、病床に伏した国王に代わり、王太子ソル=アンリが政務を取り仕切っている。
もはや、王の名で下される命令よりも、王太子の一言のほうが重い。
若き王太子の背後には、王国最大の勢力を誇る大貴族──ファミーユ家がいる。莫大な財力と広大な領地、王宮や教会にも通じる人脈を持つファミーユ家。その後ろ盾を得たソル=アンリは、父王が生きている今なお、実質的な王として王国を動かしていた。
そして人々は、いつしか病床の王ではなく、王太子の顔色をうかがうようになっていた。
ソル=アンリは、手にした杯を揺らしながら隣席の青年に声をかけた。
「なあ、エドワール。聞いたか?」
「何のことでしょう、殿下」
エドワール・ド・ヴェルモンは、背筋を伸ばして答えた。仕立ての良い礼服に身を包み、髪も隙なく整えている。いかにも貴族の子息らしい、如才ない青年だった。
その反対側では、ファティマ・ド・ファミーユがソル=アンリの腕に身を寄せている。王太子の正式な婚約者となった彼女は、葡萄酒の杯を片手に、穏やかな笑みを浮かべながら二人の会話に耳を傾けていた。
ソル=アンリはわざとらしく声を潜め、エドワールの目を覗き込む。
「あのリアーヌとかいう女だ。今では恩寵の館の娼婦だそうだぞ」
エドワールの表情が変わった。
ほんの一瞬だった。だが、ソル=アンリは見逃さなかった。
「……まさか。本当なのですか?」
「まさかも何も、大罪人の娘だからなぁ」
ソル=アンリは愉快そうに笑いながら、言葉を続ける。
「貴様の元婚約者は、今や誰にでも股を開く女になったというわけだ」
「殿下……」
エドワールは杯を握り直した。口元には笑みを保っているが、その目は笑っていなかった。動揺しているのか、それとも怒っているのか。あるいは、別の感情か──どれでも構わなかった。ソル=アンリにとって重要なのは、エドワールがリアーヌの話題に反応した、という事実だけだ。
リアーヌ・ド・ヴィエル。
かつてソル=アンリの愛人になることを拒んだ女。
その女が、今や国営娼館で客を取っている。彼女に客を選ぶ権利はない。
彼女について考えるだけで、笑いが込み上げてくる。
ソル=アンリはにやりと笑いながら、エドワールに問いかけた。
「あの女がどれほど落ちぶれたか、興味がないわけではなかろう?」
エドワールが答えに詰まると、ファティマが楽しげに声を添えた。
「でも、彼女……自分から指名を取ろうとはしないそうよ。きっと、誰かを待っているんだわ」
言ってから、ファティマはエドワールを見た。
ファティマの優しげな目元には、憐れみのような色が浮かんでいた。しかしソル=アンリには分かっている。彼女は心からエドワールに同情しているわけではない。彼女は、相手の心の隙間に忍び込むのが好きなのだ。
ファティマは、柔らかな声で続けた。
「……ねえ、エドワール。リアーヌに会いに行ってあげたら? 強がったところで、誰のためにもならないわよ?」
エドワールは答えなかった。
その沈黙を、ファティマは肯定とも拒絶とも受け取らず、ただ微笑んでいた。
ソル=アンリは、杯の中身を一口飲んだ。
そうだ。行けばいい。リアーヌの顔を見てくればいい。どれほど惨めな姿になったのか、その目で確かめればいいのだ。かつての婚約者がどんな扱いを受けているのかを目の当たりにすれば、未練も、優越感も、あるいは欲望も、何かしら刺激されるだろう。その先は、いくらでも誘導できる。
ソル=アンリは、エドワールの肩を軽く叩いた。
「貴様の財力なら、身請けもできるだろう。あるいは、現実を教えてやるのも悪くない」
エドワールが、ゆっくりとソル=アンリを見た。
「現実、ですか?」
「そうだ。落ちぶれた女など、もはや愛される価値すらないのだからな」
ソル=アンリは口角を吊り上げた。
エドワールは、何も言わずに杯を傾けた。
その沈黙が、ソル=アンリには心地よかった。
かつてリアーヌに拒まれたときのことを思い出す──あの女は、自分の申し出を断った。王太子の愛人になるという栄誉を、平然と拒んだのだ。婚約者がいるから、という理由で。まるで、自分の方が選ぶ立場にあるとでも言いたげに。
今となっては、笑い話にもならない。リアーヌはもう、選ぶ側ではない。どんな相手であろうと拒むことは許されない。そして誰かに選ばれなければ、あの館から出ることすらできないのだから。
「ははははは!」
ソル=アンリは、声を上げて笑った。
ファティマもそれに合わせて笑う。しかしエドワールだけは、杯を手にしたまま黙っていた。
その横顔を眺めながら、ソル=アンリはふと思った。あの女は後悔しているだろうか。あのとき、この男に操を立てて、自分の求愛を拒んだことを。そうであってほしいと思った。そうでなければならないと思った。しかしリアーヌのことを考えると、決まって別の顔が脳裏に浮かぶ。
ジェラール・ド・ヴィエル。あの男の顔だ。
あの男さえ、あのとき余計な口を挟まなければ──ソル=アンリは杯を置いた。葡萄酒の赤い色が、燭台の光を受けて揺れる。その色を見つめるうちに、彼の記憶は数年前のある日へと引き戻されていった。