奴隷娼婦の成り上がり
第9話『灰の奉仕者』
まだ街路に人影もまばらな時刻。館内の魔術灯は夜の名残を淡く照らし、磨き上げられた大理石の床には、窓から差し込むかすかな朝日が細長い影を落としていた。
十一月の冷気は、建物の中にも忍び込んでくる。館内を暖める魔術暖房は、最後の客の帰宅とともにその動きを止めた。石造りの壁も、廊下に敷かれた床材も、触れればひやりとしそうな冷たさを帯びている。息を吐けば白くなりそうなほどではないが、薄着で長く過ごすには心もとない。
長い銀の髪を束ね、灰色のメイド服を着たリアーヌは、両手で抱えた金属製の水桶を床に置いた。中には水と、洗浄用の薬剤が入っている。桶の縁を握っていた指が、じんわりと痛んでいた。慣れない仕事だった。貴族令嬢として育った頃に経験するようなものではない。だが、今の彼女に与えられているのは、こうした下働きだった。
恩寵の館に入った女性は、かつての身分に関係なく、《灰の奉仕者》から始まる。それはこの館における最下級の娼婦だった。個室はなく、仕切り板で区切られた共同寝室で生活する。客を迎える前の準備や館内の雑務も、彼女たちの役目だった。
恩寵の館の娼婦には、階級がある。《灰の奉仕者》の上は《夜の侍女》。《夜の侍女》となって初めて一人前と認められ、簡素ながらも個室を与えられる。
その上位には《薔薇の乙女》。彼女たちは豪華な個室を与えられ、貴族や聖職者の愛人として長期間貸し出されることもある。そして客を選ぶ権利も与えられる。
そして最上位が、《神聖なる伴侶》。王族や高位聖職者にのみ仕える、館の花形娼婦である。しかし客の寵愛を失えば階級を落とされるし、高額の恩寵金を支払って身請けする者が現れるまでは、娼婦をやめることはことはできない。
華やかな呼び名の裏にあるのは、細かく定められた序列と、決して自由にはならない暮らしだった。
リアーヌは水桶に手を浸し、布を絞った。
エントランスホールの床を拭き、廊下の手すりを磨く。客が使う場所だけではない。従業員用の通路や、娼婦たちが待機する場所も、開店までに整えておかなければならなかった。
かつて公爵令嬢だった自分が、今は床に膝をついている。初義教育期間中は、その事実に、惨めな気分になった。けれど、今は違う。自分は汚れてしまったけれど、床は磨けば綺麗になる。そう考えると、いくらか気持ちは楽になった。
「そこ、まだ汚れているわよ」
背後から声がした。リアーヌは手を止め、振り返った。
廊下の向こうに、ひとりの女性が立っていた。
年齢はリアーヌより少し上だろうか。リアーヌと同じ灰色のメイド服を着ているが、癖のある長い金髪はハーフアップに結わえられ、完全には束ねられていない。そしてその表情には、他人の粗を探すことに慣れた者特有の険しさがあった。
イレーヌ──それが、彼女の名前だった。彼女とは、かつて社交界で顔を合わせたことがある。恩寵の館で再会したとき、リアーヌは彼女の名を呼んだ。それが彼女の逆鱗に触れた。彼女のここでの名前は『アイリーン』。本名で呼ばれることを嫌う彼女は、以降、リアーヌに当たり散らすようになった。
リアーヌは布を持ち直し、イレーヌに答えた。
「申し訳ありません。拭き直します」
「申し訳ありません、ですって? 本当に反省している人は、言い訳より先に手を動かすものよ」
イレーヌはせせら笑う。
リアーヌは返事をせず、床に向き直った。
布を動かす。水気を絞り、汚れを落とす。言われたとおりに、同じ場所をもう一度拭いた。イレーヌは何もせず、その様子をじっと見ていた。
「あなた、元は公爵令嬢だったのでしょう?」
「……はい」
「それなのに、客を取るなんて。あなたには貴族の誇りがないの?」
「……それが今の私の仕事ですから」
リアーヌは顔を上げずに答えた。
好き好んで客を取ったわけではない。指名されたのだ。自分のことを一方的に知る相手から。しかしそれを言ったところで、イレーヌは納得しないだろう。リアーヌは床をこすり続けた。
イレーヌはその場から動かない。
苛立ちと侮蔑がないまぜになった彼女の甲高い声が、頭の上から降ってくる。
「あなた、自分が何を言っているのか、わかっているの? 私たちは、貴族の娘なのよ。どれほど落ちぶれようと、誇りを捨ててはならないのよ」
「……捨てたつもりはありません」
「だったら、どうしてそんなに平然としていられるの! 女を金で買うような男に媚びるなんて。どこまで汚らわしい女なのかしら」
リアーヌは答えなかった。
何も感じないわけではない。悔しさも、屈辱も、怒りもある。両親を奪われ、家を失い、望みもしない場所に閉じ込められ、見知らぬ男の相手をさせられた。悔しくて仕方がない。できることなら今すぐにでもこの館を破壊したいほどだ。それでも自分の感情を誰かと共有する気にはなれない。ましてイレーヌのような相手ともなると尚更だ。
イレーヌは、この館でもっとも古い《灰の奉仕者》だった。
館に入ったばかりの女性は、一定の教育を受けた後に客を迎え始める。そして接客の実績や館の評価によって、上の階級へと進んでいく。だが、イレーヌは客を取ろうとしない。だから、いつまで経っても《灰の奉仕者》のままだ。この館でもっとも客を取れない娼婦、それがイレーヌという女だ。しかし本人に、それを恥じている様子はない。むしろ、他の娼婦を見下し、自分だけは彼女たちとは違うと信じているようだった。
リアーヌは、胸の奥に冷たいものが広がるのを感じた。
自分を哀れむだけなら、まだ理解できる。けれど、同じ境遇に置かれた女性を見下しながら、自分だけは誇り高く綺麗なままだと信じている。その身勝手さが、どうにも我慢ならなかった。
ふたたびイレーヌの声が上から降ってくる。
「ねえ、あなた」
「……何でしょう?」
「その水、もう汚れているわよ。取り替えてきなさい」
リアーヌは桶を見た。
確かに、水は黒ずんでいた。床の汚れを落としたのだから、当然だ。
「分かりました」
「それから、私の分まで運んでおいてちょうだい。私は別の仕事があるから」
イレーヌは、そう言って手にした布をリアーヌに投げつけた。
リアーヌの顔に当たった布が、床に落ちる。リアーヌは一瞬、動きを止めた。イレーヌは当然のように、リアーヌがそれを拾うのを待っている。なんて腹立しい態度なのだろう。客を取れない娼婦。最下層の娼婦の中で、もっとも劣った娼婦のくせに──
けれど、ここで逆らっても何も得られない。リアーヌは布を拾った。
「承知しました」
イレーヌは満足そうに頷くと、廊下の向こうへ去っていった。
その背中を見つめながら、リアーヌは悟った。
私は汚れた。でも、だからといって身請けされることを諦めれば、こんな女にいびられ続けるだけの人生になる。汚れたからといって、自虐する必要はない。エドワールはきっと来てくれる。ヴェルムート王国の貴族の娘として、将来の伴侶に好かれるための教育を受けてきたのだから──
──私はあなたよりも先に身請けされて、ここを出る。
リアーヌはイレーヌの背をにらみつけた。
十一月の冷気は、建物の中にも忍び込んでくる。館内を暖める魔術暖房は、最後の客の帰宅とともにその動きを止めた。石造りの壁も、廊下に敷かれた床材も、触れればひやりとしそうな冷たさを帯びている。息を吐けば白くなりそうなほどではないが、薄着で長く過ごすには心もとない。
長い銀の髪を束ね、灰色のメイド服を着たリアーヌは、両手で抱えた金属製の水桶を床に置いた。中には水と、洗浄用の薬剤が入っている。桶の縁を握っていた指が、じんわりと痛んでいた。慣れない仕事だった。貴族令嬢として育った頃に経験するようなものではない。だが、今の彼女に与えられているのは、こうした下働きだった。
恩寵の館に入った女性は、かつての身分に関係なく、《灰の奉仕者》から始まる。それはこの館における最下級の娼婦だった。個室はなく、仕切り板で区切られた共同寝室で生活する。客を迎える前の準備や館内の雑務も、彼女たちの役目だった。
恩寵の館の娼婦には、階級がある。《灰の奉仕者》の上は《夜の侍女》。《夜の侍女》となって初めて一人前と認められ、簡素ながらも個室を与えられる。
その上位には《薔薇の乙女》。彼女たちは豪華な個室を与えられ、貴族や聖職者の愛人として長期間貸し出されることもある。そして客を選ぶ権利も与えられる。
そして最上位が、《神聖なる伴侶》。王族や高位聖職者にのみ仕える、館の花形娼婦である。しかし客の寵愛を失えば階級を落とされるし、高額の恩寵金を支払って身請けする者が現れるまでは、娼婦をやめることはことはできない。
華やかな呼び名の裏にあるのは、細かく定められた序列と、決して自由にはならない暮らしだった。
リアーヌは水桶に手を浸し、布を絞った。
エントランスホールの床を拭き、廊下の手すりを磨く。客が使う場所だけではない。従業員用の通路や、娼婦たちが待機する場所も、開店までに整えておかなければならなかった。
かつて公爵令嬢だった自分が、今は床に膝をついている。初義教育期間中は、その事実に、惨めな気分になった。けれど、今は違う。自分は汚れてしまったけれど、床は磨けば綺麗になる。そう考えると、いくらか気持ちは楽になった。
「そこ、まだ汚れているわよ」
背後から声がした。リアーヌは手を止め、振り返った。
廊下の向こうに、ひとりの女性が立っていた。
年齢はリアーヌより少し上だろうか。リアーヌと同じ灰色のメイド服を着ているが、癖のある長い金髪はハーフアップに結わえられ、完全には束ねられていない。そしてその表情には、他人の粗を探すことに慣れた者特有の険しさがあった。
イレーヌ──それが、彼女の名前だった。彼女とは、かつて社交界で顔を合わせたことがある。恩寵の館で再会したとき、リアーヌは彼女の名を呼んだ。それが彼女の逆鱗に触れた。彼女のここでの名前は『アイリーン』。本名で呼ばれることを嫌う彼女は、以降、リアーヌに当たり散らすようになった。
リアーヌは布を持ち直し、イレーヌに答えた。
「申し訳ありません。拭き直します」
「申し訳ありません、ですって? 本当に反省している人は、言い訳より先に手を動かすものよ」
イレーヌはせせら笑う。
リアーヌは返事をせず、床に向き直った。
布を動かす。水気を絞り、汚れを落とす。言われたとおりに、同じ場所をもう一度拭いた。イレーヌは何もせず、その様子をじっと見ていた。
「あなた、元は公爵令嬢だったのでしょう?」
「……はい」
「それなのに、客を取るなんて。あなたには貴族の誇りがないの?」
「……それが今の私の仕事ですから」
リアーヌは顔を上げずに答えた。
好き好んで客を取ったわけではない。指名されたのだ。自分のことを一方的に知る相手から。しかしそれを言ったところで、イレーヌは納得しないだろう。リアーヌは床をこすり続けた。
イレーヌはその場から動かない。
苛立ちと侮蔑がないまぜになった彼女の甲高い声が、頭の上から降ってくる。
「あなた、自分が何を言っているのか、わかっているの? 私たちは、貴族の娘なのよ。どれほど落ちぶれようと、誇りを捨ててはならないのよ」
「……捨てたつもりはありません」
「だったら、どうしてそんなに平然としていられるの! 女を金で買うような男に媚びるなんて。どこまで汚らわしい女なのかしら」
リアーヌは答えなかった。
何も感じないわけではない。悔しさも、屈辱も、怒りもある。両親を奪われ、家を失い、望みもしない場所に閉じ込められ、見知らぬ男の相手をさせられた。悔しくて仕方がない。できることなら今すぐにでもこの館を破壊したいほどだ。それでも自分の感情を誰かと共有する気にはなれない。ましてイレーヌのような相手ともなると尚更だ。
イレーヌは、この館でもっとも古い《灰の奉仕者》だった。
館に入ったばかりの女性は、一定の教育を受けた後に客を迎え始める。そして接客の実績や館の評価によって、上の階級へと進んでいく。だが、イレーヌは客を取ろうとしない。だから、いつまで経っても《灰の奉仕者》のままだ。この館でもっとも客を取れない娼婦、それがイレーヌという女だ。しかし本人に、それを恥じている様子はない。むしろ、他の娼婦を見下し、自分だけは彼女たちとは違うと信じているようだった。
リアーヌは、胸の奥に冷たいものが広がるのを感じた。
自分を哀れむだけなら、まだ理解できる。けれど、同じ境遇に置かれた女性を見下しながら、自分だけは誇り高く綺麗なままだと信じている。その身勝手さが、どうにも我慢ならなかった。
ふたたびイレーヌの声が上から降ってくる。
「ねえ、あなた」
「……何でしょう?」
「その水、もう汚れているわよ。取り替えてきなさい」
リアーヌは桶を見た。
確かに、水は黒ずんでいた。床の汚れを落としたのだから、当然だ。
「分かりました」
「それから、私の分まで運んでおいてちょうだい。私は別の仕事があるから」
イレーヌは、そう言って手にした布をリアーヌに投げつけた。
リアーヌの顔に当たった布が、床に落ちる。リアーヌは一瞬、動きを止めた。イレーヌは当然のように、リアーヌがそれを拾うのを待っている。なんて腹立しい態度なのだろう。客を取れない娼婦。最下層の娼婦の中で、もっとも劣った娼婦のくせに──
けれど、ここで逆らっても何も得られない。リアーヌは布を拾った。
「承知しました」
イレーヌは満足そうに頷くと、廊下の向こうへ去っていった。
その背中を見つめながら、リアーヌは悟った。
私は汚れた。でも、だからといって身請けされることを諦めれば、こんな女にいびられ続けるだけの人生になる。汚れたからといって、自虐する必要はない。エドワールはきっと来てくれる。ヴェルムート王国の貴族の娘として、将来の伴侶に好かれるための教育を受けてきたのだから──
──私はあなたよりも先に身請けされて、ここを出る。
リアーヌはイレーヌの背をにらみつけた。