奴隷娼婦の成り上がり

第11話『宴と追悼、ファティマの囁き』【2】

 王宮の一角に設けられた聖堂は、地上の俗世から切り離された神聖な空間を思わせた。高くそびえる円形の壁は、頭上でなだらかなドームを形作り、その天井一面を色鮮やかなステンドグラスが覆っている。聖人たちの姿や聖エリオス教の象徴を描いたガラス絵を透かした陽光が、赤、青、緑、黄金色の光となって床や柱に降り注ぐ。しかしソル=アンリには、その美しさが鬱陶しかった。
 聖堂には、厳かな空気が満ちている。高い天井を支える石柱の間には、戦没者を悼むための白い花が並んでいる。祭壇の前には、戦場で命を落とした騎士たちの名を記した銘板が並び、参列した貴族や聖職者たちは、静かに祈りを捧げていた。
 ソル=アンリは、王太子として最前列に座っていた。退屈だった。辺境で起きた反乱が鎮圧されたことは知っている。だが、誰がどこで戦い、どれほどの犠牲を払ったのかなどといった話は、彼にとってはどうでもよかった。

 戦死者の名前を読み上げる声が、延々と続く。
 そのたびに、参列者たちは神妙な面持ちで頭を垂れた。
 ソル=アンリも、形だけはそれに倣った。
 王太子として、そうする必要があるからだった。

 やがて、聖職者の一人が戦役の経緯を語り始めた。王国軍がいかに苦境に立たされたか。兵士たちがいかに勇敢に戦ったか。そして、彼らの犠牲によって、いかにして勝利がもたらされたか。
 聞き飽きた美辞麗句だった。ソル=アンリは、隣に座る貴族の方へと視線を向けた。相手は彼の視線に気づくと、慌てて笑みを浮かべる。その反応に満足しかけたとき、祭壇の方から聞こえてきた名前が、彼の意識を引き戻した。

「……エルンスト・ド・ラグレーヌ卿」

 ソル=アンリの眉が、わずかに動く。
 エルンスト。平民出身の騎士でありながら、戦場で功績を挙げ、爵位まで授けられた男。そして、かつてソル=アンリに向かって、王の器にあらずと断じた男──あの無礼な騎士は、もうこの世にいない。
 反乱軍との戦いで戦死したと聞いたとき、ソル=アンリは少なからず胸を撫で下ろしたものだった。王太子に対して不遜な態度を取る者が、王国の英雄として称賛され続けるのは、面白くない。
 それなのに、今もこうして、死者の中でひときわ大きな敬意を集めている。
 気に入らない。そんなソル=アンリの内心をよそに、聖職者の言葉が続く。

「……彼の決断がなければ、戦役は今なお続いていたことでしょう。自らの命を顧みず、仲間たちを導いたその姿は、まさに騎士の鑑でありました」

 ソル=アンリは、舌打ちをしたくなった。
 何が騎士の鑑だ。死んだからといって、特別扱いか。くだらん。内心で唾棄する彼の耳に、エルンストを賞賛する新たな声が聞こえてくる。

「エルンスト卿の戦いぶりは、実に見事だった」

 ソル=アンリは目だけを動かし、声の主を見た。
 ジェラール・ド・ヴィエル公爵。軍務大臣であり、王国軍の指揮にも深く関わっていた男だった。落ち着いた物腰の彼は、重臣らしい威厳を備えている。王宮では、彼に一目置く者も少なくなかった。
 ジェラールは、祭壇に向けていた視線をそのままに、言葉を続ける。

「彼のような騎士がいたからこそ、我々は勝利を得ることができた」

 ソル=アンリは、眉間に皺を寄せた。
 またエルンストを持ち上げる者が出たか。生きていた頃も、死んでからも、あの男の名前を聞かされるとは。これ以上は我慢ならない。ソル=アンリは、参列者全員に聞こえるよう、大きな声で言った。

「……命を賭けて戦ったのは結構だがな。死んだということは、よほど分をわきまえていなかったのだろう」

 沈黙が落ちた。ソル=アンリは、周囲の反応を眺めた。誰もが驚き、何か言いたげな顔をしている。だが、王太子である彼に、面と向かって異を唱える者はいなかった。
 その様子を見て、彼は気をよくした。

「エルンストは、この私に対し、王の器にあらずなどと暴言を吐くような男だった。神罰が下ったに違いあるまい」

 ソル=アンリは、ジェラールの方へと顔を向けた。

「そうは思わんか?」

 ジェラールの表情が変わった。
 それまで穏やかだった目が、鋭く細くなる。

「……それが、この国のために犠牲になった者に対する言葉か!」

 ソル=アンリは、思わず身を固くした。
 ジェラールは立ち上がっていた。

「殿下といえど、聞き捨てならん!」

 聖堂の空気が、一瞬にして凍りついた。
 ソル=アンリは、周囲を見回した。貴族たちが息を呑んでいる。何人かは、ジェラールを止めるべきか迷っているようだった。だが、別の者たちは、胸の内を代弁してもらったかのような顔をしている。
 居並ぶ彼らの表情が、何よりも気に入らなかった。
 自分が叱責されている。大勢の人間が見ている前で。王太子に仕えるべき臣下の一人にすぎないような相手に、生まれながらの支配者である、この、未来の王が! それを意識したとき、ソル=アンリの腹の奥から怒りが込み上げてきた。

「貴様……」

 王太子に凄まれても、ジェラールは怯まなかった。

「エルンスト卿は、王国のために命を捧げたのです。それを神罰などと呼ぶことは、彼の犠牲を侮辱するばかりか、戦場で命を落としたすべての者への侮辱でもあります!」

 言い返そうとしたソル=アンリの口が、わずかに開いたまま止まった。
 正論だった。だからこそ、腹が立った。ジェラールの言葉に、反論できる者などいない。戦没者を悼む式典で、戦死者を侮辱した王太子を、誰が擁護できるというのか。
 ソル=アンリは拳を握りしめ、強引に論点を変えながら、ジェラールを怒鳴りつけた。

「き、貴様は……国家に反逆するのか! 王の器にあらずだと! ならば誰を王にする! 王位継承権第二位の王弟アヴィリオか!」

 アヴィリオ。その名を口にした途端、ソル=アンリの胸の奥に別の感情が湧いた。
 自分よりも人望があり、容姿にも恵まれ、貴族たちからの評判も良い王弟アヴィリオ。ソル=アンリは、彼のことを考えるたびに、言いようのない苛立ちを覚える。実際のアヴィリオは敬虔なエリオス教徒で、王位に興味を示さない。それを知っていてもなお、『ジェラールをはじめとする多くの貴族が、アヴィリオを支持しているのではないか』──そんな疑念が、ソル=アンリの中で渦巻いている。彼は己の疑心暗鬼を、怒りに任せてぶちまけた。

「ジェラール・ド・ヴィエル! 貴様は、俺の統治する国に内乱を起こしたいのか!」

 ジェラールは、歯を食いしばった。
 そして、しばらくの沈黙の後、静かに目を閉じ、ひと呼吸。次に目を開いたとき、彼の表情から怒りは消えていた。

「……申し訳ございません。言葉が過ぎました」

 ジェラールは、深く頭を下げた。

「私は内乱など望んでおりません。ただ……殿下には、善き王になっていただきたいのです」

 その言葉を聞いた瞬間、ソル=アンリの顔から表情が消えた。
 善き王。まるで、今の自分がそうではないとでも言いたげな言葉だ。
 ジェラールは謝罪した。周囲の貴族たちも、再び静かに頭を垂れている。
 式典は、何事もなかったかのように続けられるだろう。
 だが、ソル=アンリの中では、何一つ終わっていなかった。
 恥をかかされた。王太子である自分が、臣下の前で。しかも、ジェラールは自分を正しい立場に置いたまま、最後には善き王になれと説教までしてみせた。何様のつもりだ。ソル=アンリは、ジェラールの背中を睨みつけた。

 ──いつか必ず、思い知らせてやる。

 ジェラールの背中は堂々としており、少しも怯えていなかった。
 ソル=アンリにはそれが、どうしようもなく憎らしかった。
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