奴隷娼婦の成り上がり

第3話『公爵令嬢は娼婦になった』

 歓楽街の大通りに面して建つ恩寵の館は、娼館とは思えない荘厳な建物だった。
 淡い色の石壁には精緻な装飾が施され、正面玄関の両脇には武装した衛兵が立っている。下層階に並ぶ大きな窓には牢獄を思わせる鉄格子が嵌まり、その向こうには初々しい娼婦たちの姿が見える。上層階には優雅なバルコニーが張り出し、小窓には色鮮やかなステンドグラス。そこに現れる娼婦たちは艶やかで、通りを歩く男たちに嫣然と微笑みかけていた。夜になると建物全体が魔導灯によって照らし出され、歓楽街の中でもひときわ華やかな光を放つ。
 この場所に連れてこられたとき、リアーヌは自分の身に起きたことを何度も否定しようとした。何かの間違いに違いない。父が、きっと助けてくれる。婚約者のエドワールが事情を知れば、すぐに迎えに来てくれる。そう考えなければ、目の前の現実を受け入れることなどできなかった。
 しかし、父はもういない。異端の濡れ衣を着せられ、茶番のような裁判の果てに死刑判決を下され、すみやかに処刑が執行された。そしてリアーヌもまた、異端の血を引く者として扱われた。貴族としての身分も、婚約者との約束も、何ひとつとして彼女を守ってはくれなかった。選択権は与えられなかった。罪を犯した者や、身寄りを失った者に働く場所を与え、社会復帰の機会を授ける──そんな建前を押しつけられ、恩寵の館の娼婦となった。

 講習室の扉が閉じると、廊下の物音が遠のいた。
 その部屋は、恩寵の館の華やかな客室とは趣が違っていた。壁には落ち着いた色合いの植物模様が描かれ、窓には厚手のカーテンが掛かっている。壁際には小さな棚と水差し、清潔な布が用意され、部屋の中央にはベッドと椅子。天井近くの魔術灯が、室内を均一に照らしている。
 飾り立てられた調度品も、客を喜ばせるための香りもない。講習室と呼ばれるこの部屋は、客を迎えるための場所ではなく、娼婦として働くための知識を身につける場所だった。
 悪い夢だと思いたかった。しかし痛みを感じても夢から覚めることはない。『良き妻になりなさい』とリアーヌに何度も言ったはずの母は、父の処刑を待たずに自害してこの世を去った。取り残された自分には、体以外に何も残っていなかった。

「──これで、今日の講習は終わりよ」

 教育係のセレーネの声に、リアーヌは顔を上げる。
 三十代半ばを過ぎた彼女は、恩寵の館のかつての人気娼婦だった。身請けの話をすべて断り、特例として認められる形で、娼婦の教育係になったという。彼女の隣には、講習に協力した男性従業員が立っている。教会から派遣された彼は終始、セレーネの指示に従い、リアーヌが戸惑ったときには待ってくれた。必要以上に踏み込むことも、リアーヌの反応を面白がることもなかった。
 それが館の定めた手順なのだと、リアーヌは理解していた。
 恩寵の館では、処女の娘に、いきなり客の相手をさせることはない。初めての経験が恐怖や苦痛だけの記憶にならないよう、まず教育係から知識を教わり、男性従業員を交えた実地講習を受ける。その場にはセレーネが立ち会い、進行を管理する。そうした段階を踏むことで、新人を客の前に出せる状態へと導くのだった。

「今日、教えたことを整理しておきましょう」

 セレーネは椅子に腰掛けると、リアーヌにも向かいの席を勧めた。

「まず、身体の仕組みと、無理をしてはいけないということ。痛みや不調を我慢するのが、よい奉仕ではないわ。自分の状態を把握して、異変があれば伝えること。相手に合わせることと、何もかも黙って耐えることは違うのよ」
「……わかりました」

 リアーヌは静かに頷いた。
 講習では、男女の身体についての基礎知識だけでなく、初めての接客で気をつけるべきことも説明された。相手の言葉や態度を観察すること。戸惑ったときに何を確認すべきか。自分ひとりで判断できない場合には、館の従業員に相談すること。そして、客の望みを理解しようと努める一方で、体調や状況を無視してまで相手に従うべきではないということも。
 講習の実地部分では、セレーネの指示のもと、相手との距離の取り方や接し方を確かめた。リアーヌが動きを止めれば、セレーネが理由を尋ね、必要な点を説明する。男性従業員も、リアーヌが理解できているかを確認しながら、落ち着いて協力していた。
 そこに、恋人同士の親密さはない。あるのは、教える者と学ぶ者、そして手順を確認するために協力する者の関係だけだ。
 リアーヌにとって、それは安堵できることでもあり、現実を突きつけられることでもあった。彼女は、貴族の娘だった。礼儀作法を学び、社交の場で恥をかかないように振る舞い、将来の婚姻に備えて教育を受けてきた。男女の関係について、こんなふうに──知らない人から実地を交えて教えられる日が来るなんて、考えもしなかった。
 しかし、今は違う。ここで教わることは、これからの日々に直結している。目を背けたところで、現実は変わらない。

「疲れたでしょう。大浴場で体を洗ってから、部屋に戻りなさい」
「はい。ありがとうございました、セレーネ様」

 リアーヌは立ち上がり、教えられたとおりに一礼した。
 扉へ向かう途中、ふと振り返る。
 講習室は、静けさを取り戻していた。寝台も椅子も、棚に並ぶ道具も、何事もなかったかのようにそこにある。ここで学んだことも、やがて日々の仕事の一部になっていくのだろうか。リアーヌは軽く息を吐いた。娼婦の仕事に慣れる日が来るとは、とうてい思えなかった。

          ◇

 湯から上がったリアーヌは、濡れた髪を肩に垂らしたまま、浴室の壁に手をついた。
 身体の芯まで温まっているはずなのに、寒気が消えなかった。
 湯船の水面に映る天井の明かりが揺れている。花の香りを移した湯は、肌にまとわりつくように滑らかだった。磨き上げられた大理石の床も、壁に飾られた繊細な彫刻も、どこかの貴族の屋敷にある浴室と変わらないほど立派なものだった。
 けれど、リアーヌには、そのすべてがひどく汚らわしく思えた。

 ここは、恩寵の館。『恩寵』とは、神の慈悲を意味する言葉だ。しかしリアーヌはもう知っている。この館の女性たちに、自由などない。門の外に出ることは許されず、外部との連絡も厳しく制限される。館の規則に従い、割り当てられた仕事をこなし、客の求めに応じる。拒めば罰が待っている。
 逃げようとしても、行き場はない。神の慈悲など、どこにもない。
 恩寵の館は、娼館の名を借りた牢獄だった。

 リアーヌは湯船から視線をそらし、あの日のことを思い出す。
 教会から派遣された使者がヴィエル公爵家の屋敷を訪れ、父や自分に異端の濡れ衣を着せた日のことを。
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