奴隷娼婦の成り上がり
第4話『異端の烙印』【1】
その日、ヴィエル公爵家の屋敷に、教会の使者が訪れた。
リアーヌは父の隣に立ち、応接室の入り口に並ぶ一団を見つめていた。
中央に立つのは、教会の査問官らしき男。その両脇には、武装した騎士が控えている。彼らの表情には、訪問先への礼儀も、突然の来訪を詫びる様子もなかった。
査問官が巻紙を広げ、叩きつけるように告げる。
「ジェラール・ド・ヴィエル殿。教皇庁の命により、異端擁護および教会命令違反の嫌疑を申し渡す」
それはリアーヌの父ジェラールを罪人として拘束するための通達だった。
リアーヌは思わず父を見上げた。異端擁護。教会命令違反。どちらも、彼女には縁のない言葉だった。
父は驚いた様子を見せなかった。椅子から立ち上がり、査問官をまっすぐに見据える。
「……その根拠は?」
「貴殿の娘、リアーヌ嬢が、王立庭園にて魔術を用いたとの報告が寄せられた」
「え……?」
寝耳に水だった。リアーヌは声を漏らした。
王立庭園を訪れたことはある。王宮を訪れた際に、庭園を散策しただけだ。花を眺め、木々の間を歩き、時折、知人と挨拶を交わした。魔術など使った覚えはない。
査問官はリアーヌの戸惑いなど無視して言葉を続ける。
「特に、人ならざる挙動である《無音歩法》の目撃があり、これを放置したことは教会報告義務違反にあたる」
「そんな……。私はただ、足音を立てないように気をつけていただけです。庭園で人とすれ違うときに、驚かせないように……」
言いながら、リアーヌは自分の言葉がひどく頼りなく聞こえることに気づいた。
足音を立てないように歩く。それは、幼い頃から身についた癖だった。屋敷の廊下を歩くとき、書斎で読書をする父の邪魔をしないように。母が休んでいるとき、静かに部屋を出入りできるように。特別なことをしたつもりはない。それが魔術だなどと、考えたこともなかった。
父がリアーヌの肩に手を置いた。
「大丈夫だ。お前は何も心配しなくていい」
その声を聞いて、リアーヌはようやく息をついた。
父はいつも、彼女が困ったときにそう言ってくれた。幼い頃、初めて舞踏会で失敗したときも。家庭教師に厳しく叱られ、泣きながら書斎へ駆け込んだときも。
父がそう言ってくれるなら、きっと大丈夫だ。
しかし、父の視線はすぐに査問官へと戻った。
「他者への配慮を異端と断ずるなど、言語道断だ」
「判断はまだ下されていない。魔術資質検査にて事実を確認する。明朝、リアーヌ嬢を信仰調律院までお連れいただきたい」
査問官は眉ひとつ動かさずに答えた。
その言葉に、リアーヌの背筋が冷えた。
信仰調律院。聖エリオス教の総本山である神聖都市サンクトゥス=ミラにある教会の施設であり、魔術に関する検査や審問が行われる場所だと聞いている。そこへ連れていかれるということは、異端の疑いを正式にかけられたということだった。
リアーヌは父の袖を握った。
「お父様……」
父はリアーヌを振り返り、静かにうなずいた。
「心配はいらない。事実を調べれば、すぐに誤解だと分かる」
その言葉を、リアーヌは信じた。信じるほかなかった。
翌朝、彼女は両親とともに信仰調律院へ向かった。聖堂を思わせる白い石造りの建物は、サンクトゥス=ミラの中心から少し離れた場所に建っていた。高い尖塔が空を突き、正面の大扉には聖エリオス教の紋章が刻まれていた。
荘厳な外観とは裏腹に、建物の周囲には武装した騎士が立っている。
リアーヌは父の腕にそっと触れた。
「お父様。ここで、何をするのでしょうか?」
「魔術の資質を調べるのだろう。お前が何もしていないことは、私がよく知っている」
父は穏やかに答えた。
その言葉に励まされながらも、リアーヌの胸には不安が残った。
知らないうちに、何かをしてしまっていたのだろうか。もし本当に魔術を使っていたのだとしたら、それはどんな力なのだろう。そして、教会はそれをどう判断するのだろう。教会の許可なく魔術を使うことは罪とされているのに。
考えれば考えるほど、答えは遠ざかっていく。
案内されたのは、天井の高い検査室だった。
中央には椅子が一脚あり、その前には、卵形の水晶のような結晶が台座に据えられている。壁際には記録係が座り、数人の異端審問官が検査の準備を進めていた。
リアーヌの両親は、少し離れた場所に案内された。
部屋の隅には、警備の騎士たちが立っている。その中に、ひときわ無表情な、三十代とおぼしき騎士がいた。リアーヌは一瞬だけ彼と目が合ったが、彼はすぐに視線を外した。
「リアーヌ・ド・ヴィエル嬢。こちらへ」
検査官に促され、リアーヌは椅子に腰を下ろした。
正面の結晶は、曇りひとつなく澄んでいた。光を受けて、内部に淡い輝きが浮かんでいる。
「これは聖導結晶である。魔術資質の有無を確認するために用いるものだ」
検査官は淡々と説明した。
「これから行う検査に、痛みはない。指示に従い、手を結晶にかざしなさい」
リアーヌは小さくうなずいて、手のひらを結晶へと向ける。
室内が静まり返った。検査官が何かを唱えると、結晶の奥に光が走った。白い光だった。しかし、その輝きはすぐに揺らぎ始めた。水面に落ちた雫が波紋を広げるように、結晶の内部を淡い色彩が巡っていく。
リアーヌは息を呑んだ。こんな光景は見たことがない。
検査官たちの表情が変わった。記録係が慌ただしく筆を動かす。検査官の一人が結晶に顔を近づけ、別の者は何かを確認するように隣の男と目を交わした。
「……間違いないな」
誰かが小さくつぶやいた。
リアーヌは手を下ろしかけながら、検査官に尋ねた。
「検査は、終わったのでしょうか?」
返事はなかった。
検査官は結晶から目を離さず、しばらく沈黙していた。
やがて、彼はリアーヌを見た。
「リアーヌ嬢。貴女には、チェンジリング・エルフの血が流れている」
「……チェンジリング、エルフ?」
リアーヌには、言葉の意味がすぐには理解できなかった。
聞き返す声が、自分でも驚くほどか細かった。
検査官は答えず、両親の方へ向き直った。リアーヌも振り返る。母は口元を押さえ、父は厳しい表情で検査官を見つめていた。その場の空気が、先ほどまでとは違っていた。何かが決定的に変わってしまった──リアーヌは、そのことに気づいた。
リアーヌは父の隣に立ち、応接室の入り口に並ぶ一団を見つめていた。
中央に立つのは、教会の査問官らしき男。その両脇には、武装した騎士が控えている。彼らの表情には、訪問先への礼儀も、突然の来訪を詫びる様子もなかった。
査問官が巻紙を広げ、叩きつけるように告げる。
「ジェラール・ド・ヴィエル殿。教皇庁の命により、異端擁護および教会命令違反の嫌疑を申し渡す」
それはリアーヌの父ジェラールを罪人として拘束するための通達だった。
リアーヌは思わず父を見上げた。異端擁護。教会命令違反。どちらも、彼女には縁のない言葉だった。
父は驚いた様子を見せなかった。椅子から立ち上がり、査問官をまっすぐに見据える。
「……その根拠は?」
「貴殿の娘、リアーヌ嬢が、王立庭園にて魔術を用いたとの報告が寄せられた」
「え……?」
寝耳に水だった。リアーヌは声を漏らした。
王立庭園を訪れたことはある。王宮を訪れた際に、庭園を散策しただけだ。花を眺め、木々の間を歩き、時折、知人と挨拶を交わした。魔術など使った覚えはない。
査問官はリアーヌの戸惑いなど無視して言葉を続ける。
「特に、人ならざる挙動である《無音歩法》の目撃があり、これを放置したことは教会報告義務違反にあたる」
「そんな……。私はただ、足音を立てないように気をつけていただけです。庭園で人とすれ違うときに、驚かせないように……」
言いながら、リアーヌは自分の言葉がひどく頼りなく聞こえることに気づいた。
足音を立てないように歩く。それは、幼い頃から身についた癖だった。屋敷の廊下を歩くとき、書斎で読書をする父の邪魔をしないように。母が休んでいるとき、静かに部屋を出入りできるように。特別なことをしたつもりはない。それが魔術だなどと、考えたこともなかった。
父がリアーヌの肩に手を置いた。
「大丈夫だ。お前は何も心配しなくていい」
その声を聞いて、リアーヌはようやく息をついた。
父はいつも、彼女が困ったときにそう言ってくれた。幼い頃、初めて舞踏会で失敗したときも。家庭教師に厳しく叱られ、泣きながら書斎へ駆け込んだときも。
父がそう言ってくれるなら、きっと大丈夫だ。
しかし、父の視線はすぐに査問官へと戻った。
「他者への配慮を異端と断ずるなど、言語道断だ」
「判断はまだ下されていない。魔術資質検査にて事実を確認する。明朝、リアーヌ嬢を信仰調律院までお連れいただきたい」
査問官は眉ひとつ動かさずに答えた。
その言葉に、リアーヌの背筋が冷えた。
信仰調律院。聖エリオス教の総本山である神聖都市サンクトゥス=ミラにある教会の施設であり、魔術に関する検査や審問が行われる場所だと聞いている。そこへ連れていかれるということは、異端の疑いを正式にかけられたということだった。
リアーヌは父の袖を握った。
「お父様……」
父はリアーヌを振り返り、静かにうなずいた。
「心配はいらない。事実を調べれば、すぐに誤解だと分かる」
その言葉を、リアーヌは信じた。信じるほかなかった。
翌朝、彼女は両親とともに信仰調律院へ向かった。聖堂を思わせる白い石造りの建物は、サンクトゥス=ミラの中心から少し離れた場所に建っていた。高い尖塔が空を突き、正面の大扉には聖エリオス教の紋章が刻まれていた。
荘厳な外観とは裏腹に、建物の周囲には武装した騎士が立っている。
リアーヌは父の腕にそっと触れた。
「お父様。ここで、何をするのでしょうか?」
「魔術の資質を調べるのだろう。お前が何もしていないことは、私がよく知っている」
父は穏やかに答えた。
その言葉に励まされながらも、リアーヌの胸には不安が残った。
知らないうちに、何かをしてしまっていたのだろうか。もし本当に魔術を使っていたのだとしたら、それはどんな力なのだろう。そして、教会はそれをどう判断するのだろう。教会の許可なく魔術を使うことは罪とされているのに。
考えれば考えるほど、答えは遠ざかっていく。
案内されたのは、天井の高い検査室だった。
中央には椅子が一脚あり、その前には、卵形の水晶のような結晶が台座に据えられている。壁際には記録係が座り、数人の異端審問官が検査の準備を進めていた。
リアーヌの両親は、少し離れた場所に案内された。
部屋の隅には、警備の騎士たちが立っている。その中に、ひときわ無表情な、三十代とおぼしき騎士がいた。リアーヌは一瞬だけ彼と目が合ったが、彼はすぐに視線を外した。
「リアーヌ・ド・ヴィエル嬢。こちらへ」
検査官に促され、リアーヌは椅子に腰を下ろした。
正面の結晶は、曇りひとつなく澄んでいた。光を受けて、内部に淡い輝きが浮かんでいる。
「これは聖導結晶である。魔術資質の有無を確認するために用いるものだ」
検査官は淡々と説明した。
「これから行う検査に、痛みはない。指示に従い、手を結晶にかざしなさい」
リアーヌは小さくうなずいて、手のひらを結晶へと向ける。
室内が静まり返った。検査官が何かを唱えると、結晶の奥に光が走った。白い光だった。しかし、その輝きはすぐに揺らぎ始めた。水面に落ちた雫が波紋を広げるように、結晶の内部を淡い色彩が巡っていく。
リアーヌは息を呑んだ。こんな光景は見たことがない。
検査官たちの表情が変わった。記録係が慌ただしく筆を動かす。検査官の一人が結晶に顔を近づけ、別の者は何かを確認するように隣の男と目を交わした。
「……間違いないな」
誰かが小さくつぶやいた。
リアーヌは手を下ろしかけながら、検査官に尋ねた。
「検査は、終わったのでしょうか?」
返事はなかった。
検査官は結晶から目を離さず、しばらく沈黙していた。
やがて、彼はリアーヌを見た。
「リアーヌ嬢。貴女には、チェンジリング・エルフの血が流れている」
「……チェンジリング、エルフ?」
リアーヌには、言葉の意味がすぐには理解できなかった。
聞き返す声が、自分でも驚くほどか細かった。
検査官は答えず、両親の方へ向き直った。リアーヌも振り返る。母は口元を押さえ、父は厳しい表情で検査官を見つめていた。その場の空気が、先ほどまでとは違っていた。何かが決定的に変わってしまった──リアーヌは、そのことに気づいた。