奴隷娼婦の成り上がり
第5話『異端の烙印』【2】
遠い昔のこと──
かつて人間は、エルフ族と呼ばれる妖精と共に暮らしていた。彼らは人間に魔術を授け、人間との間に子孫を残したという。しかしおよそ三千年前、エルフ族はこの世界を去った。長い年月の中で、エルフの血は人間の血に溶け込み、その特徴は次第に薄れていった。尖った耳も、神秘的な美貌も、彼らが持っていた異能力も、ほとんどの子孫から失われていった。
しかし、エルフの血脈が完全に消えたわけではなかった。子孫の中には、時折、先祖返りによってエルフの特徴を色濃く受け継ぐ者が生まれる。そうした者たちは、チェンジリング・エルフと呼ばれていた。
彼らの耳は、わずかに尖っている。その容貌は美しく、年齢を重ねても若々しさを保つ傾向がある。だが、それらの特徴は、人間の個体差から大きく外れるものではない。外見だけでチェンジリング・エルフを見分けることは、容易ではなかった。
チェンジリング・エルフの本質は、生まれながらの異能力にある。それは、かつてのエルフ族が有した自然との調和の名残とされていた。人間の魔術とは異なり、必ずしも修練によって習得するものではない。本人が自覚しないまま、その力を日常の中で発揮していることさえあるという。
しかし、彼らの力の性質を知らない者にとっては、理解しがたい現象だった。そして、チェンジリングエルフの異能力は、ヴェルムート王国の教会にとって、決して看過できないものだった。
この国では、魔術は教会の管理下に置かれている。許可なく魔術を行使することは重罪とされており、奇跡に近しい力を扱う権限は、神と教会に属するものと考えられていた。聖エリオス教の教義のもとでは、生まれながらに異能力を持つチェンジリング・エルフは、神の権威を脅かしかねない危険な存在だった。
彼らが何を望み、どのように生きているかは、問題ではなかった。
異能力を持つという事実そのものが、異端視される理由となる。
もっとも、チェンジリング・エルフの多くは、自分の血筋に気づかないまま生涯を終えるといわれている。容貌だけでは判別が難しく、異能力も日常生活の中に紛れてしまうことがあるからだ。尖った耳も、髪に隠れる程度の差違でしかない。
それでも教会はチェンジリング・エルフを生まれながらの異端者として扱う。異端者の烙印を押された者には、弁明の機会さえ満足に与えられない。そして、その血筋を隠していたと疑われた家族には、教会命令違反の罪が及ぶ。それが教会の定めた法だった。
◇
「チェンジリング・エルフが生まれた場合、その家長はただちに教会へ届け出ねばならない。……聖務法典に、そう記されている」
検査官の声が、広い室内に響いた。
リアーヌは父を見た。父は、娘にエルフの特徴があることを知っていたのだろうか。いや、そんなはずはない。父が知っていたなら、きっと説明してくれたはずだ。そもそも、リアーヌ自身が今の今まで知らなかったのだから。
母の震える声が響く。
「そんな……。リアーヌは普通の人間にしか見えなかったのに」
普通の人間。その言葉にリアーヌの胸の奥が痛んだ。
検査官は、母の言葉を取り合おうともせず、父へと向き直り、自身の言葉を続けた。
「聖務法典に反した者は、異端擁護および教会命令違反となる。ジェラール殿。貴殿の責任は重大だ」
リアーヌの胸が、どくんと鳴った。
責任。どうして、父が責められるのだろう。自分の身体に、知らない血が流れていた。それだけのことではないのか。リアーヌは立ち上がろうとした。
「待ってください。父は何も──」
その瞬間、足元がふらついた。
リアーヌの視界が揺れる。普通の人間ではない。生まれながらの異端者。そんな言葉が、頭の中で何度も繰り返されている。
倒れそうになったリアーヌの身体を、背後から誰かが支えた。振り返ると、先ほど目が合ったあの騎士がいた。ダークブラウンの長い髪が、リアーヌの顔にかかる。彼は何も言わなかった。ただ、リアーヌが姿勢を立て直すまで、無言で支えていた。
「ありがとうございます……」
リアーヌが礼を述べると、騎士は小さく手を離した。
その間にも、検査官たちは父を取り囲むように近づいていく。
「ジェラール殿。貴殿には、娘がチェンジリング・エルフであることを知りながら、教会への報告を怠った疑いがある」
「私は、娘がそのような血を引いていることを知らなかった」
「それを証明することはできるのか」
「……何?」
「貴殿が知らなかったという証拠はあるのか、と聞いている」
検査官の言葉を聞いて、リアーヌは耳を疑った。
知らなかったということを、どうやって証明すればいいのだろう。父が娘の血筋を知らなかったという事実は、父自身にしか分からない。そして、それを信じてもらえないのなら、何を言っても無駄ではないか。
父は検査官を見据えたまま、静かに答えた。
「……それは、私が娘を育ててきた年月を調べれば分かることだ。何か隠していたという証拠があるのなら、提示していただきたい」
「調査はこれから行う」
検査官は、まるで決まりきった手続きを告げるように言った。
「本日の検査結果をもって、貴殿への審問を開始する」
リアーヌは父のそばへと駆け寄った。
「お父様……」
「大丈夫だ」
父は彼女の肩に手を置いた。
いつもどおりの言葉だった。
けれど、その声には、ほんのわずかな硬さがあった。
リアーヌは生まれて初めて、父の言葉だけでは不安を拭えないことを知った。
かつて人間は、エルフ族と呼ばれる妖精と共に暮らしていた。彼らは人間に魔術を授け、人間との間に子孫を残したという。しかしおよそ三千年前、エルフ族はこの世界を去った。長い年月の中で、エルフの血は人間の血に溶け込み、その特徴は次第に薄れていった。尖った耳も、神秘的な美貌も、彼らが持っていた異能力も、ほとんどの子孫から失われていった。
しかし、エルフの血脈が完全に消えたわけではなかった。子孫の中には、時折、先祖返りによってエルフの特徴を色濃く受け継ぐ者が生まれる。そうした者たちは、チェンジリング・エルフと呼ばれていた。
彼らの耳は、わずかに尖っている。その容貌は美しく、年齢を重ねても若々しさを保つ傾向がある。だが、それらの特徴は、人間の個体差から大きく外れるものではない。外見だけでチェンジリング・エルフを見分けることは、容易ではなかった。
チェンジリング・エルフの本質は、生まれながらの異能力にある。それは、かつてのエルフ族が有した自然との調和の名残とされていた。人間の魔術とは異なり、必ずしも修練によって習得するものではない。本人が自覚しないまま、その力を日常の中で発揮していることさえあるという。
しかし、彼らの力の性質を知らない者にとっては、理解しがたい現象だった。そして、チェンジリングエルフの異能力は、ヴェルムート王国の教会にとって、決して看過できないものだった。
この国では、魔術は教会の管理下に置かれている。許可なく魔術を行使することは重罪とされており、奇跡に近しい力を扱う権限は、神と教会に属するものと考えられていた。聖エリオス教の教義のもとでは、生まれながらに異能力を持つチェンジリング・エルフは、神の権威を脅かしかねない危険な存在だった。
彼らが何を望み、どのように生きているかは、問題ではなかった。
異能力を持つという事実そのものが、異端視される理由となる。
もっとも、チェンジリング・エルフの多くは、自分の血筋に気づかないまま生涯を終えるといわれている。容貌だけでは判別が難しく、異能力も日常生活の中に紛れてしまうことがあるからだ。尖った耳も、髪に隠れる程度の差違でしかない。
それでも教会はチェンジリング・エルフを生まれながらの異端者として扱う。異端者の烙印を押された者には、弁明の機会さえ満足に与えられない。そして、その血筋を隠していたと疑われた家族には、教会命令違反の罪が及ぶ。それが教会の定めた法だった。
◇
「チェンジリング・エルフが生まれた場合、その家長はただちに教会へ届け出ねばならない。……聖務法典に、そう記されている」
検査官の声が、広い室内に響いた。
リアーヌは父を見た。父は、娘にエルフの特徴があることを知っていたのだろうか。いや、そんなはずはない。父が知っていたなら、きっと説明してくれたはずだ。そもそも、リアーヌ自身が今の今まで知らなかったのだから。
母の震える声が響く。
「そんな……。リアーヌは普通の人間にしか見えなかったのに」
普通の人間。その言葉にリアーヌの胸の奥が痛んだ。
検査官は、母の言葉を取り合おうともせず、父へと向き直り、自身の言葉を続けた。
「聖務法典に反した者は、異端擁護および教会命令違反となる。ジェラール殿。貴殿の責任は重大だ」
リアーヌの胸が、どくんと鳴った。
責任。どうして、父が責められるのだろう。自分の身体に、知らない血が流れていた。それだけのことではないのか。リアーヌは立ち上がろうとした。
「待ってください。父は何も──」
その瞬間、足元がふらついた。
リアーヌの視界が揺れる。普通の人間ではない。生まれながらの異端者。そんな言葉が、頭の中で何度も繰り返されている。
倒れそうになったリアーヌの身体を、背後から誰かが支えた。振り返ると、先ほど目が合ったあの騎士がいた。ダークブラウンの長い髪が、リアーヌの顔にかかる。彼は何も言わなかった。ただ、リアーヌが姿勢を立て直すまで、無言で支えていた。
「ありがとうございます……」
リアーヌが礼を述べると、騎士は小さく手を離した。
その間にも、検査官たちは父を取り囲むように近づいていく。
「ジェラール殿。貴殿には、娘がチェンジリング・エルフであることを知りながら、教会への報告を怠った疑いがある」
「私は、娘がそのような血を引いていることを知らなかった」
「それを証明することはできるのか」
「……何?」
「貴殿が知らなかったという証拠はあるのか、と聞いている」
検査官の言葉を聞いて、リアーヌは耳を疑った。
知らなかったということを、どうやって証明すればいいのだろう。父が娘の血筋を知らなかったという事実は、父自身にしか分からない。そして、それを信じてもらえないのなら、何を言っても無駄ではないか。
父は検査官を見据えたまま、静かに答えた。
「……それは、私が娘を育ててきた年月を調べれば分かることだ。何か隠していたという証拠があるのなら、提示していただきたい」
「調査はこれから行う」
検査官は、まるで決まりきった手続きを告げるように言った。
「本日の検査結果をもって、貴殿への審問を開始する」
リアーヌは父のそばへと駆け寄った。
「お父様……」
「大丈夫だ」
父は彼女の肩に手を置いた。
いつもどおりの言葉だった。
けれど、その声には、ほんのわずかな硬さがあった。
リアーヌは生まれて初めて、父の言葉だけでは不安を拭えないことを知った。