奴隷娼婦の成り上がり
第6話『異端の烙印』【3】
ヴィエル公爵家を取り巻く空気は、目に見えて変わっていった。屋敷の門前には、教会の騎士が立つようになった。父は何度も呼び出され、審問のために屋敷を離れた。母は人前では平静を装っていたが、夜になると、ひとりで祈りを捧げる時間が増えた。
リアーヌのもとを訪れる者も、急に少なくなった。以前なら、季節の挨拶や夜会の招待状が毎日のように届いていたのに、親しくしていた貴族令嬢たちからの手紙も、いつの間にか途絶えていた。エドワールからの便りもなかった。リアーヌは、彼からの手紙が届いていないか侍女に尋ねたが、何度確認しても答えは同じだった。
きっと、彼も事情を調べてくれているのだろう。自分から連絡を取ることはできないのかもしれない──自分に言い聞かせるように、リアーヌは希望の欠片を探した。しかし、それらの希望が現実になることはなかった。
父の審問は、やがて正式な裁判へと移った。リアーヌも証人として出廷を命じられた。法廷には、教会関係者や王家の代理人、そして大勢の貴族が集まっていた。見知った顔もいくつかあったが、誰も彼女に声をかけようとはしなかった。
中央に立たされた父は、いつもと変わらない姿勢で裁判官たちを見つめていた。その姿を見て、リアーヌは少しだけ安心した。父は何も悪いことをしていない。だから、きっと無実が証明される。彼女はそう信じていた。そうでなければならないと思った。
しかし、読み上げられた罪状は、リアーヌの想像をはるかに超えるものだった。
──『異端擁護および教会命令違反』
──『王家およびファミーユ家への反逆謀反』
父は、娘に流れるチェンジリング・エルフの血を隠し、教会の監視を逃れて育てた、ということにされていた。さらに、リアーヌに《無音歩法》を習得させ、王太子ソル=アンリを暗殺するための道具として育成していた──ということになっていた。
リアーヌは、思わず父を見た。
そんな話は一度も聞いたことがない。父が自分に教えてくれたのは、歴史や戦術、礼儀作法ばかりだった。剣を握らされたことも、誰かを傷つける方法を教えられたこともない。《無音歩法》という言葉さえ、あの日、査問官から聞かされなければ、今でも知らないままだっただろう。
「……違います」
リアーヌの口から声が漏れた。
裁判官の視線が、リアーヌへと向けられる。
「何か申し立てがあるのか」
「父は、そんなことをしていません。私は、王太子殿下を暗殺するために育てられたのではありません」
リアーヌは必死に言葉を重ねた。
「私が静かに歩くのは、ただの癖です。魔術を使おうとしたこともありません。父は、私にそんなことを教えたことなど一度も……」
「──それは貴女の証言にすぎない」
裁判官は、冷ややかにリアーヌの言葉を打ち切った。
「証拠はあるのか?」
リアーヌは言葉を失った。
証拠。やっていない証拠など、どこにあるというのだろう。本来であれば、父と過ごした日々のすべてが、その証明になるはずだった。けれど、法廷にいる者は誰も、その年月を確かめようとはしなかった。信じようとしない者の前では、言葉は無力だ。
父は、リアーヌを見た。その目は穏やかだった。いつものように、心配するなと告げるような眼差しだった。リアーヌは唇を噛みしめた。今度こそ、父を守らなければ。けれど、彼女にできることは何もなかった。
裁判は、あらかじめ結論が決まっていたかのように進んでいった。証拠として提出された書簡や記録は、リアーヌの知らないものばかりだった。父の署名があると説明された文書もあったが、彼女には真偽を判断できない。
それらの書類が読み上げられるたび、法廷の空気は少しずつ変わっていった。
父を疑う者が増えていく。かつて父と親しくしていた貴族たちでさえ、彼の弁護に立とうとはしなかった。リアーヌは、何度も周囲を見回した。誰かが声を上げてくれるのではないか。誰かが、この裁判はおかしいと指摘してくれるのではないか。そうであってほしいと願った。そうでなければならないと思った。
けれど、誰も動かなかった。そして、判決が言い渡された。
「ジェラール・ド・ヴィエル。異端擁護および教会命令違反、ならびに王家およびファミーユ家への反逆謀反の罪により、死刑に処す」
どうして。リアーヌは叫ぼうとした。しかし喉がひきつって声にならなかった。
父は、ゆっくりと目を閉じた。その横顔を見た瞬間、リアーヌは悟った。この裁判は、父の無実を明らかにするためのものではなかった。父を罪人にするためにおこなわれた裁判だったのだ──
◇
恩寵の館の一角に設けられたその部屋は、館内の華やかな装飾とは対照的に、質素な造りをしている。正面の壁には聖エリオス教の聖印が掲げられ、その下には小さな祭壇。窓から差し込む陽光が、磨かれた床に影を落としている。そこは礼拝室だった。石壁は冷たく、張りつめた空気からは古い香炉の匂いが漂う。
リアーヌは祭壇の前に跪き、両手を重ねた。
初義教育を終えた彼女は、今日から客を取ることになる。接客に必要な知識は、ひととおり教わった。けれど、頭で理解することと、実際に行動することは違う。リアーヌの胸の奥には、言葉にならない感覚がそわそわと漂っていた。
「顔を上げなさい」
静かな声に促され、リアーヌは正面を向いた。
彼女の前に立っているのは、教会から派遣された司祭だった。深い色の祭服をまとい、胸元には聖印が揺れている。司祭は祭壇から小さな容器を取り上げた。
「これより、館の加護を授ける。心を静め、祈りなさい」
館の加護。その言葉を聞いて、リアーヌはわずかに眉を寄せた。
恩寵の館で働く娼婦たちには、定期的にこの魔術が施される。教会が特別に認めた術であり、使用が許されているのは、この館のような限られた場所だけだという。その効果は、避妊と性感染症の予防。施術を受けた者の身体を一定期間守り、効果は一カ月ほど続く。だから娼婦たちは、毎月一度、こうして礼拝室に集まり、加護を受けなければならない。
最初に説明を受けたとき、リアーヌは少しだけ安堵した。このような仕事をする上でもっとも危険なこと、つまり、望まない妊娠に脅かされることはない。だが、実際にその術を受ける段階になると、胸に浮かぶ感情はそれほど単純ではなかった。
自分がこれから何をするのかを、改めて突きつけられる感覚がある。
司祭が聖句を唱え始めた。低く、よどみのない声が礼拝室に響く。続いて、彼の手元から淡い光が広がった。白金色の光は祭壇の聖印に呼応するように瞬き、細い紋様となってリアーヌの周囲を巡る。熱さも痛みもない。ただ、肌の表面を柔らかな風が撫でていくような感覚があった。光は一度だけ強く輝き、やがて目に見えないほどの細かな粒となって消えていった。
「これでよい。加護は一カ月有効だ。期限が来る前に、必ず次の施術を受けなさい」
「……はい」
リアーヌは頭を下げた。司祭は淡々と道具を片づけ、次の者を呼ぶ準備を始めた。そこに特別な感慨はない。彼にとって、これは毎月繰り返す務めのひとつなのだろう。
リアーヌはゆっくりと立ち上がった。身体には、何の変化も感じられない。けれど、これから一カ月、自分はこの加護のもとで仕事をすることになる。礼拝室の扉に手をかけると、廊下の向こうから人々の声が聞こえてきた。開店に向けて館が動き始めているのだ。
リアーヌは一度だけ、祭壇の聖印を振り返った。
神の加護は、父を守ってくれなかった。加護の術を受けたからといって、失われたものが戻ってくることはないし、これから待ち受けるものを、誰かが代わりに引き受けてくれるわけでもない。理解できることはただ、自分はここで生きていかなければならないということだけ。
──大丈夫。身請けされれば、ここから出られる。そして、私にはあの人がいる。あの人が……エドワール様が必ず迎えに来てくれる。だから大丈夫。それまでの辛抱よ。
そう自分に言い聞かせながら、リアーヌは扉を開け、廊下へと足を踏み出した。
リアーヌのもとを訪れる者も、急に少なくなった。以前なら、季節の挨拶や夜会の招待状が毎日のように届いていたのに、親しくしていた貴族令嬢たちからの手紙も、いつの間にか途絶えていた。エドワールからの便りもなかった。リアーヌは、彼からの手紙が届いていないか侍女に尋ねたが、何度確認しても答えは同じだった。
きっと、彼も事情を調べてくれているのだろう。自分から連絡を取ることはできないのかもしれない──自分に言い聞かせるように、リアーヌは希望の欠片を探した。しかし、それらの希望が現実になることはなかった。
父の審問は、やがて正式な裁判へと移った。リアーヌも証人として出廷を命じられた。法廷には、教会関係者や王家の代理人、そして大勢の貴族が集まっていた。見知った顔もいくつかあったが、誰も彼女に声をかけようとはしなかった。
中央に立たされた父は、いつもと変わらない姿勢で裁判官たちを見つめていた。その姿を見て、リアーヌは少しだけ安心した。父は何も悪いことをしていない。だから、きっと無実が証明される。彼女はそう信じていた。そうでなければならないと思った。
しかし、読み上げられた罪状は、リアーヌの想像をはるかに超えるものだった。
──『異端擁護および教会命令違反』
──『王家およびファミーユ家への反逆謀反』
父は、娘に流れるチェンジリング・エルフの血を隠し、教会の監視を逃れて育てた、ということにされていた。さらに、リアーヌに《無音歩法》を習得させ、王太子ソル=アンリを暗殺するための道具として育成していた──ということになっていた。
リアーヌは、思わず父を見た。
そんな話は一度も聞いたことがない。父が自分に教えてくれたのは、歴史や戦術、礼儀作法ばかりだった。剣を握らされたことも、誰かを傷つける方法を教えられたこともない。《無音歩法》という言葉さえ、あの日、査問官から聞かされなければ、今でも知らないままだっただろう。
「……違います」
リアーヌの口から声が漏れた。
裁判官の視線が、リアーヌへと向けられる。
「何か申し立てがあるのか」
「父は、そんなことをしていません。私は、王太子殿下を暗殺するために育てられたのではありません」
リアーヌは必死に言葉を重ねた。
「私が静かに歩くのは、ただの癖です。魔術を使おうとしたこともありません。父は、私にそんなことを教えたことなど一度も……」
「──それは貴女の証言にすぎない」
裁判官は、冷ややかにリアーヌの言葉を打ち切った。
「証拠はあるのか?」
リアーヌは言葉を失った。
証拠。やっていない証拠など、どこにあるというのだろう。本来であれば、父と過ごした日々のすべてが、その証明になるはずだった。けれど、法廷にいる者は誰も、その年月を確かめようとはしなかった。信じようとしない者の前では、言葉は無力だ。
父は、リアーヌを見た。その目は穏やかだった。いつものように、心配するなと告げるような眼差しだった。リアーヌは唇を噛みしめた。今度こそ、父を守らなければ。けれど、彼女にできることは何もなかった。
裁判は、あらかじめ結論が決まっていたかのように進んでいった。証拠として提出された書簡や記録は、リアーヌの知らないものばかりだった。父の署名があると説明された文書もあったが、彼女には真偽を判断できない。
それらの書類が読み上げられるたび、法廷の空気は少しずつ変わっていった。
父を疑う者が増えていく。かつて父と親しくしていた貴族たちでさえ、彼の弁護に立とうとはしなかった。リアーヌは、何度も周囲を見回した。誰かが声を上げてくれるのではないか。誰かが、この裁判はおかしいと指摘してくれるのではないか。そうであってほしいと願った。そうでなければならないと思った。
けれど、誰も動かなかった。そして、判決が言い渡された。
「ジェラール・ド・ヴィエル。異端擁護および教会命令違反、ならびに王家およびファミーユ家への反逆謀反の罪により、死刑に処す」
どうして。リアーヌは叫ぼうとした。しかし喉がひきつって声にならなかった。
父は、ゆっくりと目を閉じた。その横顔を見た瞬間、リアーヌは悟った。この裁判は、父の無実を明らかにするためのものではなかった。父を罪人にするためにおこなわれた裁判だったのだ──
◇
恩寵の館の一角に設けられたその部屋は、館内の華やかな装飾とは対照的に、質素な造りをしている。正面の壁には聖エリオス教の聖印が掲げられ、その下には小さな祭壇。窓から差し込む陽光が、磨かれた床に影を落としている。そこは礼拝室だった。石壁は冷たく、張りつめた空気からは古い香炉の匂いが漂う。
リアーヌは祭壇の前に跪き、両手を重ねた。
初義教育を終えた彼女は、今日から客を取ることになる。接客に必要な知識は、ひととおり教わった。けれど、頭で理解することと、実際に行動することは違う。リアーヌの胸の奥には、言葉にならない感覚がそわそわと漂っていた。
「顔を上げなさい」
静かな声に促され、リアーヌは正面を向いた。
彼女の前に立っているのは、教会から派遣された司祭だった。深い色の祭服をまとい、胸元には聖印が揺れている。司祭は祭壇から小さな容器を取り上げた。
「これより、館の加護を授ける。心を静め、祈りなさい」
館の加護。その言葉を聞いて、リアーヌはわずかに眉を寄せた。
恩寵の館で働く娼婦たちには、定期的にこの魔術が施される。教会が特別に認めた術であり、使用が許されているのは、この館のような限られた場所だけだという。その効果は、避妊と性感染症の予防。施術を受けた者の身体を一定期間守り、効果は一カ月ほど続く。だから娼婦たちは、毎月一度、こうして礼拝室に集まり、加護を受けなければならない。
最初に説明を受けたとき、リアーヌは少しだけ安堵した。このような仕事をする上でもっとも危険なこと、つまり、望まない妊娠に脅かされることはない。だが、実際にその術を受ける段階になると、胸に浮かぶ感情はそれほど単純ではなかった。
自分がこれから何をするのかを、改めて突きつけられる感覚がある。
司祭が聖句を唱え始めた。低く、よどみのない声が礼拝室に響く。続いて、彼の手元から淡い光が広がった。白金色の光は祭壇の聖印に呼応するように瞬き、細い紋様となってリアーヌの周囲を巡る。熱さも痛みもない。ただ、肌の表面を柔らかな風が撫でていくような感覚があった。光は一度だけ強く輝き、やがて目に見えないほどの細かな粒となって消えていった。
「これでよい。加護は一カ月有効だ。期限が来る前に、必ず次の施術を受けなさい」
「……はい」
リアーヌは頭を下げた。司祭は淡々と道具を片づけ、次の者を呼ぶ準備を始めた。そこに特別な感慨はない。彼にとって、これは毎月繰り返す務めのひとつなのだろう。
リアーヌはゆっくりと立ち上がった。身体には、何の変化も感じられない。けれど、これから一カ月、自分はこの加護のもとで仕事をすることになる。礼拝室の扉に手をかけると、廊下の向こうから人々の声が聞こえてきた。開店に向けて館が動き始めているのだ。
リアーヌは一度だけ、祭壇の聖印を振り返った。
神の加護は、父を守ってくれなかった。加護の術を受けたからといって、失われたものが戻ってくることはないし、これから待ち受けるものを、誰かが代わりに引き受けてくれるわけでもない。理解できることはただ、自分はここで生きていかなければならないということだけ。
──大丈夫。身請けされれば、ここから出られる。そして、私にはあの人がいる。あの人が……エドワール様が必ず迎えに来てくれる。だから大丈夫。それまでの辛抱よ。
そう自分に言い聞かせながら、リアーヌは扉を開け、廊下へと足を踏み出した。