奴隷娼婦の成り上がり

第7話『新人娼婦リュネット』【1】

 恩寵の館のエントランスホールは、吹き抜けになった巨大な空間だった。正面奥には二階へ続く大きなサーキュラー階段が伸び、手すりや柱には細かな装飾が施されている。高い天井には神聖な物語を描いたフレスコ画が広がり、魔導灯の柔らかな光が壁面や床を照らしていた。二階のバルコニーには娼婦たちが姿を見せ、階下の客へと視線を送っている。一階の奥にはサロンがあり、指名のない客はそこへ通される。ホールを行き交うスタッフは全員が仮面を着けており、誰も素顔を見せない。その異様な統一感さえも、館の神聖さを演出する一部となっていた。

 サロンの扉を開くと、柔らかな音楽が聞こえてきた。
 リアーヌは一歩踏み出し、すぐに足を止めた。
 目の前には、淡い金色の照明に包まれた広間が広がっている。壁には精緻な彫刻が施され、天井には大きなシャンデリア。磨き上げられた床には、色鮮やかな絨毯が敷かれ、客をもてなすためのソファやテーブルが並んでいる。花瓶には季節の花が溢れ、銀の盆を手にした給仕が静かに行き交っていた。
 王都の貴族が集う夜会にも劣らない、華やかな空間だった。
 けれど、リアーヌの心が浮き立つことはない。
 ここは恩寵の館。美しい装飾も、上等な家具も、すべては客を満足させるために用意されたもの。そこに働く女性たちもまた、館の評判を保つための商品として扱われている。
 リアーヌは、女性たちを見た。華やかなナイトドレスをまとい、客と談笑する者。静かに微笑みながら、給仕の運ぶ飲み物を受け取る者。ひとりでソファに座り、何かを待っている者。誰もが美しく着飾っていた。しかし、その表情はさまざまだった。心から楽しそうに笑う者もいれば、笑顔を貼りつけたまま、目だけを冷たくしている者もいる。客の言葉に相槌を打ちながら、時折、疲れたように視線を落とす女性もいた。
 リアーヌには、彼女たちがどんな思いでここにいるのか、分からなかった。
 ただひとつ確かなのは、自由にこの場を去れる者は一人もいないということだった。

「リュネット様」

 背後から、声がかかる。
 リュネット。それが、ここでのリアーヌの名前だった。入館した際に、館の責任者から告げられた源氏名。月を意味する言葉に由来するのだと説明されたが、リアーヌには、その名前を美しいと思う余裕などなかった。

 リアーヌが振り返ると、そこには館のホールスタッフがいた。仮面をつけた女性で、落ち着いた物腰をしている。彼女はリアーヌの姿を確認すると、満足そうにうなずいた。

「お支度は整いましたね。お客様がお待ちです」
「……はい」

 リアーヌは小さく返事をした。戸惑いと緊張が声に現れている。
 ホールスタッフは彼女の様子を気に留めることなく、広間の奥へと歩き始めた。

「こちらへ。お客様は、すでにお部屋でお待ちです」

 リアーヌは、その後を追った。廊下を進むにつれ、音楽が遠ざかっていく。従業員専用の階段を上がり、客室の並ぶ廊下を歩く。扉の向こうから、談笑と嬌声が聞こえてくる。ホールスタッフは、静かな扉の前で立ち止まった。

「こちらのお客様は、リュネット様を指名されました」
「私を、ですか……?」
「はい」

 ホールスタッフの女性は、リアーヌを見ずにさらりと答えた。
 リアーヌの胸の奥がざわめく。指名。自分を選んだ客がいる。入ったばかりの自分を、顔も見ずに。その事実が、彼女の胸にのしかかる──あの人かも知れない。エドワールが私を迎えにきてくれたのかも知れない。でも、もし違ったら。全然知らない人だったら。その人はどうして私を指名したんだろう。
 リアーヌは平静を装いながら、ホールスタッフに訪ねた。

「お客様は、どのような方なのでしょうか?」
「貴族の方です。館には何度もいらしていますので、特に問題はないでしょう」

 何度も来ている人──リアーヌは落胆した。遊び慣れた客がただ、物珍しい新人娼婦を指名しただけだった。あの人が会いに来てくれたわけではない。婚約者のエドワールが迎えにきてくれたわけではなかった。
 リアーヌの内心などまったく気にも留めず、ホールスタッフは扉をノックした。
 扉の向こうから、低い男の声が返ってくる。

「入れ」

 エドワールの声ではなかった。
 ホールスタッフが扉を開く。
 リアーヌは覚悟を決め、部屋の中へと足を踏み入れた。

 そこは、広間よりもさらに豪華な客室だった。
 壁には淡い色合いの壁紙と装飾的な木枠が施され、床には柔らかな絨毯が敷かれている。調度品も貴族や豪商を迎えるに相応しく、ベッドやソファ、低いテーブルなどが整然と配置されていた。照明は魔導灯による柔らかな明かりで統一され、室内に落ち着いた陰影を作っている。壁の一角には小さな窓があり、そこには色ガラスを組み合わせたステンドグラスが嵌め込まれていた。外の喧騒を遠ざける静かな空間には、娼館というより上流階級の邸宅に近い品格が漂う。
 テーブルには酒瓶とグラスが置かれ、ソファにはひとりの男が腰かけていた。
 男は、リアーヌを見るなり口元を歪めた。

「ほう。こいつがリュネットか」

 リアーヌは、反射的に背筋を伸ばした。
 男の視線が、自分の顔から薄手のドレスへと移っていくのが分かる。品定めをするような目だった。その視線に、リアーヌは思わず身を固くする。けれど、ここで怯えた様子を見せるわけにはいかない。彼女は教えられたとおり、軽く膝を折って礼をした。

「初めまして。リュネットと申します。本日はお招きいただき、ありがとうございます」

 言葉は、滑らかに出た。
 貴族の娘として、何度も繰り返してきた挨拶だった。
 ただ、頭を上げたとき、男が満足そうに笑っているのを見て、リアーヌは胸の奥に小さな違和感を覚えた。
 この男は、何を期待して自分を指名したのだろう。
 自分はこれから、何を求められるのだろう。
 リアーヌは、それを知らないまま、男の向かいに立っていた。
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