奴隷娼婦の成り上がり
第8話『新人娼婦リュネット』【2】
男は、リアーヌの挨拶に応じることもなく、値踏みするような目で彼女を眺めていた。
年齢は四十代半ばだろうか。腹回りの目立つ上等な服を着込み、指には大ぶりの宝石がいくつも光っている。しかしその態度には、社交の場で身につけるべき節度がまるで感じられなかった。
「こいつがジェラール・ド・ヴィエルの娘か。……本当か? 処刑されたヴィエル元公爵の娘がいるって聞いたから、そいつを指名したんだが。お前で間違いないんだな?」
男はグラスを傾けながら尋ねた。
「はい。かつてはヴィエル公爵家の娘でございました」
「かつては、ねえ」
男は鼻で笑った。
「今じゃ国営娼館の女か。ずいぶんと落ちぶれたもんだなぁ」
リアーヌは、微笑みを崩さなかった。
客の言葉に腹を立ててはならない。相手の機嫌を損ねず、会話を続けること。講習で何度も教えられた心得だった。
それに、男の言うことは事実でもある。自分はもう、公爵令嬢ではない。父は爵位を剥奪され、処刑された。ここにいるのはただの女、娼婦リュネットだ。
「旦那様のお目に留まりましたこと、光栄に存じます」
「ははっ。ずいぶんと上品な口を利くじゃねえか」
男は声を上げて笑った。
「そういうところが気に入らないんだよな。娼婦になっても、まだ貴族気取りか?」
「……旦那様に相応しい一夜の恋人であれるよう、努めております」
「だったらそんなとこに突っ立ってんじゃねえ。ほら、ここに座れよ」
男がソファの隣を叩いた。
リアーヌは一礼し、指示された場所に腰を下ろした。
男との距離を、できるだけ保つように。
しかし、彼はそんな彼女の配慮など気にも留めなかった。
「おい、もっとこっちに来い」
男が肩を抱き寄せる。リアーヌの身体が強張った。突然の接触に、心臓が跳ねる。反射的に身を引きそうになったが、彼女は寸前でこらえた。ここで拒めば、どうなるのだろう。客の機嫌を損ねたと、館の者から叱責されるのだろうか。それとも、もっと厄介なことになるのだろうか。分からない。ただ、逆らわない方がいいと思った。ここにいるのは娼婦リュネット。公爵令嬢リアーヌ・ド・ヴィエルではない。
男は彼女の顔を覗き込む。
「それにしても、お前の親父には感謝しないとな」
リアーヌは、息を止めた。
「……父に?」
「ああ。あの公爵様のおかげで、こんなことができるんだからなぁ」
男は愉快そうに笑いながら、リアーヌの体をまさぐった。
「まさか、あのヴィエル公爵の娘が娼婦になるとは思わなかったぜ。社交界じゃ、ずいぶん話題になったんだぞ」
リアーヌの指先が、膝の上でわずかに震えた。
父は、王国のために働いてきた。何年も国政に携わり、軍務大臣として責任を負い、領民や兵士のことを考えてきた。それなのに──
「……父は、罪を犯しておりません」
気づけば、言葉が口をついて出ていた。
男は一瞬きょとんとしたあと、また大きく笑った。
「おいおい。まだそんなことを言ってるのか? 裁判で有罪になったんだろう? それとも、娼婦になった今でも、自分の家は特別だと思ってるのか?」
「そのようなことは……」
「だったら、もっと素直に楽しませてくれよ」
男はグラスをテーブルに置いた。
「せっかく金を払ってるんだ。公爵令嬢だった女がどんな顔をするのか、見てみたいと思ってな」
おぞましい。リアーヌは背筋に冷たいものが這い上がるのを感じた。
この男は、自分を指名した理由を隠そうともしていない。彼が求めているのは、会話でも、教養でも、もてなしでもない。かつて高い身分にあった女が、落ちぶれた姿を見せること。それを眺めて楽しむこと。ただ、それだけなのだ。
リアーヌは、目を伏せた。胸の奥で、何かが熱くなる。怒りだった。父を侮辱されたことへの怒り。自分の境遇を娯楽として扱われたことへの怒り。そして、そんな男の前で笑顔を作らなければならない自分への怒り。けれど、どれほど怒りを覚えても、ここから立ち去ることはできない。
何かを思い出したのか、唐突に男が話題を変えた。
「そうだ。お前、エルフの血が流れてるんだってな」
「……どなたから、そのような話をお聞きになったのですか?」
「噂だよ、噂。教会の検査で分かったんだろう?」
男は、まるで珍しい品物の話でもするように続けた。
「なるほどな。だから、こんな大人しそうな顔をしてるのか」
リアーヌは答えなかった。口数が減ったのは、怒りを隠しているからだ。しかし男は一人で勝手に納得し、下卑た笑みを浮かべた。
「まあ、何にせよ、今日は楽しませてもらうぜ」
その笑顔を見た瞬間、リアーヌは心の底から相手を軽蔑した。
貴族の身分を失ったことが、こんなにも屈辱的なことだとは思わなかった。
自分を守ってくれるものが、何もない。名前も、家も、父の名誉も、すべてを奪われた自分には、目の前の男の無礼を止める力さえない。それでも、リアーヌは顔を上げた。客の前で、涙を見せるわけにはいかなかった。ましてや、この男に、自分が傷ついていることを悟られるわけにはいかない。
「……かしこまりました」
リアーヌは静かに微笑んだ。その笑顔がどれほど不自然なものだったのか、自分では分からない。男は気にするそぶりも見せず、むしろ興奮したかのように、リアーヌに覆い被さった。
◇
湯の音だけが、浴室に響いていた。
リアーヌは、黙って自分の腕を見つめていた。
白い肌。湯に濡れた髪。指先から滴り落ちる水。見たところ、何も変わっていない。それなのに──
──汚れている。
そんな感覚がつきまとう。
リアーヌは共用のブラシで腕を擦った。肘から手首へ、それが終わると反対の腕も。皮膚が赤くなるまで擦る。しかし汚辱感は消えない。当然だった。目に見える汚れなど、最初からついていないのだから。
それなのに、手を止めることができない。
目には見えない何かが、全身にこびりついているような気がする。自分では取り除けないものが、皮膚の下に入り込んでしまったような、不快な錯覚がつきまとう。
初めて、この浴室に案内された日、リアーヌはこの場所を汚らわしいと思った。見知らぬ男と交わった女たちが使う浴室。自分とは無縁だったはずの場所。ここにいるだけで、自分まで汚れてしまうような気がした。なのに今は、自分自身の方がはるかに汚れている──
──汚れを落とさなければ。あの人が……エドワールが迎えに来てくれるのに……。
唯一の希望にすがりつこうとした途端、胸の奥が軋むように痛んだ。
こんな汚れの染みついた体で、エドワールの前に出ることはできない。
リアーヌは湯船に入り、膝を抱えた。水面が小さく揺れている。何度洗っても消えることのない見えない汚れを抱えたまま、リアーヌは静かに目を閉じた。
年齢は四十代半ばだろうか。腹回りの目立つ上等な服を着込み、指には大ぶりの宝石がいくつも光っている。しかしその態度には、社交の場で身につけるべき節度がまるで感じられなかった。
「こいつがジェラール・ド・ヴィエルの娘か。……本当か? 処刑されたヴィエル元公爵の娘がいるって聞いたから、そいつを指名したんだが。お前で間違いないんだな?」
男はグラスを傾けながら尋ねた。
「はい。かつてはヴィエル公爵家の娘でございました」
「かつては、ねえ」
男は鼻で笑った。
「今じゃ国営娼館の女か。ずいぶんと落ちぶれたもんだなぁ」
リアーヌは、微笑みを崩さなかった。
客の言葉に腹を立ててはならない。相手の機嫌を損ねず、会話を続けること。講習で何度も教えられた心得だった。
それに、男の言うことは事実でもある。自分はもう、公爵令嬢ではない。父は爵位を剥奪され、処刑された。ここにいるのはただの女、娼婦リュネットだ。
「旦那様のお目に留まりましたこと、光栄に存じます」
「ははっ。ずいぶんと上品な口を利くじゃねえか」
男は声を上げて笑った。
「そういうところが気に入らないんだよな。娼婦になっても、まだ貴族気取りか?」
「……旦那様に相応しい一夜の恋人であれるよう、努めております」
「だったらそんなとこに突っ立ってんじゃねえ。ほら、ここに座れよ」
男がソファの隣を叩いた。
リアーヌは一礼し、指示された場所に腰を下ろした。
男との距離を、できるだけ保つように。
しかし、彼はそんな彼女の配慮など気にも留めなかった。
「おい、もっとこっちに来い」
男が肩を抱き寄せる。リアーヌの身体が強張った。突然の接触に、心臓が跳ねる。反射的に身を引きそうになったが、彼女は寸前でこらえた。ここで拒めば、どうなるのだろう。客の機嫌を損ねたと、館の者から叱責されるのだろうか。それとも、もっと厄介なことになるのだろうか。分からない。ただ、逆らわない方がいいと思った。ここにいるのは娼婦リュネット。公爵令嬢リアーヌ・ド・ヴィエルではない。
男は彼女の顔を覗き込む。
「それにしても、お前の親父には感謝しないとな」
リアーヌは、息を止めた。
「……父に?」
「ああ。あの公爵様のおかげで、こんなことができるんだからなぁ」
男は愉快そうに笑いながら、リアーヌの体をまさぐった。
「まさか、あのヴィエル公爵の娘が娼婦になるとは思わなかったぜ。社交界じゃ、ずいぶん話題になったんだぞ」
リアーヌの指先が、膝の上でわずかに震えた。
父は、王国のために働いてきた。何年も国政に携わり、軍務大臣として責任を負い、領民や兵士のことを考えてきた。それなのに──
「……父は、罪を犯しておりません」
気づけば、言葉が口をついて出ていた。
男は一瞬きょとんとしたあと、また大きく笑った。
「おいおい。まだそんなことを言ってるのか? 裁判で有罪になったんだろう? それとも、娼婦になった今でも、自分の家は特別だと思ってるのか?」
「そのようなことは……」
「だったら、もっと素直に楽しませてくれよ」
男はグラスをテーブルに置いた。
「せっかく金を払ってるんだ。公爵令嬢だった女がどんな顔をするのか、見てみたいと思ってな」
おぞましい。リアーヌは背筋に冷たいものが這い上がるのを感じた。
この男は、自分を指名した理由を隠そうともしていない。彼が求めているのは、会話でも、教養でも、もてなしでもない。かつて高い身分にあった女が、落ちぶれた姿を見せること。それを眺めて楽しむこと。ただ、それだけなのだ。
リアーヌは、目を伏せた。胸の奥で、何かが熱くなる。怒りだった。父を侮辱されたことへの怒り。自分の境遇を娯楽として扱われたことへの怒り。そして、そんな男の前で笑顔を作らなければならない自分への怒り。けれど、どれほど怒りを覚えても、ここから立ち去ることはできない。
何かを思い出したのか、唐突に男が話題を変えた。
「そうだ。お前、エルフの血が流れてるんだってな」
「……どなたから、そのような話をお聞きになったのですか?」
「噂だよ、噂。教会の検査で分かったんだろう?」
男は、まるで珍しい品物の話でもするように続けた。
「なるほどな。だから、こんな大人しそうな顔をしてるのか」
リアーヌは答えなかった。口数が減ったのは、怒りを隠しているからだ。しかし男は一人で勝手に納得し、下卑た笑みを浮かべた。
「まあ、何にせよ、今日は楽しませてもらうぜ」
その笑顔を見た瞬間、リアーヌは心の底から相手を軽蔑した。
貴族の身分を失ったことが、こんなにも屈辱的なことだとは思わなかった。
自分を守ってくれるものが、何もない。名前も、家も、父の名誉も、すべてを奪われた自分には、目の前の男の無礼を止める力さえない。それでも、リアーヌは顔を上げた。客の前で、涙を見せるわけにはいかなかった。ましてや、この男に、自分が傷ついていることを悟られるわけにはいかない。
「……かしこまりました」
リアーヌは静かに微笑んだ。その笑顔がどれほど不自然なものだったのか、自分では分からない。男は気にするそぶりも見せず、むしろ興奮したかのように、リアーヌに覆い被さった。
◇
湯の音だけが、浴室に響いていた。
リアーヌは、黙って自分の腕を見つめていた。
白い肌。湯に濡れた髪。指先から滴り落ちる水。見たところ、何も変わっていない。それなのに──
──汚れている。
そんな感覚がつきまとう。
リアーヌは共用のブラシで腕を擦った。肘から手首へ、それが終わると反対の腕も。皮膚が赤くなるまで擦る。しかし汚辱感は消えない。当然だった。目に見える汚れなど、最初からついていないのだから。
それなのに、手を止めることができない。
目には見えない何かが、全身にこびりついているような気がする。自分では取り除けないものが、皮膚の下に入り込んでしまったような、不快な錯覚がつきまとう。
初めて、この浴室に案内された日、リアーヌはこの場所を汚らわしいと思った。見知らぬ男と交わった女たちが使う浴室。自分とは無縁だったはずの場所。ここにいるだけで、自分まで汚れてしまうような気がした。なのに今は、自分自身の方がはるかに汚れている──
──汚れを落とさなければ。あの人が……エドワールが迎えに来てくれるのに……。
唯一の希望にすがりつこうとした途端、胸の奥が軋むように痛んだ。
こんな汚れの染みついた体で、エドワールの前に出ることはできない。
リアーヌは湯船に入り、膝を抱えた。水面が小さく揺れている。何度洗っても消えることのない見えない汚れを抱えたまま、リアーヌは静かに目を閉じた。