冷徹社長はトラウマ秘書を愛で包む
 前髪だけ少し乱れていたので、軽く手で払って直す。これくらいでいい。自分はスポットライトを浴びるべき立場ではない。空気のように場に馴染み、しかるべきタイミングで助けを差しだす。助けられた、と気づいたときにはもう消えている。そういう存在でありたい。

 短い廊下を歩き、社長室へ向かった。念のためノックした後、重厚な樫製の扉を開けば、広々とした部屋が現れる。大きなガラス窓の向こうには秋らしい澄んだ青空が広がり、眼下には銀色のビル群が雑然と立ち並んでいた。仕事に取りかかる前に、紀沙は窓辺に近寄って景色を見下ろす。様々な人々が行き交う、ごちゃごちゃしたこの風景が好きだ。

 一方で部屋の奥に据えられた社長用デスクにはほとんど物が置かれておらず、わずかにある書類の山も整然と積まれている。秘書としては対応しやすくてありがたい。

「こっちが決裁前で、これは会議の事前資料。後はコーヒーマシンを見て、と」

 社長が来る前に、書類を仕分けしたり細々と片付けしたりするのが毎朝の習慣だった。別に頼まれたわけではないが、この方が仕事しやすいだろうと思って続けている。こういう作業は苦ではなかった。手を動かしていると雑念も晴れてゆく、ような気がする。コーヒーマシンに豆を補充し、曇っていたガラスポットを黙々と拭いていると、居室の扉が音もなく開いた。

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