天才建築家の不器用な求婚――仕事のはずが、一途に愛されていました
第六章 会う理由がなくなっても
第10話
晩秋の離れは、庭の梅の葉が、ほとんど落ちていた。縁側に積もった落ち葉を、紬は朝のうちに掃き清めた。今日が、最後の対面での打ち合わせの日だから。
出発は、明後日。
荷造りは終わった。住まいの契約も済ませた。祖母の仏壇には、昨夜、長く手を合わせてきた。あとは、この打ち合わせだけ。
(……これが終われば、全部)
考えかけて、紬は首を振った。文机の前に、律と向かい合って座る。
「では、最終の確認です」
律が、書類の束を並べていく。工事の工程表。見積書。優先順位をまとめた一覧。管理を頼む地域の方への引き継ぎ書。
「工事は、来月から東側の屋根に着手します。進捗は、毎月、報告書をお送りします。判断が必要な箇所は、事前に連絡します」
「はい」
「何か、質問は」
「……ありません。全部、わかりやすいです」
実際、ひとつひとつ、紬が何度も相談して作り上げた計画だった。抜けはない。律が、書類を揃えて、ファイルにまとめる。紬も、自分用の控えを鞄にしまった。
それから、律が、広げていた図面を、くるくると巻いていく。
何度も、何度も、この机いっぱいに広がっていた図面。巻かれて、筒に収まって、机の端に置かれた。
(……あ)
机の上が、広い。初めて見るような、がらんとした木目。湯呑みが二つ、ぽつんと並んでいる。
出発前に、二人で決めておくことは、全部決まった。これで、安心して出発できる。そのはずなのに。
胸の奥に、冷たい風が吹き抜けた。
「紬さん」
律が、静かに口を開いた。
「先日、お伝えした件ですが」
来た、と思った。仕事とは別に、話したいこと。
律の指先が、膝の上で、きゅっと握られているのが見える。いつも落ち着いている人の、そんな癖を、紬は初めて見た。
何を言われるのだろう。聞きたい。でも、聞くのが怖い。
――違う。
(待つだけじゃ、だめ)
頭の中で、誰かがそう言った。祖母だったかもしれないし、自分だったかもしれない。律が、続きを話し出そうとした、その瞬間。
「あの」
紬が、先に声を出した。律が、口を閉じる。心臓が、うるさいくらいに鳴っている。手のひらが、汗ばんでいる。それでも、紬は、顔を上げた。
「仕事が終わっても、お茶に付き合っていただけますか」
言った。言えた。続けて、言葉が、勝手に滑り出そうとする。
「じ、時間が合えば」
逃げ道。いつもの癖。断られても傷つかないように、先に、扉を細く開けておく言い方。そこまで言いかけて、紬は、ぎゅっと唇を結んだ。
(……やめる)
膝の上の手を、握りしめる。
「いえ。……時間が合えば、じゃなくて」
息を吸う。
「家の相談でもなくて。離れのことでもなくて」
声が、震えた。それでも、止めなかった。
「私が、律さんに会いたいんです」
言い終えた途端、離れの中が、しんとなった。風が、庭の枯れ葉を、かさりと鳴らす。律は、動かなかった。
瞬きも、息も、止まっているように見えた。
(……直球すぎたかもしれない)
不安が、背中を這い上がってくる。やっぱり、聞くんじゃなかった。この人の、静かな目に、迷惑そうな色が浮かんでいたら……やってしまったかもしれない。
「……僕も」
低い声が、ようやく、落ちた。
「会いたいです」
紬の呼吸が、止まった。律は、膝の上の手を見つめたまま、ゆっくりと続ける。
「仕事がなくなれば、会う理由を、別に考えなければいけないと思っていました」
「……え」
「どう言えば、不自然にならないか。何を口実にすれば、断られないか。そればかり、ここ数週間、考えていました」
淡々とした声だった。けれど、言葉の端に、隠しきれない熱があった。
「会いたいと、そのまま言って、断られるのが。怖かったんです」
紬は、ぽかんと彼を見つめた。
建築家として、国内外で評価されている人。依頼を選べる人。いつも静かで、揺るがなくて、何でも見通しているような人が。
断られるのが、怖かった、と。胸の奥が、きゅう、と鳴った。苦しいほどに、あたたかい。
「……私も」
気づけば、口が動いていた。
「怖かったです」
「何がですか」
「律さんが、親切にしてくれるのを。特別だって、思ってしまうのが」
でも、もう、止められなかった。
「お仕事の、延長かもしれないって。私にだけじゃなくて、誰にでも、そうなのかもしれないって。そう思おうとして」
「紬さん」
律が、顔を上げた。まっすぐに、紬を見る。
「あなたは特別なんです」
短く、けれど、迷いのない声。律は、それ以上は言わなかった。紬の視界が、じわりと滲んだ。慌てて、瞬きを繰り返す。泣いてはいけない、と思った。
まだ、泣く場面じゃない。でも、堰を切ったように、胸の奥から、何かがあふれてきて。
律は、黙って待っていた。急かさず、慰めず、ただ、そこにいてくれた。やがて、紬は、小さく笑った。
「……ありがとうございます」
「いえ」
「うれしい、です」
「……僕も、です」
二人のあいだに、あたたかい沈黙が落ちた。