天才建築家の不器用な求婚――仕事のはずが、一途に愛されていました
第五章 返事のあった恋文
第9話
十月も半ばを過ぎ、離れの庭に、金木犀の香りが流れはじめたころ。
文書整理は、最後の箱に差しかかっていた。古い行李の底から出てきたのは、擦り切れた表紙の日記帳だった。紬は手袋をはめ、そっと頁を開く。
墨は薄れているけれど、筆跡には見覚えがあった。
(……この、おだやかな書き方って)
恋文の、宛名のない筆跡とは違う。けれど、こちらもまた、丁寧な女性の文字だ。
読み進めるうち、紬の指先が、小さく震えはじめた。
【今日、離れの戸が仕上がった。建具屋の源次さんが、何度も建て付けを確かめていた】
離れの、戸?あの恋文の一節が、頭の中で重なる。朝、戸を開ける音を聞いて、目を覚ます暮らしが書かれていた。
頁をめくる速度が、上がる。
日記の主は、ゆき。この離れで暮らしていた、三崎家の縁者の娘。そして、離れの戸を仕上げた若い建具職人が、源次。
季節が巡るたび、二人の記述が増えていく。日記に出てくる名前に、見覚えがあった。
【源次】
整理済みの書状の末尾にあった、あの署名だ。恋文と並べる。特徴のある払いも、行末でわずかに細くなる線も、これまで照合してきた書状とつながった。
紬はもう一度、日記の日付を確かめた。間違いない。
(あの源次さんは、この離れの戸を作った人だったんだ)
息を詰めて、さらに読み進めた。
【源次さんが、今日も何か言いかけて、やめた。懐に手を入れては、何も出さずに戻す。三度目だった】
思わず、くす、と笑ってしまう。
(渡せなかったんだ)
【四度目に、ようやく口を開いてくれた。
「来年の梅も、一緒に見てくれませんか」と。手紙のことは、何も言わなかった。私は、返事の代わりに、お茶を淹れ直した】
頁の端が、涙で滲んだわけでもないのに、視界がぼやけた。続きの頁には、小さな祝言の記録があった。
【源次さんが、あの日の文を、やっと私に渡してくれた。何度も持ってきては、渡せずにいたそうだ。ずいぶん、くたびれていた】
恋文の紙の、あの折り目。擦れた端。何度も、懐に入れて、取り出しかけて、戻した跡があった。
(……届いていたんだ)
返事のわからなかった、宛名のない恋文。それは、ちゃんと、届いていた。二人は、後に、夫婦になっていたのだ。
「久世さん」
離れの縁側。図面を広げていた律に、紬は、日記を抱えて駆け寄った。
「わかりました。恋文の二人が、どうなったのか」
律は、鉛筆を置いた。
作業の手が、完全に止まる。その瞬間に、紬は、少しだけ驚いた。いつもなら、区切りのいいところまで続けてから、顔を上げる人なのに。
「聞かせてください」
短く、真剣な声。紬は、隣に腰を下ろして、日記の頁を開いた。建具職人の源次。離れで暮らしていたゆき。戸が仕上がった日のこと。四度、懐に入れては戻された手のこと。
「それで、四度目に、言ったそうなんです」
紬は、日記の一行を、指でなぞった。
「『来年の梅も、一緒に見てくれませんか』と」
律が、ゆっくりと目を瞬かせた。
「……手紙は」
「渡せなかったんです。そのときは」
「では」
言いかけた律の声が、ほんの少し、硬い。紬は、にっこり笑って、次の頁を開いた。
「でも、祝言のときに。何度も持ってきては渡せずにいた手紙を、渡したと書いてあります。ずいぶん、くたびれていたそうです」
「…………」
「二人は、結婚していました」
言い終えるより早く。律の肩から、すうっと、力が抜けた。長い息が、ゆっくりと吐き出される。目元が、見たことがないほどやわらいで、口元が、ほんのわずかに、ほどけた。
「……そうですか」
その声は、とても静かで。
「よかった」
ひとことだけ、こぼれた。紬は、思わず彼を見つめた。目に見えて、安堵していた。
(この人、ずっと、気にしてたんだな)
宛名のない手紙のことを。届いたのかどうかを。あの雨の日に呟いた、小さな声を思い出す。
『返事があるといい』
あれは、本当に、心の底から出た言葉だったのだ。胸のあたりが、じんわり、あたたかくなる。
「久世さん」
「はい」
「ずっと、気にかけていてくださったんですね」
律は、わずかに目を伏せた。
「……仕事の、延長で」
そう言いながら、耳の先が、また、少し赤い。紬は、くすくす笑って、日記を抱え直した。
「あの、でも、まだ続きがあって」
「はい」
「ゆきさんの日記に、梅の木のことが書いてあるんです。源次さんが、離れの庭に、苗木を一本植えたって。それが、今の庭の梅の古木かもしれなくて。だとしたら、樹齢は」
「紬さん」
「それで、この年に、戸の建て付けを直した記録が」
「お茶を。喉が渇くでしょう」
目の前に湯呑みを置かれて、はっと我に返った。縁側の庭先で、夕日が傾いている。気づけば、ずいぶん長いあいだ、一人で喋り続けていた。
「あっ……す、すみません。夢中になってしまって。長くなりました」
慌てて頭を下げる。また、やってしまった。自分の好きなことを、延々と。けれど、律は、静かに首を振った。
「続きを聞きたいです」
「え」
「梅の木の話。戸の建て付けを直した記録の話」
まっすぐな目で、そう言った。
「全部、聞きたいです」
紬は、ぽかんと口を開けると、胸の奥で何かが音を立てて、はっきりと形になった。
(……あぁ)
気づいてしまった。優しくしてもらうのが、うれしいだけじゃない。見つけたことを、一番に、この人に話したい。夢中で喋って、そのあと、この人が何を考えるのか知りたい。同じ紙を見て、同じところで、笑いたい。
分け合いたいのだ。喜びも、驚きも。
(私、この人のことが)
言葉にする前に、頬が熱くなって、紬は慌てて日記で顔を隠した。
「……では、続きを、お話ししますね」
「はい」
声が、少し震えてしまった。気づかれただろうか。日記の陰から、そっと見ると、律は、真面目な顔で、ペンを握り直していた。メモを取る準備までしている。
それが、どうしようもなく、愛おしくて。紬は、日記の頁をめくりながら、小さく息を吸い込んだ。話し終えたころには、空は、すっかり藍色になっていた。
離れの灯りを落とし、二人で縁側を出る。庭の金木犀が、夜の空気に、甘く香っている。
門のそばまで来て、律が足を止めた。
「紬さん」
「はい」
「次の打ち合わせのあと、時間をいただけますか」
「時間、ですか」
「はい」
街灯の下で、律の横顔が、少しだけ硬い。
「仕事とは別に、話したいことがあります」
風が、金木犀を揺らした。紬は、息を止めた。
(仕事とは、別に)
期待してはいけない、と、頭のどこかで声がした。いつもの自分なら、そう言い聞かせて、気持ちを打ち消す。そうして、いつだって、傷つかない場所に立ってきた。でも……紬は、打ち消さなかった。胸の奥で膨らむ期待を、そのまま抱えて。
「……はい」
小さく、けれど、はっきりと頷いた。律が、一瞬だけ息をのむ。それから、息を吐いた。
「ありがとうございます」
「いえ。……楽しみに、しています」
言ってしまった。けれど、取り消さなかった。別れ際、律は、深く頭を下げて、夜道を歩いていった。背中が見えなくなるまで見送ってから、紬は、鞄から手帳を取り出す。街灯の下で、ペンを走らせた。
次の打ち合わせの日。その日の欄に、小さく、書き加える。
【そのあと、話】
そして、その横に、もうひとつ。
小さな、小さな、丸を。