天才建築家の不器用な求婚――仕事のはずが、一途に愛されていました
第11話
しばらくして、律が、居住まいを正した。
「紬さん。お願いがあります」
「はい」
「すみません。……今、考えていた言葉が、全部飛びました」
「え?」
意外な言葉に、首を傾げる。律は、困ったように、ほんの少しだけ視線を逸らした。
「きちんと、伝えたいことがあるんです。今日、この場で、勢いで言ってしまいたくない」
「……はい」
「明日の夕方、もう一度、会っていただけませんか」
明日。出発の、前日。紬は、胸の前で、そっと両手を重ねた。
彼に「きちんと伝えたい」という言葉だけで、胸がいっぱいになる。
「……はい」
頷いた声は、自分でも驚くほど、やわらかかった。門の前まで、律が送ってくれた。
夕暮れの空に、細い雲が流れている。石畳に、二人分の影が伸びていた。別れる直前。紬は、足を止めた。
「律さん」
「はい」
「遠方へ行ってからも……」
言いかけて、一度、息を整える。
「用事がなくても、連絡して、いいですかっ?」
律は、少しのあいだ、紬を見つめていた。それから、真面目に、答える。
「仕事中は、すぐに返せないことがあります。現場に入ると、数日、連絡が取れない日もあるかもしれません」
「はい」
「でも」
律の声が、少し、やわらかくなった。
「紬さんの話を、聞きたいです。遅くなっても、必ず、読みます」
「……はい」
「何でもいいです。今日読んだ文書のことでも。食べたもののことでも」
紬は、くすっと笑った。
「卵焼きのことでも?」
「はい。卵焼きのことでも」
真顔で言うので、余計におかしい。笑い声が、秋の空気に溶けていく。笑い終えてから、紬は、小さく言った。
「私も、律さんのことが知りたいです」
「僕の」
「毎日、どんな場所で、何を見ているのか。お昼に、何を食べているのか……肩に、埃をつけて帰ってきていないか」
律が、ふっと、息だけで笑った。
「それは、たぶん、ついています」
「やっぱり」
二人で、笑った。夕日が、律の横顔を、橙色に染めている。笑いがおさまったあと、紬は、まっすぐに彼を見て言った。
「明日、待っています」
律が、ゆっくりと頷く。
「必ず、行きます」
門の向こうへ歩いていく背中を、紬は、見えなくなるまで見送った。
部屋に戻ると、手帳を取り出す。明日の欄。
【夕方。離れ。】
ペンを持つ手が、微かに震えていた。
いつもなら【打ち合わせ】と書かなくていいことが、うれしかった。
初めて、自分が、自分のために交わした約束だった。
【律さんと会う】
震える字で、そう書き込んだ。