天才建築家の不器用な求婚――仕事のはずが、一途に愛されていました
第七章 あなたと結婚したいです

第12話



 出発前日の夕方は、よく晴れていた。荷物はすべて送り終えた。部屋は、がらんと片づいている。
 母が作ってくれた小さな包みを玄関に置いて、紬は、ひとりで離れへ向かった。


(……来てくださっているかな)


 約束の時間よりも、少し早い。それでも、足は自然と速くなる。離れの戸の前で、深呼吸をひとつ。そっと、戸を開けた。


「……あ」


 部屋の灯りは、すでについていた。文机の前に、律が座っている。早く着いていたのだ。
 そして、机の上には、湯呑みが二つ。湯気が、ゆらゆらと立ちのぼっている。


(……お茶が、淹れてある)


 図面は、どこにもなかった。書類もない。ただ、二人分のお茶と、律の前に置かれた、薄い封筒がひとつ。

「お待ちしていました」

 律が、静かに立ち上がりかけて、少し迷ってから、また座った。

「どうぞ。座ってください」
「はい。……お茶、ありがとうございます」

 向かい合って、腰を下ろす。沈黙が、落ちた。


(……あれ)


 紬は、気づいた。律の座り方が、いつもよりも硬い。背筋が、ぴんと伸びすぎている。膝の上の手が、何度も、組み直されている。

 湯呑みに伸びた指先が、一度、ためらって、引っ込んだ。


(律さんも、緊張してる?)


そう思うと、不思議と、自分の心臓の音が、少しだけ静まった。

「……紬さん」
「はい」
「これを」

律が、机の上の封筒を、そっと差し出した。白い、飾り気のない封筒。宛名も、差出人も、書かれていない。


「開けても、いいですか」
「はい」


紬は、封筒を受け取った。指先が、少し震える。中には、一枚の便箋が入っていた。四つ折りを、ゆっくり開く。真っ白な紙の、ちょうど中央に。角ばった、几帳面な文字で、一行だけ。

――あなたと結婚したいです。

紬の、時間が止まった。

(……え)

もう一度、読む。

(……え? えっ)

昨日。昨日、やっと、「会いたい」と言えたばかりなのに。その先の、そのまた先の言葉が、目の前に、墨の字で、置かれている。

宛名のない恋文を読んだ、あの雨の日のことが、頭をよぎった。

(これ、恋文だ)

律が、自分の言葉で書いた、恋文。

「…………」

言葉が、出てこない。
便箋から顔を上げると、律は、真っ赤になっていた。耳の先まで。いつも、冷静な顔をしている人が。

「……順序を、間違えました」

低い声が、小さく落ちる。

「本当は、もっと先に伝えるべきことがありました。それを飛ばして、結論から書いてしまって」

 律は、膝の上で、拳を握り直した。

「改めて、言わせてください」

 顔を上げて、まっすぐに、紬を見る。

「私は……紬さんが、好きです」


 心臓が、どくん、と大きく跳ねた。
 声が、真剣だった。逃げ道が、どこにもない。

「最初に、柱の背丈の印を見た日から。あなたが、残したい理由を話してくれた日から、ずっと」
「……っ……」
「会う日を、楽しみにしていました。火曜と木曜を、数えていました」

 手帳の丸を思い出して、紬は小さく俯いた。


「仕事を口実にすれば、拒まれずに済むと思っていました。打ち合わせという名前をつければ、会いたいと言わなくても、会える。それを、ずるいと、わかっていて」

 苦しそうに、律は、息を吐いた。

「紬さんが、遠くへ行くと聞いて、初めて、それではもう、足りないと気づきました」

 紬は、胸の前で、便箋を握りしめた。うれしい……胸の奥が、あふれそうなほど、うれしい。

 今すぐ、「私も」と言ってしまいたい。だけど、頭の隅で、小さな声がした。

(それでも、返事の前に、一つだけ、聞いておきたい)

 律が思い描いている未来を、自分も知りたかった。紬は、ゆっくり、息を吸った。

「律さん」
「はい」
「どうして、結婚……なんですか」

 律が、はっとした。意地悪な質問ではない。ただ、聞きたいのだ。この人が、一番大事なところで、何を考えているのか。


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