天才建築家の不器用な求婚――仕事のはずが、一途に愛されていました
第13話
律は、しばらく、黙っていた。逃げずに、言葉を探している顔だった。
「……会いたいだけなら」
やがて、慎重に、口を開く。
「そう書けばよかったんです。『会いたい』と。昨日、あなたが言ってくれたように」
「はい」
「でも、考えたのは、次に会う日のことだけではありませんでした」
律の視線が、机の上の湯呑みに落ちる。
「紬さんが、仕事で忙しい日に。何ができるだろうと、考えました。食事を作る、とか、荷物を持つ、とか。たいしたことは、できないかもしれませんが」
「……」
「うれしい知らせがあった日に、一番に聞く相手に、なれるだろうか。落ち込んだ日に、何も言わず、隣に座っていられるだろうか。そういうことを、考えました」
低い声が、少しだけ、かすれる。
「この先の暮らしにも、関わりたいと思ったんです。一日だけでなく、ずっと」
紬の喉が、きゅっと詰まった。
「それで、気づきました」
律は、まっすぐに、紬を見た。
「それは、僕ひとりでは、決められないことだと」
「……」
「それに、僕はあなたと結婚したい、と。僕の、望みとして」
紬は、便箋に、もう一度目を落とした。
――あなたと結婚したいです。
命令でも、お願いでもない。ただの、望みの言葉。
(この人は、決めて、私に差し出したんじゃない)
一緒に決めるために、置いてくれたのだ。目の奥が、熱くなった。でも、まだ、言わなければならないことがある。
「……私」
声が、少し、震える。
「仕事を、続けたいです」
「続けてほしいです」
迷いのない声だった。
「その先の暮らし方は、一緒に考えてもらえませんか」
紬は、瞬きを繰り返した。
(一緒に、考える)
自分が何かを諦めて、彼の暮らしに合わせるのではない。まだ形のない二人の暮らしを、これから作っていける。胸が、いっぱいになった。
――それでも。
残っている不安が、ひとつだけ、喉の奥にあった。
聞いてしまえば、答えを知ってしまう。怖い。でも、聞かなければ、きっと、一生、どこかで引っかかる。
紬は、膝の上の手を、ぎゅっと握った。
「律さん」
「はい」
「私が、三崎の娘でなくても」
声が、小さく、かすれた。
「……会いたいと、思ってくださいましたか?」
離れの中が、しん、と静まる。言ってしまった。令嬢でも、名家の娘でも、跡取りでもない紬だったら。出会いの理由もなく、ただの、ひとりの人間だったら。
律は、すぐには答えなかった。安易に、「もちろん」とは言わなかった。しばらく、紬を見つめて、慎重に、言葉を選ぶ。
「……出会うのは」
低い声が、ゆっくりと響く。
「難しかったかもしれません。僕が、この家を訪ねる理由が、なかったでしょうから」
正直な答えだった。胸の奥が、ちくりと痛む。
「でも……会っていたら、好きになったと思います」
紬は、息を止めた。
「どこで、会ったとしても。何をしている人でも」
「……どうして、そう思うんですか」
「理由を、挙げてもいいですか」
紬は頷くと、律は淡々と、けれど、ひとつひとつ確かめるように話し始めた。
「わからないことを、曖昧にしないところです。一文字の読みを、何度も照らし合わせて、確かなことと、そうであってほしいことを、分けるところ」
「……」
「夢中になると、帰る時間を忘れるところ。さっきまで、礼儀正しく話していたのに、文書の話になると、目が子どもみたいになるところ」
紬の頬が、かあっと熱くなる。
「それから」
律の口元が、ほんのわずかに、緩んだ。
「笑うのを我慢すると、先に、目が笑うところです」
「……っ……」
思わず、両手で、顔を覆った。
(そんなところ、見られていたの)
家柄でも。教養の肩書でも。令嬢としての、整った振る舞いでもなく紬自身も知らなかった紬のくせを、この人は、ひとつずつ、拾い上げていたのだ。
(私は、三崎の娘としてじゃなく)
ひとりの人として、見られていた。自分が思っていたよりも、ずっと、まっすぐに。指の隙間から、涙が、一粒、こぼれた。
「紬さん」
「……大丈夫、です。うれしくて」
震える声で、そう言うと、律は、ほっとしたように、肩の力を抜いた。涙が落ち着くまで、律は、何も言わずに待ってくれた。
やがて、紬が顔を上げると、律は、上着の内ポケットから、小さな箱を取り出した。
「こんなものも用意してしまいました」
手のひらにすっぽり収まる、深い紺色の、小箱。机の上に、そっと置かれる。
「……これは」
「指輪です」
律の声が、また、緊張でこわばっている。
「ただ、紬さんの好みを、すべて知っているわけではないので。違っていたら、一緒に、選び直してほしいです」
「え」
「何度でも、構いません。ちゃんと、気に入ったものを、つけてほしいので」
真剣な顔で、そんなことを言う。それが、おかしくて、愛おしかった。
「それから」
律は、箱から視線を上げた。
「今日、返事をもらわなくても、構いません。何日でも、何か月でも。待ちます」
紬は、箱を見つめた。返事を、しなくてもいい。選択は、紬の手の中にある。
どれを選んでも、この人は、責めない。そう思った瞬間、胸の奥が、すうっと軽くなった。
(ああ、選べるんだ)
令嬢として、望ましい返事を。期待に応える返事を。そうやって、いつも、先回りして答えを選んできた。
でも、今は、違う。
(私は、待ちたいんじゃない)
待たせたくも、ない。返事を、したい。自分の言葉で。紬は、顔を上げた。
「……律さん」
「はい」
「私の作る卵焼きは、甘いですよ」
律が、きょとんとした。
「……え?」
「うちの卵焼きは、はちみつと甘酒が入っているので。出汁じゃなくて、甘いんです。祖母から教わった味で」
何を言っているんだろう、と自分でも思う。こんな大事な場面で、卵焼きの話を……。
けれど、律は、真面目な顔で、少し考えてから、答えた。
「甘いのも、好きです」
「えっ?」
紬は、ぷっと吹き出した。律も、つられて、ふっと笑う。張りつめていた空気が、ふわりと、ほどけていく。
笑いながら、紬は、ゆっくりと息を整えた。
「……私」
言葉を、ひとつずつ、並べる。
「律さんのことを、まだ、ほとんど知りません」
「……はい」
「疲れた日に、何を食べたいのか。お休みの日は、何をして過ごすのか。朝は、強いのか、弱いのか。眠れない夜に、何を考えているのか」
律が、じっと聞いている。
「知らないことが、たくさんあります。それを、これから、覚えたいんです」
膝の上で、手を、ぎゅっと組む。怖くない、と言えば、嘘になる。家族に何と言われるかも、まだ、わからない。それでも紬は、まっすぐに律を見た。
「私も、あなたと……律さんと、結婚したいです」
紬がそう言えば、律は、動かなかった。それから、ゆっくりと、俯いた。
肩が、小さく、震えているのが見える。長い、長い沈黙のあと。
「……よかった」
絞り出すような声が、畳に落ちた。心の底から、こぼれたような、ひとことだった。