天才建築家の不器用な求婚――仕事のはずが、一途に愛されていました
第二章 恋文の読めない人

第3話


 離れの文書整理は、翌週から始まった。縁側の障子を開け放ち、風を通す。文箱に行李、桐の箪笥。祖母が残したものをひとつずつ机に出し、状態を見て、記録していく。資料館の仕事と変わらない手順のはずなのに、不思議と胸が弾んだ。

(誰かのためじゃない仕事って、久しぶりかもしれない)

資料館の業務に、本邸の用事。親戚への連絡。紬の一週間は、いつも誰かの都合で埋まっている。その隙間に、離れの時間を、自分の手で差し込んだ。手帳の余白に、小さく書き込む。

【火・木 離れ 久世さんと打ち合わせ】

 ペン先で丸をつけて、紬はこっそり口元をゆるめた。律は週に二、三度、離れへやってきた。修復の方針を詰めるため、と本人は言う。床を測り、柱を叩き、屋根裏へ潜り、そのたびに、肩や髪に埃をつけて戻ってくる。

「久世さん、また」
「……ついていますか」
「頭に。蜘蛛の巣が」

 思わず手を伸ばしかけて、紬はぴたりと止まった。距離が、近い。

「ご、ご自分で、取ってください」
「はい。どのあたりですか」
「右の……いえ、もう少し上の」

 もたもたしている彼に笑いをこらえきれず、結局、ハンカチを差し出した。律は礼を言って受け取り、髪の蜘蛛の巣を払った。

「洗ってお返しします」
「いえ、そのままで」
「洗います」

 丁寧に畳むと、彼はハンカチを鞄の内ポケットへしまった。

(……真面目な人なんだな)

 それが、なんだかおかしくて、紬はまた笑ってしまった。梅雨に入った最初の雨の日だった。窓の外では、軒先から雨粒が途切れなく落ちている。紬は文机に向かい、桐の文箱を開けた。底の浅い箱に、束ねた書状。その一番下に、一通だけ、紐の色の違う封書があった。

「……宛名が、ありません」

 裏にも、差出人の名はない。そっと開くと、薄い和紙の上に、細い墨の文字が並んでいた。

「読めますか」

 向かいで図面を広げていた律が、顔を上げる。

「少し、時間をいただければ。虫食いもありますし、くずし字が癖のある書き方で」
「お願いします」

 律は図面を脇へ寄せ、静かに待つ姿勢になった。急かさない。覗き込みもしない。紬は紙面に目を落とした。
 一文字ずつ、たどる。文字の止め、払い、墨の濃淡。祖母の膝の上で覚えた作業だ。夢中になると、周りの音が遠くなる。
雨音。紙をめくる、かすかな音。

「……朝」

 気づけば、声に出していた。

「朝、あなたが戸を開ける音を聞いて、目を覚ます暮らしがしたい」

 律が、小さく瞬く。

「雨の日には、同じ軒の下で、ただ雨を見ていたい。……それだけの、ささやかな望みです。そう、書いてあります」

 読み終えると、離れの中が、しんとした。頰が熱い。自分の声で読むと、他人の恋文が、まるで自分のもののように響く。

(どうして、こんなに恥ずかしいの)

 仕事でもやっていることなのに。いつも通り読んだだけなのに。律は、しばらく黙っていた。それから、真剣そのものの顔で言った。

「結婚したあとのことを、よく考えていますね」
「……え」
「朝の暮らしと、雨の日の過ごし方まで。かなり具体的です」

 数秒、ぽかんとして。紬は、堪えきれずに吹き出した。

「ふふっ……ごめんなさい、そういう感想を言われると思わなくて」
「違いましたか」
「いいえ。たぶん、合っています」

 恋文を読んで、胸が高鳴ったり、切なくなったりする人は多い。でも、この人は、まず暮らしを見るのだ。建築家らしい、と言えばそうなのかもしれない。笑いすぎて滲んだ涙を、指先で拭う。その様子を、律が、じっと見ていた。何か言いたげに見えて、でも、何も言わない。

「……誰が、誰に書いたものなんでしょうね」

 話題を変えるように、紬は文を見下ろした。

「宛名もないですし、届いたのかどうかも」
「調べられますか」
「やってみます。日記や、他の書状と照らし合わせれば、手がかりがあるかもしれません」
「そうですか」

 律は雨の降る窓へ目を向けて、ぽつりと言った。

「返事があるといいですね」

 とても小さな声だった。
 仕事の口調ではなかった気がして、紬は、思わず彼の横顔を見る。

(……今の、どういう意味だろう)

 問い返す前に、律は図面を引き寄せていた。

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