天才建築家の不器用な求婚――仕事のはずが、一途に愛されていました
第4話
調べ始めて、数日が過ぎた。恋文と同じ筆跡の書状は、箪笥の奥から何通か出てきた。紬は机にそれらを並べ、虫眼鏡を手に、唸っている。書状の末尾には“源次”とあった。恋文の書き手の名前だろう。けれど、どこの誰で、誰に宛てたものなのかは、まだわからなかった。
「その一文字が、気になりますか」
向かいの律が、麦茶を差し出しながら尋ねた。
「はい。……最初は、『添う』と読んでいたんです」
恋文の、最後のほう。
――あなたの暮らしに、添いたい。
添い遂げたい、という意味にも取れる。胸が痛くなるほど、きれいな一文だった。
「でも、同じ人の他の書状と見比べたら、この人は『沿』の字を、こんなふうに書く癖があって」
紬は、紙の上を指でなぞる。
「だとすると、『沿いたい』……あなたの暮らしの流れに、沿っていきたい、になります」
「意味が、変わりますね」
「はい。『添う』のほうが、ずっと素敵なんですけど」
言ってしまってから、紬は小さく肩を落とした。
「でも、たぶん『沿』が正しいです。そう書いてあったらうれしい、ということと、確かなことは別なので」
自分に言い聞かせるように、そう言った。沈黙が落ちる。顔を上げると、律が、じっとこちらを見ていた。
(……え)
何か、変なことを言っただろうか。慌てて口を開きかけたとき、律はゆっくりと視線を机の資料へ戻した。
「では、もう一度聞かせてください」
「え?」
「その、『沿』の根拠を。他の書状と、どこが同じなのか」
淡々とした声だった。呆れられたのでも、退屈されたのでもない。ただ、続きを待っている。
紬は、きょとんとして、それからゆっくり、胸があたたかくなるのを感じた。
(この人、私の話を、ちゃんと聞いてくれるんだ)
「……はい。では、まず、この払いの角度ですが」
気づけば、夢中で話していた。字形の癖。墨の運び。書状の年代。ほかの文書との照合。喋りながら、身を乗り出して、紙を指す。
感じよく、振る舞うことを、忘れていた。途中ではっとして口をつぐむと、律は手元の図面にメモを取りながら、ふっと言った。
「面白いですね」
「……お仕事の話では、ないのに」
「いえ。わからないことを、わからないままにしない仕事は、僕の仕事と少し似ています」
さらりと言われた。それだけの言葉が、なぜだか胸の奥に、すとんと落ちた。
その夜。自室の机で、紬は手帳を開いた。来週の火曜と木曜に、小さな丸がついている。
(……なんで、こんなに楽しみなんだろう)
恋文のためだ。離れのためだ。仕事なのだから、当たり前。頭ではそう思うのに、手帳の丸を指でなぞるたび、胸のあたりがくすぐったい。
『久世さん』
書き込んだ文字を見つめて、紬は、はっとした。打ち合わせ、とだけ書けばいいところに、毎回、彼の名前を入れていることに、いま気づいてしまった。
「……っ」
慌ててペンを置き、両手で頰を押さえる。熱い。窓の外では、雨が静かに降り続けていた。同じ軒の下で、雨を見ていたい。昼間に読んだ文の一節が、なぜか、頭の中で何度も繰り返される。
(……違う。これは、あの恋文の話で)
自分に言い聞かせる。けれど、会いたい理由が、もう家の相談だけではなくなっていることを、紬は少しだけ、認めかけていた。