天才建築家の不器用な求婚――仕事のはずが、一途に愛されていました
第三章 令嬢の笑顔、その向こう
第5話
梅雨が明けるころ、三崎家で小さな集まりが開かれた。毎年この時期に、親戚と、父の古い知人を招いて行う会だ。今年は、離れの件もあって、律も修復計画の説明のために呼ばれていた。
「紬、お客様がお着きだ」
「はい、すぐに」
玄関で草履を揃え、来客を座敷へ案内する。庭を眺めたい方には縁側の席を。足の悪い大叔母さまには、座椅子と、出入口に近い場所を。
席順は、前の晩に頭の中で何度も並べ替えた。仲の悪い叔父同士は離して、でも、話が途切れない程度の距離に。
(これで、大丈夫)
台所へ戻って料理の運び出しを確認していると、手伝いの女性が声をかけてきた。
「お嬢さま、本当にいつもありがとうございます。お嬢さまがいらっしゃると、場がまるく収まりますわ」
「いえ、そんな。こちらこそ、いつも助かっています」
にこ、と微笑む。
(……まるく、収まるかぁ)
ほめ言葉のはずなのに、胸の奥が、すこしだけ乾いた。
会が始まって一時間。座敷には、あたたかなざわめきが満ちていた。
律は、父の隣の席で、離れの修復計画を簡潔に説明していた。床下の状態。屋根の補修の順序。全体の費用の目安。専門用語を、やさしい言葉に置き換えている。
長々と話さない。質問が出れば、一つずつ、正直に答える。
(久世さん、やっぱり……仕事できる人だ)
名家の座敷でも、何も変わらない人だ。肩に、埃はついていないけれど。思わず小さく笑いかけて、紬は、慌てて表情を引き締めた。
「紬ちゃん」
隣の席の、父の古い知人の奥さまが、にこにこと話しかけてくる。
「紬ちゃんも、そろそろいいお話があるんじゃなくて? 三崎のお家も、これで安泰ねえ」
場が、一瞬、なごやかに湧いた。
「あら、本当に」
「どなたか、いいお方は」
冗談めかした声が、いくつも重なる。悪気は、どこにもない。それは、知っている。紬は、いつもの笑みを浮かべた。
「ふふ。ご縁があれば、そのうちに」
「まあ、控えめねえ」
「本当にいい子で」
話は、すぐに別の方向へ流れていった。紬は急須を手に取り、近くの湯呑みへ、順番にお茶を注ぎ足す。口元には、きれいな微笑みを置いたまま。
(……大丈夫)
そのとき、ふと、視線を感じた。顔を向けると、座敷の向こうで、律がこちらを見ていた。
目が合った。だけど、一瞬だった。律は何事もなかったように、父へ向き直る。
けれど、紬の背中に、ひやりとした感覚が走った。
(見られた、かもしれない)
何を、とは、自分でもよくわからないのに。集まりが終わったのは、夕方だった。
客を見送り、片づけを手伝い、母屋の灯りを一つずつ落としていく。最後に、紬は、離れから借り出していた資料の箱を抱えた。
「紬」
「離れへ戻してきます。すぐ戻ります」
父の返事を待たずに、縁側から庭へ降りる。夕暮れの庭は、蟬の声が遠くに聞こえるだけで、ひどく静かだった。足を止める。肩の力が、ようやく抜けた。
「紬さん」
「……っ……」
後ろから声がして、箱を落としかけた。振り返ると、律が立っていた。
「驚かせました」
「いえ……久世さん、もうお帰りになったのかと」
「帰る前に、離れの鍵を、お返ししようと思って」
手のひらに、見慣れた古い鍵。紬は受け取ろうとして、両手がふさがっていることに気づいた。律は何も言わず、鍵を自分の上着のポケットへ戻した。それから、静かに言う。
「今日は、ほとんど座っていませんでしたね」
心臓が、小さく跳ねた。
「……慣れていますから」
いつもの調子で、そう返した。笑顔も、ちゃんとつけて。律は、それ以上は聞かなかった。ただ、紬の腕から、箱を半分、自然に引き受ける。重みが、ふっと軽くなった。
「……ありがとうございます」
「いえ」
二人並んで、離れへ向かう。足音と、虫の声だけ。戸を開け、灯りをつけ、文机の前まで箱を運ぶ。静まり返った部屋に、二人の呼吸だけが残った。誰もいない。誰にも、見られていない。気がつくと、言葉が口からこぼれていた。
「慣れていることと、疲れないことは、違いますね」
言ってしまってから、血の気が引いた。
(今の、何を言って……!)
「す、すみません。愚痴を、聞かせてしまって」
慌てて頭を下げる。お客様である人に、何を言っているのだろう。ご挨拶の一つもできない娘だと、思われたら――
律は、持っていた箱を、そっと机へ下ろした。
「では、今日はここまでにしましょう」
「……え?」
「今日の作業です。続きは、また次回に」
このあと、集まりで出た質問を整理する約束だった。律は、机の端に置いてあった図面を鞄へしまった。
「で、でも、今日の分は」
「急ぎではありません」
淡々とした声だった。慰めの言葉も、助言もない。
ただ、紬が詫びたことには、何も触れなかった。愚痴ではなく、ただの事実として、受け取ってくれた。喉の奥が、じんと熱くなる。
「……お茶、淹れましょうか」
「いえ。紬さんは、座っていてください」
言われて、紬は、ぽかんとした。それから、文机の前に腰を下ろした。畳のやさしい匂いが、足元から立ちのぼる。律が、台所のほうへ消えていく。やがて、台所から、やかんを置く音と、食器の触れ合う音がした。
(……変な人)
そんなことを思いながらも紬は、口元が、ほころんでいた。