天才建築家の不器用な求婚――仕事のはずが、一途に愛されていました
第6話
あれから数日後。
離れの縁側で、二人は昼食をとっていた。
律が買ってきた仕出し弁当の蓋を開け、紬は自分の弁当箱を広げる。向かい合って、ではなく、縁側に並んで座る形になった。
(……近い)
意識しないように、箸を動かす。庭の紫陽花が、まだ名残の青を残していた。
「紬さん」
「はい?」
律が、自分の弁当の隅から、黄色い一切れを、箸でつまみ上げた。
「どうぞ」
卵焼きだった。
「えっ。あの、いただいていいんですか?」
「好きだと、おっしゃっていたので」
「……私、言いましたか?」
「最初の週に。お弁当の話になったとき、『卵焼きがいちばん好きなんです』と」
言ったかもしれない……だけど、あまりにも何気ない会話の途中で、紬自身ですらすっかり忘れていたのに。
「覚えて、いらしたんですか」
「はい」
当たり前のように、頷かれる。紬は、箸先の卵焼きと、律の顔を、交互に見た。
「……いただきます」
口に運ぶ。出汁の効いた、やさしい味が広がった。
「おいしい」
「よかった」
そのひと言が、思いがけず、ほっとした響きだった気づけば、紬も尋ねていた。
「でも、律さんも、お好きなんでしょう? 卵焼き」
自分でも、初めて名前で呼んだことに、言ってから気づく。慌てて訂正しようとして――律が、先に答えた。
「好きです」
「でしたら、どうして、私に」
「でも、あなたが喜ぶのではないかと思ったので」
箸が、止まった。風鈴が、からん、と鳴った。
(……え?)
今、なんて。君、と呼ばれたのは、たぶん初めてで。
喜ぶので。
私が喜ぶから、自分の好きなものを、分けてくれた、ということ。
(気の利いた返事を、しなきゃ)
何か、あるはずだ。いつもなら、場に合わせた言葉が、ちゃんと出てくるのに。
「……そ、う、ですか」
喉から出たのは、それだけだった。律はといえば、いつもと同じ静かな顔で、残りの弁当を食べている。
気にしていないのか、気にしているのか。耳の先が少しだけ赤く見えたのは、きっと、日差しのせいだ。
紬は、俯いて、残りの卵焼きを、ゆっくり、ゆっくり噛みしめた。
***
その日の夕方、帰宅した紬を、父が呼び止めた。
「紬。来週の土曜のことだが」
「はい」
「親戚の集まりがある。手伝いを、頼めるか」
反射的に、口が動いた。
「はい、わかりました」
そこまで言って、手帳が頭をよぎった。来週の土曜。丸がついている日。
(離れの打ち合わせ。それに、資料館の仕事もある)
「……お父さま」
「うん?」
「その日は、仕事があります」
父が、おや、という顔で紬を見る。今まで、そんなふうに断られたことは、あまりなかったからだろう。心臓が、どくどくと鳴る。けれど、続けた。
「代わりに、前日の金曜日なら、準備を手伝えます。当日は、お手伝いの方に、お願いできませんか」
短い沈黙。父は、少し驚いたように目を見開き、それから、ふっと息を吐いた。
「……そうか。わかった。金曜に頼む」
「はい。ありがとうございます」
部屋を出て、廊下を歩く。足が、少しだけ震えていた。
(はじめて、断れた)
断ってもよかったのだ。父は、怒らなかった。自室の戸を閉めて、背中をつける。そこで初めて、紬は思い当たった。
(私、断る前から、ずっと、諦めていた)
言えば困らせる。言わなければ、まるく収まる。そう決めつけて、何度、手帳に丸をつけた日を飲み込んできただろう。
『慣れていることと、疲れないことは、違いますね』
離れで、思わずこぼした言葉が、耳の奥によみがえる。あれを、何も言わずに受け取ってくれた人がいたから。
(……久世さんが、いたから)
胸に手を当てる。どきどきと、速い鼓動。それは、緊張のせいだけではない。
卵焼きの味と、「君が喜ぶので」と言った低い声が、いつまでも、消えなかった。