天才建築家の不器用な求婚――仕事のはずが、一途に愛されていました
第四章 ここを離れる日
第7話
蟬の声が弱まり、朝晩の風に秋のにおいが混じりはじめたころ。資料館の事務室で、紬のスマートフォンが短く震えた。
画面に表示された差出人の名前を見て、息が止まる。
遠方にある古文書資料館の名だ。
何度も書き直して送った応募書類。
ずっと夢見ていた長い整理事業に携われるお仕事の面接を受けたのは一週間前のこと。
指先が冷たい。深呼吸をひとつして、メールを開く。
【このたびは、採用が決定いたしましたことをご連絡申し上げます】
目が、文字の上を滑った。
もう一度、最初から読む……採用、決定。
「……っ……」
口元を、両手で覆った。叫びそうになるのを、必死でこらえる。ここは職場だ。
(受かった。私、受かった)
足の力が抜けて、椅子に座り込む。胸の奥から、じわじわと、熱いものが込み上げてきた。誰かの期待に応えるために選んだ道ではない。自分で選んで、自分で手を伸ばした仕事だ。
こうなれば、学芸長に報告しなくてはいけないと思い話をしに行く。前々から話はしてあったのですぐに対応してくれて今月末で退職が決まった。
その夜、紬はまっ先に仏間へ向かった。祖母の写真の前に正座して、手を合わせる。
「おばあさま。決まりました」
写真の中の祖母は、いつものように、やわらかく笑っている。
「古文書を読む仕事です。おばあさまに教わったことが、全部、役に立つの」
声が、少し震えた。線香の細い煙が、ゆらゆらと立ちのぼる。報告を終えて、顔を上げる。そこで、ふっと、別の顔が浮かんだ。
(……久世さんに、話したい)
両親にも伝えなければ、と思う。けれど、先に浮かんだのは、あの静かな目をした人の顔だった。
翌日の離れにて、文机の向こうで図面を広げていた律に、紬は思いきって口を開いた。
「久世さん。あの、お話が」
「はい」
律が、ペンを置いて、こちらを向く。
「遠方の資料館に、応募していたんです。以前、少しお話ししたと思うんですが……採用が、決まりました」
言い終えると、律は、ほんの一瞬だけ、動きを止めた。それから、ゆっくりと表情をやわらげる。
「おめでとうございます」
低く、穏やかな声だった。
「整理事業、でしたね。中世の地方文書を扱うと、おっしゃっていた」
「……覚えていてくださったんですか」
「はい。紬さんが、一番うれしそうに話していたので」
胸が、あたたかくなる。
「本当に、よかった。ずっと、行きたかった場所でしょう」
「はい」
「紬さんの仕事が認められて、うれしいです」
祝福の言葉は、まっすぐで、嘘がなかった。
(うれしい、はずなのに)
なのに。
「では、離れの工事の打ち合わせですが」
律の声が、すっと仕事の調子に戻る。
「出発の時期から逆算して、日程を組み直しましょう。先に必要な箇所から進めて、残りは……」
図面の上を、律の指が滑っていく。来月の予定。再来月の予定。紬が、ここにいなくなったあとの予定。
頷きながら、紬は、自分の声が遠くなっていくのを感じた。
(そっか。私が、いなくなるんだ)
当たり前のことなのに、はじめて、胸に落ちてきた。
打ち合わせの、すべてが終わったとき。
手帳に書き込む予定の欄は、まばらに空いていた。火曜も、木曜も。
帰り道は、夕焼けだった。
本邸へ続く石畳を、ゆっくり歩く。足元に、長い影が落ちている。
(私、何を、待っていたんだろう)
行かないで、と言ってほしかったのだろうか。考えてみて、すぐに首を振った。
(違う)
そんなことを言われたら、きっと困る。紬が、行きたくてたまらない場所だったのだから。
待っていたのは。
『それでも、会いたい』
その言葉だったのだと、気づいてしまった。
足が止まる。
(……私は、久世さんに、そう言ってほしかったんだ)
頰が、夕焼けよりも熱い。
慌てて深呼吸をして、紬は、ぱん、と両頰を叩いた。
(落ち着いて。これは、まだ、考えないことにする)
そう決めて、石畳を急いだ。