天才建築家の不器用な求婚――仕事のはずが、一途に愛されていました
第8話
家族への報告は、その日の夕食のあとだった。
居間のテーブルで、紬は、背筋を伸ばして父と母に向き合う。
「お父さま、お母さま。お話があります」
採用の知らせを伝える。話し終えると、父は、まず、ゆっくり頷いた。
「……そうか。おめでとう。長いこと、準備していたからな」
「はい。ありがとうございます」
母も、目を細めている。ほっとして、肩の力が抜けた。そのとき、父が、静かに尋ねた。
「それで、通勤は。当面は、家から通えないのか」
「通えません。住まいを、あちらへ移す必要があります」
「……そうか」
父の眉が、わずかに寄る。
「紬。家の行事はどうする。集まりも、これまで通りというわけには」
「はい。すべては、戻れなくなります」
正直に言った。言ってから、膝の上で拳を握る。
(ここで、折れてはいけない)
「大切な行事には、できるだけ戻ります。でも、全部は難しいです。それは、先にきちんと、お伝えしておきたくて」
時計の秒針の音が、やけに大きく聞こえる。父は、すぐには何も言わなかった。だが、納得していないことは、顔を見ればわかる。
紬は、鞄から、ファイルを取り出した。
「住まいの候補も、探しました。家賃と、通勤時間と、引っ越しにかかる費用も、調べてあります。足りない分は、自分の貯金で」
テーブルの上に、書類を並べる。父が、書類を手に取った。ページをめくる指が、少しずつ、ゆっくりになっていく。
「……ここまで、調べていたのか」
「はい」
「……いつから?」
「応募するときから、です」
父は、長いあいだ黙って書類を見つめていた。やがて小さく息を吐く。
「そこまで考えているなら」
顔を上げて、まっすぐに紬を見た。
「……わかった。やってみなさい」
許しではない、と紬は思ったが受け止めてもらえたことがとても嬉しかった。
その夜、自室で、紬は、新しいノートを開いた。離れのことを、考えなければいけない。家を出る前に、決める必要がある。残すのか、壊すのか。
ペンを持つ手が、一度、止まった。
(……私、本当に、離れを残したいんだろうか)
寂しさと、混同していないだろうか。律との打ち合わせが終わってしまうのが怖くて。離れという理由を、手放したくなくて。だから、残したいと思い込んでいるのではないか。
窓の外を見る。夜の庭の、さらに奥に、小さな離れの屋根の影が見えた。
(もし、久世さんが、来なくなっても)
誰も、一緒に図面を広げてくれなくても。床下に潜る背中がなくても。
(私は、あの家を、残したいと思う?)
目を閉じる。祖母の膝の上。縁側の光。柱の背丈の印。梅雨の雨音。恋文を読み解いた午後。
一人で座った文机の上で、もう一度、あの文箱を開けたい。
――答えは、思っていたより、はっきり出た。
「……残したい」
小さく呟く。
「私が、残したい」
ノートの一行目に、書き込んだ。
【離れを残す理由:祖母のこと。文書のこと。私が、帰ってくる場所にしたい】
続けて、数字を並べていく。祖母から受け継いだ資金。必要な修理の見積もり。維持費。管理を頼める人。
全部を一度に直すのは無理だ。だから、傷みの大きい箇所から、段階的に。数年かけて、手を入れていく。
住める家ではなく、人が訪れる場所に。文書を紹介する、小さな公開の場に。
ペンが、止まらなかった。窓の外が白むころ、ノートは、びっしりと文字で埋まっていた。
三日後の離れ。紬は、清書した計画書を、律の前に差し出した。
「これが、私の考えです」
律は、黙って受け取った。
一枚目から、順に目を通していく。紙をめくる音だけが、静かな部屋に響く。
紬は、膝の上で、手を握りしめた。
(どうだろう。呆れられるだろうか。現実的じゃない、と言われるだろうか)
最後のページまで読み終えて、律は、顔を上げた。
「理由を、聞かせてください」
「え」
「この計画書は、よくできています。ただ、最初に聞きたい」
静かな目が、紬を見る。
「紬さんが、離れを残したい理由は、何ですか」
紬は、深呼吸をした。
「祖母のためだけではなくて……私が、帰ってきたいので」
言い終えた瞬間、胸の奥が、すっと軽くなった。律は、しばらく紬を見つめていた。
それから、ほんの少しだけ、目元がやわらぐ。
「わかりました」
図面を引き寄せ、鉛筆を取る。
「では、この計画を現実にしましょう。優先する修理は、東側の屋根と、床下の補強。公開に使うなら、水回りの動線も考えたほうがいい。管理は、地域の方に頼む案もありますが」
淡々と、具体的に、計画を検討してくれる。紬の案を、否定せず、褒めすぎもせず。ただ、現実にするための道筋を、一緒に考えてくれる。
紬は、気づいた。
(……私、喜んでほしくて、この計画を作ったわけじゃない)
律に、すごいと言われたいからではない。認められたいからでもない。自分が、そうしたいから。
誰かのためではなく、自分の願いとして、決められた。
「紬さん?」
「あ、はい。すみません」
「何か、ありましたか」
「……いえ」
紬は、首を振った。それから、小さく笑う。
「少し、うれしくて」
律は、不思議そうに首を傾げ、けれど、何も聞かなかった。窓の外で、秋の風が、庭の木々を揺らしている。図面の上に、律の鉛筆の音が、静かに続いていた。