溺愛は契約違反です!

ご挨拶、それからキス

 慧さんと結婚して一ヶ月。私はついに長年お世話になった会社を辞めて、家庭に入ることになった。やることは変わらない。慧さんの朝食を作って慧さんを送り出して、夕方になれば夕食を作って慧さんの帰りを待つ。それ以外にやることがないので、今まで興味はあったけど忙しくてなかなか出来なかったハンドメイドや編み物を始めてみた。私は器用な方ではないからなかなか苦戦したけど、やり始めると楽しい。完成したら慧さんにも見せたい。
 そんな中で、朝、慧さんが珍しく寝癖も直さないままでリビングにやってきた。
「すまない、小春。問題が起きた」
「ど、どうしたんですか?」
 普段は朝から身だしなみを完璧にしている慧さんが慌てて来ることだから、よほど重要なことなのだろうと私は息を呑む。
「結婚の話を両親にしたら、両親が君に会わせろとうるさくて」
「ああ……」
 その言葉を聞いて、私はそっと遠くを見た。本来であればご両親への挨拶を済ませてから結婚するべきだろうが、私達夫婦はその工程をすっかり飛ばしてしまっていた。いつかこの日が来るだろうとは覚悟していたけど、本当に唐突にやって来た。
「急で申し訳ないが、今日、両親と会ってくれないか」
「……大丈夫でしょうか?」
 私が色々な気持ちを込めて不安を口にすると、慧さんは真剣な顔で再び口を開いた。
「君はどこに出しても恥ずかしくない俺の妻だ。堂々としていればいい」
  慧さんのその言葉は、不思議と私の胸の奥にすっと落ちた。励まそうとしているのではなく、事実をそのまま述べているような声音だったからだ。
「……ありがとうございます」
 そう返すと、慧さんは一瞬だけ目を細めて、すぐにいつもの表情に戻った。

 その日の午後、慧さんの運転する車でご実家へ向かった。私達の自宅も相当豪華だけど、ご実家は私の想像を遥かに超えて、まさに豪邸と言った感じだった。
 インターホンを押す直前、私は無意識に背筋を伸ばしていたらしい。
「そんなに力まなくていい」
 慧さんが低い声で言う。
「両親は、肩書きや家柄で人を見るような人間じゃない」
「……それでも、緊張はします」
「それでいい。変に取り繕う必要はない」
 そう言って、慧さんは先にインターホンを押した。

 出迎えてくれたのは、柔らかな雰囲気の女性だった。所作がとても綺麗で、自然と背筋が伸びる。
「初めまして。本日はお時間をいただき、ありがとうございます。小春と申します」
 頭を下げると、女性――慧さんのお母様はふわりと微笑んだ。
「まあ、丁寧ね。こちらこそ初めまして。どうぞ、楽にして」
 リビングに通されると、既に慧さんのお父様がソファに座って待っていた。視線は鋭すぎず、落ち着いている。
「初めまして。慧さんの妻の、小春です」
 再び挨拶をすると、お父様は短く頷いた。
「よろしく」
 会話は、驚くほど穏やかに進んだ。
 実家のこと、学歴、家柄――そういった話題は一切出ない。代わりに聞かれたのは、普段何をして過ごしているか、料理は好きか、最近楽しかったことは何か、そんなことばかりだった。
「編み物を始められたんですって?」
 お母様が興味深そうに尋ねる。
「はい。まだ下手ですが……」
「いいじゃない。時間を丁寧に使える人は、それだけで素敵よ」
 その言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなる。
 お茶を出す時、湯呑みを受け取る時、何気ない動作の一つ一つを、お母様は見ていてくださったらしい。そして、ふっと頷く。
「所作が綺麗ね。無理をしていないところが、とてもいいわ」
「……ありがとうございます」
 褒められることには慣れていない。けれど、それが上辺ではないと分かるから、素直に嬉しかった。
 帰り際、玄関で靴を履いていると、お父様が慧さんにだけ聞こえる声で言った。
「いい奥さんだな」
 それだけだった。けれど慧さんの背中が、ほんの少しだけ誇らしげに見えた。

 車に乗り込んでからもしばらく、私は何も言えずにいた。
「……どうだった?」
 慧さんがハンドルを握ったまま尋ねる。
「正直、拍子抜けしました」
「だろう」
「評価されると思っていたのに……ちゃんと“見て”もらえた気がして」
「それで十分だ」
 慧さんはそれ以上何も言わなかった。でもその夜、家に戻ってから、慧さんは珍しく私の部屋の前で足を止めた。
「今夜は……一緒に寝るか?」
 一瞬、心臓が跳ねた。触れないと宣言していた人の、初めての誘い。
「無理なら、断っていい」
 そう言われて、私は少し考えてから、小さく頷いた。
「……お願いします」
 妻としての自覚と役割。それが、少しずつ形になり始めている気がした。

 お互いにお風呂で身を清めて、布団に入る。この時点で言葉はない。
「……あの、慧さん」
「何だ?」
 寝ようとしていたのか、慧さんは閉じていた目をすっと開いて私を見た。
「その、触れない、って言いましたけど、き……キス、も、しないんですか?」
「……したいのか?」
 慧さんの目が驚きで見開かれる。私は恥ずかしくなって布団を口元まで被って、慧さんをじっと見た。
「し、したいというか……しないのかなぁって、思っただけです」
  慧さんはしばらく黙ったまま、私の顔を見ていた。驚いたように見開かれていた目が、少しずつ落ち着いていく。
「……触れない、というのは」
 低い声で、言葉を選ぶように続ける。
「君が嫌がることはしない、という意味だ」
「……」
「キスも、その……君が望まないなら、しないつもりだった」
 その答えに、胸の奥がじんわりと温かくなる。拒絶ではなく、配慮だったのだと分かって、緊張が少しだけ解けた。
「じゃあ……」
 布団越しに、そっと言葉を探す。
「嫌じゃ、ないです」
 小さすぎて、聞こえなかったかもしれない。そう思った瞬間、慧さんが身じろぎをした。
「……本当にいいのか」
 念を押すような声音だった。
「はい」
 今度は、ちゃんと頷く。慧さんはゆっくりと上体を起こし、私との距離を確かめるように間を置いた。手は伸ばしてこない。ただ、視線だけが、逃げ場を探す私を捕まえている。
「無理はするな」
「してません」
 そう答えると、慧さんは小さく息を吐いた。ほんの少し、距離が縮まる。額に、唇が触れた。
 それはキスと言うにはあまりにも控えめで、触れたという表現の方が正しいかもしれない。でも、確かにそこには温度があった。
「……これで、いいか」
 囁くようにそう言われて、私は思わず笑ってしまった。
「はい。十分です」
「そうか」
 慧さんはそれ以上何もせず、再び布団に横になった。
 静かな夜だった。同じ布団で、同じ天井を見ている。それだけで、不思議と胸が満たされていく。慧さんの寝息が規則正しくなった頃、私はそっと目を閉じた。
 ――触れない約束は、まだ守られている。
 でも、その距離は、確かに昨日より近かった。

 翌朝、慧さんはとても機嫌が良さそうだった。寝起きはあまり得意ではないのか、いつもは若干眉間に寄せられているシワも今日はない。鼻歌でも歌い出しそうなほどに上機嫌にコーヒーを飲みながら、新聞を読んでいる。
「慧さん、今日は何だかご機嫌ですね?」
 いつしか慧さんが希望したように、二人揃って朝ご飯を食べたあとに私もカフェオレの入ったマグカップを持って座る。慧さんはコーヒーカップから口を離して、私の方を見ながら口角を上げた。
「なんたって昨日は君からキスをねだってくれたからな」
「……そ、れは、忘れてください」
「いいや。絶対に忘れない。もうカレンダーにも入れた」
 そう言って慧さんは懐から取り出したスマートフォンの画面を私に向けて見せてくる。日付は昨日になっていて、「小春とキスした日」と書かれている。キスと言っても、額に軽くしただけど。私は恥ずかしくなって思わず俯いてしまう。それとは対照的に慧さんは上機嫌に鼻を鳴らしてコーヒーを飲み干した。
 慧さんを送り出したあと、私はしばらくキッチンに立ったまま、ぼんやりしていた。シンクに置いたままのマグカップから、まだ微かにコーヒーの香りが立っている。
「……カレンダーに入れるほどのこと、だったのかな」
 額に触れた、あの一瞬の温度を思い出して、頬がじんわり熱くなる。たったそれだけなのに、胸の奥が落ち着かない。
 その日の夕方、慧さんはいつもより少し早く帰ってきた。
「おかえりなさい」
「ああ。ただいま」
 コートを受け取ると、慧さんは一瞬だけ私の手元を見てから、視線を逸らした。
「……今日は、何をしていた?」
「編み物です。ほら、これ」
 まだ途中だけど、と差し出すと、慧さんは珍しくじっとそれを見つめた。
「……君が作ったのか」
「はい。下手ですけど」
「いや」
 短く否定して、慧さんは続ける。
「時間をかけたものだと、分かる。俺は好きだ」
 それだけで十分だった。評価じゃなく、感想として受け取ってくれているのが、嬉しい。
  夕食を終え、食器を片付けていると、背後から低い声がした。
「小春」
「はい?」
 振り返ると、慧さんは少しだけ言いづらそうに視線を泳がせている。
「……今夜も、一緒に寝てもいいか」
「はい。昨日、嫌じゃなかったので」
「そうか」
 それだけ言って、慧さんは満足そうに頷いた。

 布団に入ると、昨日よりも自然に距離が近い。触れてはいないのに、気配だけがすぐ隣にある。
「……なあ」
「はい」
「君は、今の生活、不安はないか」
 唐突な問いだった。
「正直に言っていい」
「はい」
 少し考えてから、私は答えた。
「不安は、あります。でも……大切にされているのは、分かります」
「……そうか」
 慧さんは小さく息を吐いたあと、布団の上でほんの少しだけ、私の方に身体を寄せた。
「それなら、いい」
 肩が、軽く触れる。
 それだけなのに、胸がきゅっと締め付けられる。
「おやすみなさい、慧さん」
「ああ。おやすみ、小春」
 その声は低くて、穏やかで、どこか安心する響きだった。
 触れない約束は、まだ続いている。
 でも、その代わりに――心の距離が、確実に縮まっていた。
  それから数日、夜は自然と同じ布団で眠るようになった。
 触れない約束は守られている。けれど、慧さんは必ず私が先に布団に入るのを待ってから隣に横になるし、私が寝返りを打てば、目を覚ましていないはずなのに、距離を少しだけ詰めてくる。無意識なのか、意図的なのか。それを確かめる勇気は、まだない。
 ある日の午後、宅配便が届いた。差出人は慧さんの名前。
「……?」
 首を傾げながら箱を開けると、中には上質そうな毛糸がいくつも入っていた。落ち着いた色合いで、どれも私の好みに近い。
 その夜。
「慧さん、あの……毛糸、ありがとうございます」
「ああ」
 何でもないように頷いて、慧さんはネクタイを緩める。
「君が編み物をしていると聞いたからな」
「でも、私、まだ上手くもないですし……」
「だからだ」
 即答だった。
「上手くなってから与えるのは、評価だ。続けている今に渡すのは、応援だろう」
 胸の奥が、きゅっとなる。
「……ありがとうございます」
 その夜、布団に入ってからも、私は毛糸の感触を思い出していた。
「……慧さん」
「何だ」
「私、ちゃんと……妻、出来てますか?」
「どうしてそう思う」
「家にいて、ご飯を作って、待ってるだけで……それでいいのかなって」
 しばらく沈黙があった。
 慧さんは天井を見たまま、静かに口を開く。
「君は、俺が帰る場所だ」
「……」
「役割を果たしているかどうかではない。そこにいること自体が、意味だ」
 その言葉に、涙が出そうになる。
 その時、慧さんの手が布団の上を滑り、私の指先に触れた。絡めることはしない。ただ、触れているだけ。
「……触れない約束、破ってませんか」
「これは、嫌か?」
「……いいえ」
 そう答えると、慧さんの指が、ほんの少しだけ力を込めた。
「なら、いい」
 それ以上、進まない。でも、その一瞬で分かった。
 ――慧さんは、私を手放す気がない。

 数日後、買い物帰りに偶然、同僚だという女性に声をかけられた。
「奥様ですよね? 慧さん、職場ですごく話題なんですよ」
「え……?」
「結婚してから、雰囲気が変わったって」
 その夜、その話をすると、慧さんは露骨に眉を寄せた。
「……話しかけられたのか」
「少しだけです」
「連絡先は」
「交換してません」
「そうか」
 安堵したように息を吐いたあと、慧さんは私の方を見る。
「今後、俺の名前を出されて、不躾なことを言われたら、すぐに離れろ」
「心配、しすぎじゃ……」
「しすぎではない」
 低い声で、はっきりと言う。
「君は、俺の妻だ。守る」
 その夜、布団に入ると、慧さんは珍しく先に私の手を取った。
「……独占欲だと思うか?」
「少し、思います」
「それでいい」
 指先を包む力が、ほんの少しだけ強くなる。
「自覚したからな」
 私は、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じながら、静かに頷いた。
 ――触れない約束は、まだ続いている。
 けれど、いつか破られる未来を、私は少しだけ、楽しみにしてしまっていた。

 それは、何でもない夜だった。夕食を終えて、食器を片付けて、お風呂も済ませて。いつものように同じ布団に入る準備をしていると、慧さんが珍しく私を呼び止めた。
「……小春」
「はい?」
 振り返ると、慧さんはいつもより少しだけ、迷っている顔をしていた。
「今日、何かあったか」
「え? いえ、特には……」
 本当はあった。同僚の話を思い出して、少しだけ胸がざわついた。でも、それを言語化するほどではない、些細な感情だった。
「……そうか」
 それでも慧さんは、私から目を逸らさなかった。布団に入って、明かりを落とす。しばらくは、互いに何も言わない時間が続いた。
「……慧さん」
「何だ」
「前に、額に……キス、しましたよね」
 言った瞬間、心臓が早鐘を打つ。
「あれは……嫌じゃなかったです」
「……」
 慧さんの呼吸が、わずかに変わるのが分かった。
「むしろ……その」
 言葉を探していると、慧さんがゆっくりとこちらを向く。
「続きが、あるのかと思った」
「……え」
「君が嫌ではないと言ったからな」
 その視線は、いつもの冷静なものじゃなかった。抑えている。はっきり分かるほどに。
「俺は」
 言葉を区切ってから、静かに続ける。
「最初から、口にしたかった」
 胸が、ぎゅっと締め付けられる。
「だが、君が怖がると思った」
「……怖くないです」
 そう答えると、慧さんの眉がほんの少し下がった。
「……本当にいいのか」
「はい」
 慧さんの手が、そっと私の頬に触れる。触れるだけで、押さない。逃げ道を残す手。
「無理だと思ったら、すぐ言え」
「……はい」
 距離が、ゆっくり縮まる。
 唇が触れる直前で、慧さんは一度、動きを止めた。
 まるで最後の確認をするみたいに。
 それから、そっと――ほんの一瞬、唇が重なった。
 柔らかくて、温かくて。触れているのに、押し付けてこない。
「……」
 息が、絡まる。
 慧さんはすぐに離れようとした。でも、私は反射的に、その服の裾を掴んでしまった。
「……っ」
 慧さんが、驚いたように息を呑む。
「……もう、少し」
 小さな声だった。でも、慧さんには十分すぎるほどだったらしい。
「……小春」
 低く、私の名前を呼んでから、今度は少しだけ、深く口づけられる。さっきより長く、でもやっぱり優しい。確かめるようなキス。
 唇が離れたあと、慧さんは私の額に自分の額を軽く当てた。
「……これは、触れている、な」
「……はい」
「だが……まだ、約束は守っている」
 その言葉に、思わず笑ってしまう。
「慧さん、真面目すぎです」
「君に関しては、特にな」
 その夜、私たちはそれ以上何もしなかった。ただ、手を繋いで眠った。
 でも分かってしまった。
 ――次は、慧さんの方が、我慢できなくなる。
 そう確信できるほど、その口づけは、静かで、深くて、逃げ場のないものだった。
 
  それは、特別な出来事から始まったわけじゃなかった。朝、慧さんを玄関まで見送る時。夜、同じ布団に入る前。最初は、ぎこちなかった。
「……行ってきます」
 いつもの挨拶のあと、慧さんが一歩近づいてくる。視線が、私の顔――正確には、唇に落ちる。
「……いいか」
 毎回、確認される。私は毎回、同じように頷く。そして、ほんの一瞬。唇に、軽く触れるだけのキス。それだけなのに、胸が落ち着かない。
 その日から、キスは自然に「日課」になった。
 朝のキスは短い。慧さんは仕事の時間を気にしているから、名残惜しそうに、でも必ず一回だけ。夜のキスは、少しだけ長い。でも、必ずそこで終わる。
「……今日も、ここまでだ」
 そう言って、慧さんは自分から距離を取る。その横顔が、ほんの少しだけ悔しそうなのを、私は知っている。
 ある夜、布団に入る前、私が何気なく言った。
「最近、キスしないと落ち着かなくなりました」
 慧さんの動きが止まる。
「……それは、困るな」
「どうしてですか?」
 尋ねると、慧さんは苦笑した。
「俺の自制心が、思ったより脆い」
 そう言ってから、そっと私の頬に手を添える。
「……だが、やめるつもりはない」
 唇が重なる。今日は、いつもより少しだけ長い。離れたあと、慧さんは低く息を吐いた。
「……これが日常になるとはな」
「嫌ですか?」
 聞くと、即答だった。
「いいや。むしろ……」
 言葉を切ってから、私の額にもう一度、軽く口づける。
「帰る場所を、実感できる」
 その日から、キスは「挨拶」になった。おはようのキス。おかえりのキス。おやすみのキス。どれも深くはならない。でも、確かに愛情が込められている。
 私は気づいている。慧さんも、きっと気づいている。
 ――この日課が、いつか“物足りなくなる日”が来ることを。それでも今は、唇に触れるだけで十分だった。毎日、確かめ合うように。「今日も、夫婦です」と言う代わりに。
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