溺愛は契約違反です!
初恋から始めよう
いつものようにおやすみのキスをして眠りにつこうという時のことだった。慧さんだって立派な成人男性。そういう欲もあるだろうと、私が深く考えず善意で口にした言葉がきっかけだった。
「……慧さん、別に外で遊んできてもいいんですよ?」
キス以上のことを許さない私なんかではなく、他に居るのであればそちらに行っても構わないと言うようなことを、つい、言ってしまった。
慧さんは驚いたように目を見開いて、それから不機嫌そうに眉根を寄せて私をじっと見ている。
「……君は」
慧さんが何かを言いかけて、首を横に振った。
「いや。同じ気持ちだと思っていたのは俺だけだったんだな」
慧さんは吐き捨てるように言って、私が言葉の意味を聞くより先に「おやすみ」と私に背を向けて寝る体勢に入ってしまった。私は弱々しい声で、その背中に向かって「おやすみなさい」と答えて眠りについた。
翌朝の慧さんは顔には出さないものの、どこか不機嫌そうで近寄り難いオーラを放っていた。会話もなく、朝ご飯を食べ終えて慧さんは「今日は早い」と言って、行ってらっしゃいのキスもせずにさっさと仕事に行ってしまった。
「……もしかして、怒らせ、ちゃった……?」
慧さんのそっけない態度の原因は、もしかして「外で遊んでいい」と言ったことだろうか。でも、慧さんがそんなことで怒るか。むしろモテる、いわゆる色男の慧さんにとっては浮気公認は嬉しいことなんじゃないのかと色々考えたけど、答えは出なかった。
Side:Kei
「……慧さん、別に外で遊んできてもいいんですよ?」
その言葉が、小春の口から出てきた時、心臓に冷水をかけられたような心地だった。好きだと、愛してると交わし合ったことは嘘だったのかと問い詰めたくなって、やめた。
好きになっているのは俺だけか?
君は俺が君以外の女性を抱いても平気だと言うのか?
言いたいことは、山ほどあった。けれど、どれも口にはしなかった。それを言ってしまえば、君を困らせると分かっていたから。
呑み込んだ言葉の代わりに、彼女への態度が冷たいものになってしまっていたのは自覚している。ろくに会話もせず、目も合わせず、いつしか日課になっていたキスもしないで、逃げるように家を出てきた。そうしなければ俺は、激情に呑み込まれて小春を壊していたかもしれない。そう考えると、自分の独占欲や嫉妬深さにゾッとする。
「……らしくない」
感情に支配されるだなんて、御堂家の跡取りとして失格だと自分を心の中で叱りつけて、俺は部下から渡された書類に目を通した。
帰ったら謝ろう。君の好きそうなケーキでも買って行って、冷たくして悪かったと。
――そういえば、小春はどんなケーキが好きなんだ?
俺は、君のことをまだよく知らない。知りたい。もっとたくさん、話をしよう。
その日一日、家の中は妙に広く感じられた。
洗濯物を干しても、編み物に手を伸ばしても、どこか集中できない。慧さんの言葉が、何度も頭の中で繰り返される。
「同じ気持ちだと思っていたのは、俺だけだったんだな」
――同じ、気持ち?
何を、指していたのだろう。私は慧さんのことが好きだ。愛していると言われた時も、心から嬉しかった。だから、慧さんが外で誰かとどうこうするなんて、本当は想像するだけで胸が痛む。それなのに、どうしてあんなことを言ってしまったのか。
「……本当は、嫌なのに」
誰もいないリビングで、ぽつりと呟く。慧さんが他の人に触れるのは嫌だ。笑いかけるのも、名前を呼ぶのも、全部。でも、私なんかが独占していいのか分からなかった。
夕方になっても、慧さんから連絡はなかった。いつもなら「今日は少し遅くなる」だとか、「今から帰る」とか、短い文が届く時間なのに。時計の針が二十時を回った頃、玄関の鍵が静かに回る音がした。
「……おかえりなさい」
声をかけると、慧さんは一瞬こちらを見てから、小さく頷くだけだった。
「ただいま」
それだけ。距離が、はっきりと分かるほど、遠い。
食事中も会話はほとんどなく、食器の音だけが響く。耐えきれなくなったのは、私の方だった。
「あの……昨日の、ことなんですけど……」
慧さんの箸が止まる。
「……何だ」
「私、ああ言いましたけど……本当は……」
喉が詰まる。でも、言わなきゃいけない。
「本当は、嫌です。慧さんが、他の人と……そういうこと、するの」
慧さんの目が、ゆっくりと細くなる。
「……なら、なぜあんなことを言った」
責める声じゃない。けれど、静かで、重い。
「私なんかが、慧さんを縛っていいのか分からなくて……。こんなに素敵で、たくさんのものを与えてくれるのに、私は何も返せてない気がして……」
言い終わる前に、慧さんが立ち上がった。椅子の音が、やけに大きく聞こえる。
「――それ以上、自分を下げるな」
低く、強い声だった。
「君は何も返していない? 冗談じゃない」
慧さんは一歩近づいて、私の前に立つ。
「俺が帰る場所を作ったのは誰だ。俺の名前を呼んで、無事を祈って、待っていたのは誰だ」
逃げ場のない距離。視線が、真正面から絡む。
「君がいるから、俺は他を要らない。最初から、だ」
息が、止まった。
「外で遊べと言われた時……俺は、君に捨てられたと思った」
その一言で、胸が締め付けられる。
「……違います」
必死に首を振る。
「捨てるなんて、そんな……。慧さんのこと、好きで……愛してて……」
声が震える。
「だから、嫌なんです。慧さんが、私以外を見るの」
沈黙のあと、慧さんは深く息を吐いた。
「……そう言え」
そっと、私の頬に手が伸びる。
「最初から、そう言ってくれ」
そのまま、額に触れるほど近くで囁いた。
「俺は、君しか抱かない。君以外、要らない」
その言葉は、約束だった。
どう考えても私が悪かったのに、慧さんはわざわざ私に謝るためにケーキを買ってきてくれたらしい。「何が好きなのか分からなかったから」と、シンプルなショートケーキからフルーツのたくさん乗ったタルト、モンブランからガトーショコラまで、箱の中には十個もケーキが敷き詰められていた。さすがにこんなに食べられませんと苦笑すると「明日も食べればいい」と慧さんは真面目な顔をして言っていた。
ケーキに合わせて甘さ控えめにしたカフェラテを飲みながらとりあえずケーキを二個いただいて、慧さんもコーヒーと一緒にケーキを食べているのをぼんやりと見つめていた。
このケーキ、すごく美味しかったな。と思って箱に書いてある店名を何気なく検索して、値段を見て、ひっくり返るかと思った。一ピース五千円。ホールケーキではなく、一ピース。ええと、それが十個だから……。そこで私は思考を止めて、声を上げた。
「み、慧さん! 何てものをしれっと食べさせるんですか!」
「? 何か問題があったか?」
「こ、こんなお高いもの……!」
何も考えずに美味しいと食べてしまった。値段を知っていたらもっと大事に食べていたのに。
私が慌てているのを見て、慧さんは一瞬きょとんとしたあと、小さく首を傾げた。
「値段の話か?」
「そ、そうです! 一個五千円なんて……!」
「そうか。知らなかった」
嘘だ。この人が知らないわけがない。そう思って睨むと、慧さんはほんの少しだけ視線を逸らした。
「こんなもので君の機嫌が取れるなら、安いくらいだ」
「安くないですよ……! 次買ってくることがあったら、六百円くらいの普通のケーキでいいです!」
私がそう言うと、慧さんは目を瞬かせて、ゆるりと微笑んだ。
「そうか。次があるのか」
その一言に、胸が小さく跳ねた。
「……ある、前提なんですか?」
冗談めかして言ったつもりだったのに、慧さんは即座に頷いた。
「当然だろう」
迷いのない返事だった。
「君を怒らせない保証はないが、機嫌を取る機会なら、これからも何度でもある」
「それ……私、すごく面倒な人みたいじゃないですか」
「面倒でも構わない」
さらりと言われて、言葉に詰まる。
「面倒だと思う相手に、こんな時間は使わない」
慧さんはそう言って、コーヒーカップを置いた。
「……昨日は、悪かった」
静かに、けれどはっきりと。
「君の言葉を、勝手に突き放されたように受け取ってしまった」
「私こそ……軽率でした」
視線を落とすと、慧さんの手がそっとテーブル越しに伸びてくる。
指先が触れて、絡めるでもなく、ただ重なる。
「外で遊べ、なんて言われて平気なほど、俺は君にとって軽い存在じゃない」
低い声が、胸の奥に染み込む。
「……軽いなんて、思ったことないです」
「なら、二度と言うな」
命令口調なのに、不思議と優しい。
「俺は、君とここにいる。それ以外はいらない」
言い切るようにそう告げて、慧さんはようやく、いつもの穏やかな表情に戻った。
「……ケーキ、もう一つ食べるか?」
「太ります」
「その分、俺が一緒に歩く」
そんな約束が、妙に嬉しかった。
ソファに並んで座ったまま、テレビはつけっぱなしなのに、内容は頭に入ってこない。慧さんの肩がすぐ隣にあって、距離が近い。それだけで、さっきまでのケーキの甘さが胸に戻ってくる。
「……小春」
名前を呼ばれて顔を上げた瞬間、視線がぶつかった。
近い。思ったより、ずっと。
唇に、そっと触れるだけのキス。一度、離れて――慧さんが、確かめるようにもう一度近づいてくる。
次の瞬間、柔らかく唇が重なって、ゆっくりと、なぞるように動いた。戸惑う私に合わせるみたいに、急がず、深呼吸するみたいなキス。
控えめに触れた舌が、遠慮がちに境界を越えてきて、思わず息を呑む。初めてのディープキスは拒む間もなく、でも怖くはなくて。ただ、頭がじんわり熱くなる。
慧さんはすぐに動きを止めて、額を軽く触れさせた。
「……嫌じゃなかったか?」
「……びっくりは、しましたけど」
そう答えると、彼は小さく安堵したように息を吐く。
「初めては、大事にしたかった」
その一言で、胸がいっぱいになった。
少しだけ距離を取ったまま、慧さんは私の表情をじっと見ていた。まるで、次に進んでいいかを確かめるみたいに。
「……小春」
低く名前を呼ばれて、胸がきゅっと鳴る。私が何も言わずに視線を逸らさなかったのを見て、慧さんはゆっくりと顔を近づけてきた。今度のキスは、さっきよりも長くて、深い。唇が重なったまま離れなくて、呼吸が少しずつ混ざっていく。
戸惑って固まっていた私の唇を、慧さんが根気よく、柔らかくなぞる。急かさないのに、逃がさない。そっと促されるまま力を抜くと、境目が溶けるみたいに、キスが深まった。頭がふわっとして、考える余裕がなくなる。
「……っ」
小さく漏れた声を、慧さんは聞き逃さなかったらしい。
一瞬だけ動きを緩めて、でも離れず、さらに優しく包み込む。気づけば私は、慧さんの服の裾を無意識に掴んでいて、視界がとろんと滲んでいた。
やがて、名残惜しそうに唇が離れる。額を寄せたまま、慧さんが小さく息を整えた。
「……これは、反則だな」
「……なにが、ですか」
「君が、そんな顔をすること」
熱を帯びた視線に、心臓が耐えきれそうになくて、私は思わず慧さんの胸に顔を埋めた。うるさく鳴る心臓の鼓動が落ち着く頃、私は顔を上げて慧さんを見つめた。
「慧さん、もう一回……」
名残惜しさがそのまま声になってしまったのだと、自分でも分かった。慧さんは一瞬、驚いたように目を瞬かせてから、ゆっくりと私の手首を取る。掴んでいた服の裾から、指をほどくように。
「……待て」
拒む声音じゃない。むしろ、苦しそうだった。額を合わせたまま、慧さんは短く息を吐く。
「これ以上は、止まれなくなる」
低く落とされた言葉に、胸が跳ねる。怖いはずなのに、逃げたい気持ちより、離れたくない気持ちの方が勝ってしまっていた。
「……止まらなくていいです」
言った瞬間、自分の声が震えているのが分かる。強がりだ。覚悟なんて、まだ足りない。
慧さんの動きが、ぴたりと止まった。
「……」
しばらく、何も言わない。ただ、私の表情をじっと見つめている。その視線が、優しすぎて、痛い。
「……震えてる」
指先が、私の頬に触れる。確かめるみたいに、そっと。
「その言葉は、俺を許すためじゃなくて」
一拍置いて、静かに続ける。
「自分を追い込むために言う言葉だ」
胸の奥を、正確に射抜かれた気がした。
「……今日は、ここまでだ」
はっきりとした声だった。でも、突き放される感じはしない。むしろ――守られている。
慧さんは私の額に、短く口づけた。
それから、もう一度。今度は少しだけ長く、でも深くはしないキス。唇が重なるだけの、確かめるみたいな温度。
「続きは」
唇を離して、囁く。
「君が、止まらなくていいって言葉を、震えずに言えるようになってからだ」
私は何も言えず、ただ小さく頷いた。
それからは気まずい空気はなくて、穏やかな時間が過ぎて行った。テレビに向き直って、バラエティ番組で私が少しだけ笑い声を上げると、慧さんが優しい顔をして私を見つめていることに気が付いて、恥ずかしくなってうつむいてしまったり。夜も深くなってきて、少しだけ肌寒く感じていると慧さんは何も言わずに空調の温度を上げて、私の膝にブランケットをかけてくれた。
「……何で分かったんですか?」
肌触りの良いふかふかのブランケットを撫でながら私が首を傾げると、慧さんはふっと笑った。
「君を見ていたら、何となく」
「何ですかそれ」
こんな何気ないことにも慧さんの愛情を感じてしまって、どうしようもなく嬉しくなってしまう。
「そうだ。ホットミルクでも飲もうか」
「それなら、私が――」
「いい。俺が用意するから、君は座っていてくれ」
私が立ち上がろうとすると慧さんの手で制されて、私はそのままソファに座ることとなった。慧さんがホットミルクを用意するのに席を立って、一人になった時。私は急に自分の言ったことが恥ずかしくなって、ものすごい後悔に襲われていた。
「慧さんが止めてくれたから良かったけど、慧さんじゃなかったらあのまま……」
勢いで大胆なことを言ってしまった自覚はある。止まらなくていい、なんて。幸いにも慧さんはそれを引いたりかかったりせず、真面目に受け取ってくれた。いや、真面目に受け取ってくれたからこそのダメージかもしれない。私が一人でソファの上で悶え、のたうち回っていると両手に湯気の出ているマグカップを持って戻ってきた慧さんが私を不思議そうに見た。
「どうした?」
「……ナンデモナイデス」
ソファに姿勢良く座り直して、慧さんの手からマグカップを受け取ってちびちびとホットミルクを飲む。私が猫舌なのを知っているのか、それとも偶然なのか、ホットミルクは人肌程度に温められていて、飲みやすかった。私の分は少しだけ砂糖が入っているのか、ほんのり甘くてホッとする。
マグカップを両手で包んで、私はもう一口、ホットミルクを飲んだ。さっきまで胸の奥で暴れていた鼓動が、少しずつ落ち着いていく。温かさが喉を通って、身体の中に広がるのが分かる。
「……美味しい」
思ったままを口にすると、慧さんがこちらを見る。
「そうか」
短く返事をしただけなのに、なぜか視線が逸れたままだ。
もう一口飲んで、私は小さく付け足した。
「慧さんの、ホットミルク」
その瞬間、空気が変わった。
慧さんの動きが、ほんの一拍、止まる。
「……それは」
低く抑えた声で言いかけて、言葉を切る。
私は自分が何を言ったのかに、遅れて気づいて、慌てて付け足そうとした。
「あ、あの、入れてくれた、って意味で――」
「分かっている」
被せるように言われて、言葉が止まる。
慧さんは一度だけ深く息を吐いてから、私の方を見た。さっきまでの穏やかな表情じゃない。ほんの少しだけ、熱を含んだ目。
「……無自覚に言うな」
「え?」
「そういうことを」
そう言って、私の手元のマグカップに視線を落とす。
「今は、キスで止めているんだ」
静かな声なのに、妙にリアルで、胸がきゅっと鳴った。
「……すみません。私のせいですね。言い方がちょっと……」
思わず小さくなると、慧さんは一瞬だけ目を伏せて、それから苦笑する。
「謝る必要はない」
そう言って、私の頭にそっと手を置いた。
「美味しいと言ってもらえたのは、嬉しい」
軽く撫でるだけで、すぐに手は離れる。その距離感が、逆に意識してしまう。
「……でもな」
もう一度、低く続ける。
「次は、ちゃんと覚悟して言え」
何の覚悟か、聞かなくても分かってしまって、私はマグカップに口をつけることで誤魔化した。
ホットミルクは、やっぱり甘くて、温かくて。胸の奥が、じんわりと熱を帯びていく。
ホットミルクを飲み終わって、お腹からじんわりと温かくなってきて、私は睡魔に襲われていた。それでもまだ慧さんと話していたい、もっとそばにいたいと思って抗っていると、それを察した慧さんが顔を覗き込んできた。
「眠いか?」
「……まだへいきれす」
とうとう呂律も回らないほどに眠くなってきて、私の強がりから出てきた言葉は肯定へと変わってしまう。
「こんな時間だしな。もう休もう」
「……まだ、けいさんとおはなししたいんです」
慧さんの服の袖をつまんで、ふるふると首を横に振って駄々をこねると、慧さんが困ったように眉を下げた。
「話ならまた明日にでも出来る。明後日も、その次も」
これから先、未来でも一緒にいてくれることを示唆されて、私は安心しつつも「でも……」と続けた。すると慧さんは少し考え込む仕草を見せて、それから何故か私の身体を抱き寄せて――そのまま、抱き上げた。
「え!?」
びっくりしたのと、落とされるかもしれないという恐怖から慧さんにしがみつく。慧さんは私を横抱きにしたままリビングから出て、夫婦の寝室へと足を運んだ。ふかふかに整えられたベッドに下ろされて、慧さんが覆いかぶさってくる。そのまま顔が近づいてきて、何をされるのかと一人で内心パニックになっていると、ちゅ、と可愛らしい音が鳴って、額に唇を押し付けられていた。
「おやすみ、小春。良い夢を」
このまま美味しくいただかれてしまうのかと一瞬期待――いや、不安になったのは、私の勘違いだったらしい。なんてはしたないことを考えているんだと恥ずかしくなって枕に顔を埋めていると、慧さんがトントンと一定のリズムで私の肩を叩いてくる。まるで子どもにするように。
ああ、私はまだ彼にとってそういう対象ではないんだと内心ちょっとだけ傷付いたけど、すぐに抗いがたい睡魔が襲ってきて、私は心地良いリズムの中眠りについた。
「……慧さん、別に外で遊んできてもいいんですよ?」
キス以上のことを許さない私なんかではなく、他に居るのであればそちらに行っても構わないと言うようなことを、つい、言ってしまった。
慧さんは驚いたように目を見開いて、それから不機嫌そうに眉根を寄せて私をじっと見ている。
「……君は」
慧さんが何かを言いかけて、首を横に振った。
「いや。同じ気持ちだと思っていたのは俺だけだったんだな」
慧さんは吐き捨てるように言って、私が言葉の意味を聞くより先に「おやすみ」と私に背を向けて寝る体勢に入ってしまった。私は弱々しい声で、その背中に向かって「おやすみなさい」と答えて眠りについた。
翌朝の慧さんは顔には出さないものの、どこか不機嫌そうで近寄り難いオーラを放っていた。会話もなく、朝ご飯を食べ終えて慧さんは「今日は早い」と言って、行ってらっしゃいのキスもせずにさっさと仕事に行ってしまった。
「……もしかして、怒らせ、ちゃった……?」
慧さんのそっけない態度の原因は、もしかして「外で遊んでいい」と言ったことだろうか。でも、慧さんがそんなことで怒るか。むしろモテる、いわゆる色男の慧さんにとっては浮気公認は嬉しいことなんじゃないのかと色々考えたけど、答えは出なかった。
Side:Kei
「……慧さん、別に外で遊んできてもいいんですよ?」
その言葉が、小春の口から出てきた時、心臓に冷水をかけられたような心地だった。好きだと、愛してると交わし合ったことは嘘だったのかと問い詰めたくなって、やめた。
好きになっているのは俺だけか?
君は俺が君以外の女性を抱いても平気だと言うのか?
言いたいことは、山ほどあった。けれど、どれも口にはしなかった。それを言ってしまえば、君を困らせると分かっていたから。
呑み込んだ言葉の代わりに、彼女への態度が冷たいものになってしまっていたのは自覚している。ろくに会話もせず、目も合わせず、いつしか日課になっていたキスもしないで、逃げるように家を出てきた。そうしなければ俺は、激情に呑み込まれて小春を壊していたかもしれない。そう考えると、自分の独占欲や嫉妬深さにゾッとする。
「……らしくない」
感情に支配されるだなんて、御堂家の跡取りとして失格だと自分を心の中で叱りつけて、俺は部下から渡された書類に目を通した。
帰ったら謝ろう。君の好きそうなケーキでも買って行って、冷たくして悪かったと。
――そういえば、小春はどんなケーキが好きなんだ?
俺は、君のことをまだよく知らない。知りたい。もっとたくさん、話をしよう。
その日一日、家の中は妙に広く感じられた。
洗濯物を干しても、編み物に手を伸ばしても、どこか集中できない。慧さんの言葉が、何度も頭の中で繰り返される。
「同じ気持ちだと思っていたのは、俺だけだったんだな」
――同じ、気持ち?
何を、指していたのだろう。私は慧さんのことが好きだ。愛していると言われた時も、心から嬉しかった。だから、慧さんが外で誰かとどうこうするなんて、本当は想像するだけで胸が痛む。それなのに、どうしてあんなことを言ってしまったのか。
「……本当は、嫌なのに」
誰もいないリビングで、ぽつりと呟く。慧さんが他の人に触れるのは嫌だ。笑いかけるのも、名前を呼ぶのも、全部。でも、私なんかが独占していいのか分からなかった。
夕方になっても、慧さんから連絡はなかった。いつもなら「今日は少し遅くなる」だとか、「今から帰る」とか、短い文が届く時間なのに。時計の針が二十時を回った頃、玄関の鍵が静かに回る音がした。
「……おかえりなさい」
声をかけると、慧さんは一瞬こちらを見てから、小さく頷くだけだった。
「ただいま」
それだけ。距離が、はっきりと分かるほど、遠い。
食事中も会話はほとんどなく、食器の音だけが響く。耐えきれなくなったのは、私の方だった。
「あの……昨日の、ことなんですけど……」
慧さんの箸が止まる。
「……何だ」
「私、ああ言いましたけど……本当は……」
喉が詰まる。でも、言わなきゃいけない。
「本当は、嫌です。慧さんが、他の人と……そういうこと、するの」
慧さんの目が、ゆっくりと細くなる。
「……なら、なぜあんなことを言った」
責める声じゃない。けれど、静かで、重い。
「私なんかが、慧さんを縛っていいのか分からなくて……。こんなに素敵で、たくさんのものを与えてくれるのに、私は何も返せてない気がして……」
言い終わる前に、慧さんが立ち上がった。椅子の音が、やけに大きく聞こえる。
「――それ以上、自分を下げるな」
低く、強い声だった。
「君は何も返していない? 冗談じゃない」
慧さんは一歩近づいて、私の前に立つ。
「俺が帰る場所を作ったのは誰だ。俺の名前を呼んで、無事を祈って、待っていたのは誰だ」
逃げ場のない距離。視線が、真正面から絡む。
「君がいるから、俺は他を要らない。最初から、だ」
息が、止まった。
「外で遊べと言われた時……俺は、君に捨てられたと思った」
その一言で、胸が締め付けられる。
「……違います」
必死に首を振る。
「捨てるなんて、そんな……。慧さんのこと、好きで……愛してて……」
声が震える。
「だから、嫌なんです。慧さんが、私以外を見るの」
沈黙のあと、慧さんは深く息を吐いた。
「……そう言え」
そっと、私の頬に手が伸びる。
「最初から、そう言ってくれ」
そのまま、額に触れるほど近くで囁いた。
「俺は、君しか抱かない。君以外、要らない」
その言葉は、約束だった。
どう考えても私が悪かったのに、慧さんはわざわざ私に謝るためにケーキを買ってきてくれたらしい。「何が好きなのか分からなかったから」と、シンプルなショートケーキからフルーツのたくさん乗ったタルト、モンブランからガトーショコラまで、箱の中には十個もケーキが敷き詰められていた。さすがにこんなに食べられませんと苦笑すると「明日も食べればいい」と慧さんは真面目な顔をして言っていた。
ケーキに合わせて甘さ控えめにしたカフェラテを飲みながらとりあえずケーキを二個いただいて、慧さんもコーヒーと一緒にケーキを食べているのをぼんやりと見つめていた。
このケーキ、すごく美味しかったな。と思って箱に書いてある店名を何気なく検索して、値段を見て、ひっくり返るかと思った。一ピース五千円。ホールケーキではなく、一ピース。ええと、それが十個だから……。そこで私は思考を止めて、声を上げた。
「み、慧さん! 何てものをしれっと食べさせるんですか!」
「? 何か問題があったか?」
「こ、こんなお高いもの……!」
何も考えずに美味しいと食べてしまった。値段を知っていたらもっと大事に食べていたのに。
私が慌てているのを見て、慧さんは一瞬きょとんとしたあと、小さく首を傾げた。
「値段の話か?」
「そ、そうです! 一個五千円なんて……!」
「そうか。知らなかった」
嘘だ。この人が知らないわけがない。そう思って睨むと、慧さんはほんの少しだけ視線を逸らした。
「こんなもので君の機嫌が取れるなら、安いくらいだ」
「安くないですよ……! 次買ってくることがあったら、六百円くらいの普通のケーキでいいです!」
私がそう言うと、慧さんは目を瞬かせて、ゆるりと微笑んだ。
「そうか。次があるのか」
その一言に、胸が小さく跳ねた。
「……ある、前提なんですか?」
冗談めかして言ったつもりだったのに、慧さんは即座に頷いた。
「当然だろう」
迷いのない返事だった。
「君を怒らせない保証はないが、機嫌を取る機会なら、これからも何度でもある」
「それ……私、すごく面倒な人みたいじゃないですか」
「面倒でも構わない」
さらりと言われて、言葉に詰まる。
「面倒だと思う相手に、こんな時間は使わない」
慧さんはそう言って、コーヒーカップを置いた。
「……昨日は、悪かった」
静かに、けれどはっきりと。
「君の言葉を、勝手に突き放されたように受け取ってしまった」
「私こそ……軽率でした」
視線を落とすと、慧さんの手がそっとテーブル越しに伸びてくる。
指先が触れて、絡めるでもなく、ただ重なる。
「外で遊べ、なんて言われて平気なほど、俺は君にとって軽い存在じゃない」
低い声が、胸の奥に染み込む。
「……軽いなんて、思ったことないです」
「なら、二度と言うな」
命令口調なのに、不思議と優しい。
「俺は、君とここにいる。それ以外はいらない」
言い切るようにそう告げて、慧さんはようやく、いつもの穏やかな表情に戻った。
「……ケーキ、もう一つ食べるか?」
「太ります」
「その分、俺が一緒に歩く」
そんな約束が、妙に嬉しかった。
ソファに並んで座ったまま、テレビはつけっぱなしなのに、内容は頭に入ってこない。慧さんの肩がすぐ隣にあって、距離が近い。それだけで、さっきまでのケーキの甘さが胸に戻ってくる。
「……小春」
名前を呼ばれて顔を上げた瞬間、視線がぶつかった。
近い。思ったより、ずっと。
唇に、そっと触れるだけのキス。一度、離れて――慧さんが、確かめるようにもう一度近づいてくる。
次の瞬間、柔らかく唇が重なって、ゆっくりと、なぞるように動いた。戸惑う私に合わせるみたいに、急がず、深呼吸するみたいなキス。
控えめに触れた舌が、遠慮がちに境界を越えてきて、思わず息を呑む。初めてのディープキスは拒む間もなく、でも怖くはなくて。ただ、頭がじんわり熱くなる。
慧さんはすぐに動きを止めて、額を軽く触れさせた。
「……嫌じゃなかったか?」
「……びっくりは、しましたけど」
そう答えると、彼は小さく安堵したように息を吐く。
「初めては、大事にしたかった」
その一言で、胸がいっぱいになった。
少しだけ距離を取ったまま、慧さんは私の表情をじっと見ていた。まるで、次に進んでいいかを確かめるみたいに。
「……小春」
低く名前を呼ばれて、胸がきゅっと鳴る。私が何も言わずに視線を逸らさなかったのを見て、慧さんはゆっくりと顔を近づけてきた。今度のキスは、さっきよりも長くて、深い。唇が重なったまま離れなくて、呼吸が少しずつ混ざっていく。
戸惑って固まっていた私の唇を、慧さんが根気よく、柔らかくなぞる。急かさないのに、逃がさない。そっと促されるまま力を抜くと、境目が溶けるみたいに、キスが深まった。頭がふわっとして、考える余裕がなくなる。
「……っ」
小さく漏れた声を、慧さんは聞き逃さなかったらしい。
一瞬だけ動きを緩めて、でも離れず、さらに優しく包み込む。気づけば私は、慧さんの服の裾を無意識に掴んでいて、視界がとろんと滲んでいた。
やがて、名残惜しそうに唇が離れる。額を寄せたまま、慧さんが小さく息を整えた。
「……これは、反則だな」
「……なにが、ですか」
「君が、そんな顔をすること」
熱を帯びた視線に、心臓が耐えきれそうになくて、私は思わず慧さんの胸に顔を埋めた。うるさく鳴る心臓の鼓動が落ち着く頃、私は顔を上げて慧さんを見つめた。
「慧さん、もう一回……」
名残惜しさがそのまま声になってしまったのだと、自分でも分かった。慧さんは一瞬、驚いたように目を瞬かせてから、ゆっくりと私の手首を取る。掴んでいた服の裾から、指をほどくように。
「……待て」
拒む声音じゃない。むしろ、苦しそうだった。額を合わせたまま、慧さんは短く息を吐く。
「これ以上は、止まれなくなる」
低く落とされた言葉に、胸が跳ねる。怖いはずなのに、逃げたい気持ちより、離れたくない気持ちの方が勝ってしまっていた。
「……止まらなくていいです」
言った瞬間、自分の声が震えているのが分かる。強がりだ。覚悟なんて、まだ足りない。
慧さんの動きが、ぴたりと止まった。
「……」
しばらく、何も言わない。ただ、私の表情をじっと見つめている。その視線が、優しすぎて、痛い。
「……震えてる」
指先が、私の頬に触れる。確かめるみたいに、そっと。
「その言葉は、俺を許すためじゃなくて」
一拍置いて、静かに続ける。
「自分を追い込むために言う言葉だ」
胸の奥を、正確に射抜かれた気がした。
「……今日は、ここまでだ」
はっきりとした声だった。でも、突き放される感じはしない。むしろ――守られている。
慧さんは私の額に、短く口づけた。
それから、もう一度。今度は少しだけ長く、でも深くはしないキス。唇が重なるだけの、確かめるみたいな温度。
「続きは」
唇を離して、囁く。
「君が、止まらなくていいって言葉を、震えずに言えるようになってからだ」
私は何も言えず、ただ小さく頷いた。
それからは気まずい空気はなくて、穏やかな時間が過ぎて行った。テレビに向き直って、バラエティ番組で私が少しだけ笑い声を上げると、慧さんが優しい顔をして私を見つめていることに気が付いて、恥ずかしくなってうつむいてしまったり。夜も深くなってきて、少しだけ肌寒く感じていると慧さんは何も言わずに空調の温度を上げて、私の膝にブランケットをかけてくれた。
「……何で分かったんですか?」
肌触りの良いふかふかのブランケットを撫でながら私が首を傾げると、慧さんはふっと笑った。
「君を見ていたら、何となく」
「何ですかそれ」
こんな何気ないことにも慧さんの愛情を感じてしまって、どうしようもなく嬉しくなってしまう。
「そうだ。ホットミルクでも飲もうか」
「それなら、私が――」
「いい。俺が用意するから、君は座っていてくれ」
私が立ち上がろうとすると慧さんの手で制されて、私はそのままソファに座ることとなった。慧さんがホットミルクを用意するのに席を立って、一人になった時。私は急に自分の言ったことが恥ずかしくなって、ものすごい後悔に襲われていた。
「慧さんが止めてくれたから良かったけど、慧さんじゃなかったらあのまま……」
勢いで大胆なことを言ってしまった自覚はある。止まらなくていい、なんて。幸いにも慧さんはそれを引いたりかかったりせず、真面目に受け取ってくれた。いや、真面目に受け取ってくれたからこそのダメージかもしれない。私が一人でソファの上で悶え、のたうち回っていると両手に湯気の出ているマグカップを持って戻ってきた慧さんが私を不思議そうに見た。
「どうした?」
「……ナンデモナイデス」
ソファに姿勢良く座り直して、慧さんの手からマグカップを受け取ってちびちびとホットミルクを飲む。私が猫舌なのを知っているのか、それとも偶然なのか、ホットミルクは人肌程度に温められていて、飲みやすかった。私の分は少しだけ砂糖が入っているのか、ほんのり甘くてホッとする。
マグカップを両手で包んで、私はもう一口、ホットミルクを飲んだ。さっきまで胸の奥で暴れていた鼓動が、少しずつ落ち着いていく。温かさが喉を通って、身体の中に広がるのが分かる。
「……美味しい」
思ったままを口にすると、慧さんがこちらを見る。
「そうか」
短く返事をしただけなのに、なぜか視線が逸れたままだ。
もう一口飲んで、私は小さく付け足した。
「慧さんの、ホットミルク」
その瞬間、空気が変わった。
慧さんの動きが、ほんの一拍、止まる。
「……それは」
低く抑えた声で言いかけて、言葉を切る。
私は自分が何を言ったのかに、遅れて気づいて、慌てて付け足そうとした。
「あ、あの、入れてくれた、って意味で――」
「分かっている」
被せるように言われて、言葉が止まる。
慧さんは一度だけ深く息を吐いてから、私の方を見た。さっきまでの穏やかな表情じゃない。ほんの少しだけ、熱を含んだ目。
「……無自覚に言うな」
「え?」
「そういうことを」
そう言って、私の手元のマグカップに視線を落とす。
「今は、キスで止めているんだ」
静かな声なのに、妙にリアルで、胸がきゅっと鳴った。
「……すみません。私のせいですね。言い方がちょっと……」
思わず小さくなると、慧さんは一瞬だけ目を伏せて、それから苦笑する。
「謝る必要はない」
そう言って、私の頭にそっと手を置いた。
「美味しいと言ってもらえたのは、嬉しい」
軽く撫でるだけで、すぐに手は離れる。その距離感が、逆に意識してしまう。
「……でもな」
もう一度、低く続ける。
「次は、ちゃんと覚悟して言え」
何の覚悟か、聞かなくても分かってしまって、私はマグカップに口をつけることで誤魔化した。
ホットミルクは、やっぱり甘くて、温かくて。胸の奥が、じんわりと熱を帯びていく。
ホットミルクを飲み終わって、お腹からじんわりと温かくなってきて、私は睡魔に襲われていた。それでもまだ慧さんと話していたい、もっとそばにいたいと思って抗っていると、それを察した慧さんが顔を覗き込んできた。
「眠いか?」
「……まだへいきれす」
とうとう呂律も回らないほどに眠くなってきて、私の強がりから出てきた言葉は肯定へと変わってしまう。
「こんな時間だしな。もう休もう」
「……まだ、けいさんとおはなししたいんです」
慧さんの服の袖をつまんで、ふるふると首を横に振って駄々をこねると、慧さんが困ったように眉を下げた。
「話ならまた明日にでも出来る。明後日も、その次も」
これから先、未来でも一緒にいてくれることを示唆されて、私は安心しつつも「でも……」と続けた。すると慧さんは少し考え込む仕草を見せて、それから何故か私の身体を抱き寄せて――そのまま、抱き上げた。
「え!?」
びっくりしたのと、落とされるかもしれないという恐怖から慧さんにしがみつく。慧さんは私を横抱きにしたままリビングから出て、夫婦の寝室へと足を運んだ。ふかふかに整えられたベッドに下ろされて、慧さんが覆いかぶさってくる。そのまま顔が近づいてきて、何をされるのかと一人で内心パニックになっていると、ちゅ、と可愛らしい音が鳴って、額に唇を押し付けられていた。
「おやすみ、小春。良い夢を」
このまま美味しくいただかれてしまうのかと一瞬期待――いや、不安になったのは、私の勘違いだったらしい。なんてはしたないことを考えているんだと恥ずかしくなって枕に顔を埋めていると、慧さんがトントンと一定のリズムで私の肩を叩いてくる。まるで子どもにするように。
ああ、私はまだ彼にとってそういう対象ではないんだと内心ちょっとだけ傷付いたけど、すぐに抗いがたい睡魔が襲ってきて、私は心地良いリズムの中眠りについた。

