強引社長の甘い寵愛
二章 囚われの蝶
蓮さんの家に連れて来られた初日、私は一睡も出来なかった。
いつ部屋に入って来るのだろう。怒鳴られるのだろうか。逆らったら殴られるのだろうか。そんなことばかり考えて、布団の中で身体を縮こまらせていた。けれど朝になっても蓮さんは何もしなかった。
「朝食だ」
そう言って食卓に並べられたのは、旅館で出て来るような温かな朝食だった。
私は箸を付けなかった。食べたら負けな気がした。
「……食欲がないのか」
怒られると思った。
けれど蓮さんは食器を下げると、
「後で食べられそうなら温め直そう」
そう言っただけだった。
その日だけじゃない。冷たくしても。返事をしなくても。「帰してください」と訴えても。蓮さんは怒らなかった。
「家に帰してください……」
勇気を振り絞ってそう言うと、蓮さんは少しだけ困ったように目を伏せた。
「……ここがお前の家だ」
「違います……!」
思わず声を荒らげる。
「私の家じゃありません!」
蓮さんはしばらく黙っていた。
「これからは、ここがお前の帰る場所になる」
そして静かに、そう言った。
その言葉を聞いた瞬間、張り詰めていたものがぷつりと切れた。
「お父さんと、お母さんのところに帰りたい……」
涙が止まらなかった。
泣けば帰してもらえるかもしれない。そう思った。でも蓮さんは私を抱きしめるだけで、帰してはくれなかった。
「……すまない」
その謝罪だけが耳に残った。
それから数日。
私は何度も嫌われようとした。冷たく当たった。笑わなかった。わざとそっけない返事をした。
それでも蓮さんは怒らなかった。
「体調が悪いのか」
「今日は疲れているようだな」
そんな見当違いな心配ばかりする。
(……何なの、この人)
怖い。でも。思っていた人とは、少し違う。
そう思い始めた頃には、蓮さんの家に住み始めて一週間が経っていた。
最初の一日こそスマートフォンを使えていたが、蓮さんに没収されてしまって、代わりに、蓮さんの連絡先のみが入ったスマートフォンを渡された。インターネットは一応繋がっているものの、制限がかけられているのか新しいアプリはダウンロード出来ないし検索をしても見られないサイトばかりだったので、スマートフォンで時間を潰すことは諦めた。
何というか、そう、この生活はあまりにも暇すぎる。大学も既に退学の手続きをされてしまったようで行きたくても行けないし、バイト先ももう行かなくて良いと言われてしまった。日中、蓮さんが仕事で居ない時は家事をして、それが終わればテレビを観たり、書斎の本棚に並べられている本を適当に読んだりして過ごしている。蓮さんは口にはしないが、俗に言う軟禁——のようなもの。監禁までは行ってない。まだ自由に動けるから。外に出るなとは言われていないので、出ようと思えば出られるが、何となく気が向かなくてこの数日間ずっと家に引きこもっている。
お茶を淹れよう、とキッチンに立っているとリビングの扉が開く音がした。そちらに目を向けると、スーツ姿の蓮さんがこちらに向かって歩いて来ているのが見えた。
「蓮さん。おかえりなさい」
「ああ」
蓮さんは短く答えると、後ろからふわりと私を抱きしめた。そのまま髪の毛、額、頬にちゅっちゅと唇を落とされてくすぐったくて目を細める。この通り、蓮さんはキスはしてくるものの、それ以上のことは何もして来ない。てっきり慰み者にされるのかと思っていたから拍子抜けだ。蓮さんの強い希望で一緒にお風呂に入ったこともあるけど、その時も湯船で後ろから抱きしめられてキスをされるだけ。彼なりに私を大事にしてくれているのだろうか。
「風呂に入る」
「あ、沸かしてあります!」
そろそろ蓮さんが帰宅するであろうと思って、数十分前にお風呂を入れた。まだ温かいはずだ。
蓮さんは目を細めて、再び私の髪の毛にキスを落とすと私の髪の毛の先を弄ぶように指先に絡めた。
「お前も来い」
「また……ですか?」
男の人に裸を見せるのは慣れていない、というより蓮さんが初めてだった。私が動揺していると蓮さんはそれに気付いているのかいないのか、私の答えは聞かずに着替えを取りに一度衣装部屋に消えて行った。
髪も身体も洗って、しっとりと濡れた状態で湯船に足から浸かると、先に入っていた蓮さんが私を後ろから抱き寄せた。
「あの、蓮さん。近い、です……」
「いつもこの距離だろう」
蓮さんは私の抗議の声を跳ね除けて、私の頬にちゅっとキスを落とした。私を抱きしめる腕の力にぐっと力が込められる。離さないと言うようなその仕草にドクンと心臓が妙な音を立てる。蓮さんの家の浴槽は二人で入っても余裕がある程広いというのに、二人でくっついて入っているなんて何だか変な感じだ。居心地悪くなって私が身じろぐと、蓮さんが私の肩に顎を乗せた。
「……蓮さん?」
「何だ」
「どうして、そんなにくっつくんですか……?」
思い切って尋ねると、蓮さんは少しだけ黙った。
「お前がここにいることを、確かめたい」
「え……?」
思いがけない答えに、私は言葉を失った。
蓮さんの腕に、ほんの少しだけ力がこもる。
「こうしていると、ようやく見つけたのだと実感できる」
耳元で囁かれた声は、いつもよりもずっと優しかった。
けれど、その言葉の意味は分からない。
ようやく見つけたって、何を?
私が戸惑っていると、蓮さんは私の髪に顔を埋め、そっと息を吐いた。
「……すまない。怖がらせるつもりはない」
「蓮さん……」
「今はこうしていさせてくれ」
そう言われてしまうと、何と答えればいいのか分からなかった。
怖い。
この人は、やっぱり怖い。
私の気持ちも聞かずに家に連れて来て、大学もアルバイトも辞めさせて、帰してほしいという願いさえ聞いてくれない。なのに、こうして抱きしめる腕は驚くほど優しくて。まるで、私を失うことを何よりも恐れているみたいだった。
しばらくして、蓮さんが私の頬にもう一度キスを落とした。
「そろそろ上がるか」
「……はい」
湯船から上がると、蓮さんは私の身体を丁寧に拭いてくれて、髪まで乾かしてくれた。ドライヤーの温風の温かさと、優しく髪に触れられている心地良さで何度か寝そうになったけれど、何とか気を保った。ドライヤーを止めて、コードをまとめている蓮さんとバチッと目が合う。
「眠いのか」
「少しだけ……」
「なら、早く寝るといい」
蓮さんがおかしそうに喉を鳴らして笑った。
先程までのことを思い出して、何となく気恥ずかしくなる。私が顔を赤くしてうつむいていると、蓮さんがそっと私の顎に指を添えた。
「どうした?」
「な、何でもありません……!」
慌てて答えると、蓮さんはますます楽しそうに目を細めた。
「そうか」
そう言って蓮さんは流れるように私の唇にキスをした。完全に蓮さんのペースに呑まれている私は顔を赤くしてうつむくことしか出来なかった。
「そろそろ寝るか」
「はい……」
時計を見ると時刻はもうとうに二十三時を回っていた。私が頷くと、蓮さんは当然のように私を抱き上げて、寝室まで移動した。ベッドに下ろされてぼんやりしていると蓮さんも布団の中に潜り込んでくる。この部屋には一応、ベッドが二つあるのだけれど片方は未だに使われているのを見たことがない。蓮さんが必ず私を抱きしめて寝るからだ。
「おやすみ」
「おやすみ、なさい……」
そしてやっぱり寝る前のおやすみのキスも欠かさないようで、唇をさらりと奪われる。蓮さんの腕に抱き寄せられて、爽やかで甘い香りを吸い込みながら目を閉じた。
「おはようございます、蓮さん」
「ああ。おはよう」
朝になって先に起きて支度を済ませていた蓮さんに、まだ寝ぼけまなこで目を擦りながら挨拶をする。テーブルに置かれているまだ温かそうな二人分の朝食は蓮さんが作ったものだろうか。本当なら私が早く起きて朝食を作るべきなんだろうが、朝はどうにも弱くて早く起きられない。後、普通に蓮さんが早起きすぎる。六時には起きているのだろうか。
私は席に着いて、蓮さんがご飯を食べ始めるのを待ってから私も手を合わせいただきます、と小さく呟いた。
「蓮さんって、やっぱりお料理上手ですよね」
綺麗に焼かれただし巻き玉子をつつきながら言うと、蓮さんも同じくだし巻き玉子を口に運びながらちらりと私を見た。
「……大したものは作っていない」
朝食は蓮さんが作ることの方が多くて、今日みたいに和食だったり洋食だったり様々だ。共通しているのは必ず卵料理があるということ。
「たまご、好きなんですか?」
「まあな。好物だ」
「へえ……」
卵料理が好きなんて何だか可愛い、と思いながらだし巻き玉子を口に入れると、ほんのりあまじょっぱい優しい出汁の味が広がった。
「今度、夕飯オムライスにしましょうか」
私がそう言うと、蓮さんは少しだけ目を細めた。
「悪くない」
「ふふ、はい」
とろとろのオムライスとふわふわのオムライスどちらが好きですか?なんて聞いて、朝の穏やかな時間は過ぎて行った。
朝ご飯を食べ終わって、食器を水の張った桶に突っ込んで、蓮さんのお仕事のカバンを持って玄関までお見送りをする。蓮さんは革靴を履き終えると、私に向き直ってカバンに手を伸ばした。
「今夜は少し遅くなる。夕飯は要らない」
「そう、ですか……」
蓮さんはカバンを受け取ると、ついでと言うように私の唇にキスを落とした。
「良い子で待っているように」
「はい。何時頃になりますか? 蓮さんが帰ってくるのに合わせてお風呂沸かしておきます」
「……それは、誘っているのか?」
頬をするりと撫でられて、私は顔を赤くした。
「ち、違います!」
私が慌てて否定すると、蓮さんはふっと笑って私に背中を向けた。
「行ってらっしゃい」
「ああ」
蓮さんを見送ると、途端に家の静けさが耳をついた。
いつ部屋に入って来るのだろう。怒鳴られるのだろうか。逆らったら殴られるのだろうか。そんなことばかり考えて、布団の中で身体を縮こまらせていた。けれど朝になっても蓮さんは何もしなかった。
「朝食だ」
そう言って食卓に並べられたのは、旅館で出て来るような温かな朝食だった。
私は箸を付けなかった。食べたら負けな気がした。
「……食欲がないのか」
怒られると思った。
けれど蓮さんは食器を下げると、
「後で食べられそうなら温め直そう」
そう言っただけだった。
その日だけじゃない。冷たくしても。返事をしなくても。「帰してください」と訴えても。蓮さんは怒らなかった。
「家に帰してください……」
勇気を振り絞ってそう言うと、蓮さんは少しだけ困ったように目を伏せた。
「……ここがお前の家だ」
「違います……!」
思わず声を荒らげる。
「私の家じゃありません!」
蓮さんはしばらく黙っていた。
「これからは、ここがお前の帰る場所になる」
そして静かに、そう言った。
その言葉を聞いた瞬間、張り詰めていたものがぷつりと切れた。
「お父さんと、お母さんのところに帰りたい……」
涙が止まらなかった。
泣けば帰してもらえるかもしれない。そう思った。でも蓮さんは私を抱きしめるだけで、帰してはくれなかった。
「……すまない」
その謝罪だけが耳に残った。
それから数日。
私は何度も嫌われようとした。冷たく当たった。笑わなかった。わざとそっけない返事をした。
それでも蓮さんは怒らなかった。
「体調が悪いのか」
「今日は疲れているようだな」
そんな見当違いな心配ばかりする。
(……何なの、この人)
怖い。でも。思っていた人とは、少し違う。
そう思い始めた頃には、蓮さんの家に住み始めて一週間が経っていた。
最初の一日こそスマートフォンを使えていたが、蓮さんに没収されてしまって、代わりに、蓮さんの連絡先のみが入ったスマートフォンを渡された。インターネットは一応繋がっているものの、制限がかけられているのか新しいアプリはダウンロード出来ないし検索をしても見られないサイトばかりだったので、スマートフォンで時間を潰すことは諦めた。
何というか、そう、この生活はあまりにも暇すぎる。大学も既に退学の手続きをされてしまったようで行きたくても行けないし、バイト先ももう行かなくて良いと言われてしまった。日中、蓮さんが仕事で居ない時は家事をして、それが終わればテレビを観たり、書斎の本棚に並べられている本を適当に読んだりして過ごしている。蓮さんは口にはしないが、俗に言う軟禁——のようなもの。監禁までは行ってない。まだ自由に動けるから。外に出るなとは言われていないので、出ようと思えば出られるが、何となく気が向かなくてこの数日間ずっと家に引きこもっている。
お茶を淹れよう、とキッチンに立っているとリビングの扉が開く音がした。そちらに目を向けると、スーツ姿の蓮さんがこちらに向かって歩いて来ているのが見えた。
「蓮さん。おかえりなさい」
「ああ」
蓮さんは短く答えると、後ろからふわりと私を抱きしめた。そのまま髪の毛、額、頬にちゅっちゅと唇を落とされてくすぐったくて目を細める。この通り、蓮さんはキスはしてくるものの、それ以上のことは何もして来ない。てっきり慰み者にされるのかと思っていたから拍子抜けだ。蓮さんの強い希望で一緒にお風呂に入ったこともあるけど、その時も湯船で後ろから抱きしめられてキスをされるだけ。彼なりに私を大事にしてくれているのだろうか。
「風呂に入る」
「あ、沸かしてあります!」
そろそろ蓮さんが帰宅するであろうと思って、数十分前にお風呂を入れた。まだ温かいはずだ。
蓮さんは目を細めて、再び私の髪の毛にキスを落とすと私の髪の毛の先を弄ぶように指先に絡めた。
「お前も来い」
「また……ですか?」
男の人に裸を見せるのは慣れていない、というより蓮さんが初めてだった。私が動揺していると蓮さんはそれに気付いているのかいないのか、私の答えは聞かずに着替えを取りに一度衣装部屋に消えて行った。
髪も身体も洗って、しっとりと濡れた状態で湯船に足から浸かると、先に入っていた蓮さんが私を後ろから抱き寄せた。
「あの、蓮さん。近い、です……」
「いつもこの距離だろう」
蓮さんは私の抗議の声を跳ね除けて、私の頬にちゅっとキスを落とした。私を抱きしめる腕の力にぐっと力が込められる。離さないと言うようなその仕草にドクンと心臓が妙な音を立てる。蓮さんの家の浴槽は二人で入っても余裕がある程広いというのに、二人でくっついて入っているなんて何だか変な感じだ。居心地悪くなって私が身じろぐと、蓮さんが私の肩に顎を乗せた。
「……蓮さん?」
「何だ」
「どうして、そんなにくっつくんですか……?」
思い切って尋ねると、蓮さんは少しだけ黙った。
「お前がここにいることを、確かめたい」
「え……?」
思いがけない答えに、私は言葉を失った。
蓮さんの腕に、ほんの少しだけ力がこもる。
「こうしていると、ようやく見つけたのだと実感できる」
耳元で囁かれた声は、いつもよりもずっと優しかった。
けれど、その言葉の意味は分からない。
ようやく見つけたって、何を?
私が戸惑っていると、蓮さんは私の髪に顔を埋め、そっと息を吐いた。
「……すまない。怖がらせるつもりはない」
「蓮さん……」
「今はこうしていさせてくれ」
そう言われてしまうと、何と答えればいいのか分からなかった。
怖い。
この人は、やっぱり怖い。
私の気持ちも聞かずに家に連れて来て、大学もアルバイトも辞めさせて、帰してほしいという願いさえ聞いてくれない。なのに、こうして抱きしめる腕は驚くほど優しくて。まるで、私を失うことを何よりも恐れているみたいだった。
しばらくして、蓮さんが私の頬にもう一度キスを落とした。
「そろそろ上がるか」
「……はい」
湯船から上がると、蓮さんは私の身体を丁寧に拭いてくれて、髪まで乾かしてくれた。ドライヤーの温風の温かさと、優しく髪に触れられている心地良さで何度か寝そうになったけれど、何とか気を保った。ドライヤーを止めて、コードをまとめている蓮さんとバチッと目が合う。
「眠いのか」
「少しだけ……」
「なら、早く寝るといい」
蓮さんがおかしそうに喉を鳴らして笑った。
先程までのことを思い出して、何となく気恥ずかしくなる。私が顔を赤くしてうつむいていると、蓮さんがそっと私の顎に指を添えた。
「どうした?」
「な、何でもありません……!」
慌てて答えると、蓮さんはますます楽しそうに目を細めた。
「そうか」
そう言って蓮さんは流れるように私の唇にキスをした。完全に蓮さんのペースに呑まれている私は顔を赤くしてうつむくことしか出来なかった。
「そろそろ寝るか」
「はい……」
時計を見ると時刻はもうとうに二十三時を回っていた。私が頷くと、蓮さんは当然のように私を抱き上げて、寝室まで移動した。ベッドに下ろされてぼんやりしていると蓮さんも布団の中に潜り込んでくる。この部屋には一応、ベッドが二つあるのだけれど片方は未だに使われているのを見たことがない。蓮さんが必ず私を抱きしめて寝るからだ。
「おやすみ」
「おやすみ、なさい……」
そしてやっぱり寝る前のおやすみのキスも欠かさないようで、唇をさらりと奪われる。蓮さんの腕に抱き寄せられて、爽やかで甘い香りを吸い込みながら目を閉じた。
「おはようございます、蓮さん」
「ああ。おはよう」
朝になって先に起きて支度を済ませていた蓮さんに、まだ寝ぼけまなこで目を擦りながら挨拶をする。テーブルに置かれているまだ温かそうな二人分の朝食は蓮さんが作ったものだろうか。本当なら私が早く起きて朝食を作るべきなんだろうが、朝はどうにも弱くて早く起きられない。後、普通に蓮さんが早起きすぎる。六時には起きているのだろうか。
私は席に着いて、蓮さんがご飯を食べ始めるのを待ってから私も手を合わせいただきます、と小さく呟いた。
「蓮さんって、やっぱりお料理上手ですよね」
綺麗に焼かれただし巻き玉子をつつきながら言うと、蓮さんも同じくだし巻き玉子を口に運びながらちらりと私を見た。
「……大したものは作っていない」
朝食は蓮さんが作ることの方が多くて、今日みたいに和食だったり洋食だったり様々だ。共通しているのは必ず卵料理があるということ。
「たまご、好きなんですか?」
「まあな。好物だ」
「へえ……」
卵料理が好きなんて何だか可愛い、と思いながらだし巻き玉子を口に入れると、ほんのりあまじょっぱい優しい出汁の味が広がった。
「今度、夕飯オムライスにしましょうか」
私がそう言うと、蓮さんは少しだけ目を細めた。
「悪くない」
「ふふ、はい」
とろとろのオムライスとふわふわのオムライスどちらが好きですか?なんて聞いて、朝の穏やかな時間は過ぎて行った。
朝ご飯を食べ終わって、食器を水の張った桶に突っ込んで、蓮さんのお仕事のカバンを持って玄関までお見送りをする。蓮さんは革靴を履き終えると、私に向き直ってカバンに手を伸ばした。
「今夜は少し遅くなる。夕飯は要らない」
「そう、ですか……」
蓮さんはカバンを受け取ると、ついでと言うように私の唇にキスを落とした。
「良い子で待っているように」
「はい。何時頃になりますか? 蓮さんが帰ってくるのに合わせてお風呂沸かしておきます」
「……それは、誘っているのか?」
頬をするりと撫でられて、私は顔を赤くした。
「ち、違います!」
私が慌てて否定すると、蓮さんはふっと笑って私に背中を向けた。
「行ってらっしゃい」
「ああ」
蓮さんを見送ると、途端に家の静けさが耳をついた。