幼すぎた君との別れから
10話
七月
「シーリア、そろそろ帰るわね」
ドローイング・ルームにフローレンスが挨拶にきた。後ろには乳母に抱かれた赤ん坊──クラリスがいる。
「さみしくなるわ……」
シーリアは立ち上がり、クラリスの頬をそっと撫でた。
クラリスのお披露目に帰っていたフローレンス。三日間の滞在だった。
「あの、フローレンス、五十ポンドのことだけど……」
フローレンスが首を横に振った。
「貸せないわ。お兄様がどうするつもりかわからないのに、一人でインドに行くのは反対よ」
シーリアは顔を歪めた。胸の奥がむずむずする。
ロケットを受け取ってもらえた。写真にキスもしてもらえた。
それだけで十分な将来の誓いじゃないの?
午後十時を過ぎて、やっと空が薄暗くなり始めた。
シーリアはドレッシングガウンを脱ぐと、いつものように天蓋付きのベッドに横になり、上掛けを被った。
真っ暗闇──いつの間にか、一面の黄色い砂地。
肌がじりじりと焼けた。強烈な太陽光。
飲み干した水筒。鞍の上で逆さに振ったら一滴だけ喉に落ちた。
急に砂嵐。
打ちつける小粒の石。顔を伏せる。懐の何かを握りしめた。
砂嵐がくっきりと晴れた。
──地平線を埋め尽くす、ターバンを巻いた大群。いくつもの大砲。
右手に構えたリボルバーが震えた。圧倒的な数。
パニックを起こした歩兵、騎馬兵。
撃ち込まれる砲撃に砂ぼこりが起きた。
捨て身の抗戦。弾切れ。持ち替えたサーベル。
また砂嵐。
何かが光った。サーベルと少し違う剣。
逃げて────
シーリアは叫びながら飛び起きた。
「────腕が!腕が!」
腕が熱い──
「レディ・シーリア!?どうされました?」
「腕が!腕が切られたの!」
「え?」
はっきりとしてきた視界。ベッドから飛び出した。
窓から見える、静かなフォーチェスター・ホールの庭園。
青みのある空のふもとに朝焼けが見えた。
メイドが戸惑っている。
荒い息をしながら見下ろした右腕は、いつもと何も変わりがなかった。
あの日から三週間。
ほんの少しまどろんだだけで、今日も朝がきた。
夢を見るのが怖い。
朝食室に入ると、伯爵が窓辺に立っていた。
新聞を握りしめている。顔が赤黒い。
シーリアはドアの前で立ち止まった。
あれから新聞は読めなくなっていた。
「読め」
伯爵が新聞を丸いテーブルの上に放り投げた。
シーリアの全身に冷たい汗が噴き出した。
そばにある椅子の背もたれに手をついて体を支えた。
「読め」
シーリアはすすり泣きながら、テーブルに近づいた。
──イギリス軍、壊滅的打撃の全貌
大きな見出し。
「いや……」
シーリアはよれよれになった新聞から目をそらした。
「読め!」
伯爵が叩きつけた窓ガラスが割れた。
彼が死んだはずがない。もしそうなら、会いに来てくれているはずだもの。
震える手で、何とかページをめくった。
戦死者名簿。彼の名前は無い。
ほら……
うめきながら負傷者名簿に目を向けた。
第36軽騎兵連隊──大尉 ナサニエル・デ・レイシー(重傷:右腕切断)
シーリアの意識が、ぷつんと途切れた。
ノックの音がした。
「レディ・シーリア?」
ミセス・ケインズの声。
ドアが開いても、シーリアはベッドの上にそのまま横たわり続けた。
「食べていないそうですね」
彼女がサイドテーブルに何かを置いた。
バターと香辛料。ケジャリーの香り。
胃が硬くなった。
「なんだか御屋敷全体の空気が重くて……何かあったのですか?」
ミセス・ケインズが椅子に座った。
「……よければ、話を聞きますよ」
黙り込んだままでいると、ミセス・ケインズのため息が聞こえた。
口に出したら正気を保てない。
彼は今頃苦しんでいて、もしかしたら生死の境をさまよっている……。はっとして体を起こした。
「ミセス・ケインズ、お金を貸して欲しいの!」
「お金?またどうして?……いくらです?」
「……五十ポンド」
「五十ポンド?」
ミセス・ケインズが口元を手で覆った。
「レディ・シーリア、わたしはしがない付添人ですよ?」
またドアがノックされる。
シーリアはうつむいて、神に祈りをささげた。
ミセス・ケインズが誰かと話している。
足音が近づいた。
「レディ・シーリア。旦那様が執務室にお呼びだそうですけど……お断りしましょうか?」
シーリアは目を見開いて、首を横に振った。
伯爵がデスクに肘をつき、口の前で両手を組んでいる。
血走った眼差しに、シーリアは思わず怯んだ。
「座れ」
伯爵の視線の先の肘掛け椅子に、浅く座った。
「お前とフィリップ・ヘイズとの婚約が決まった」
シーリアは膝に爪を立てた。
「こ……断りました」
伯爵が眉間に深く皺を刻んだ。
「お前のせいで、息子は腕を無くした」
酷く割れた声だった。
シーリアの目がかすむ。
自分でも、もちろんそう思っていた。
デスクの向こうから伯爵が近づく。シーリアの胸ぐらを掴んだ。その勢いで、椅子から腰が浮いた。
「息子と私の人生から消えろ」
「……嫌です」
伯爵の目を見ながら、つぶやいた。
伯爵は激しく睨みつけたあと、彼女を突き飛ばした。
「結婚して出ていけば、ナサニエルの勘当を解いてやる」
絨毯に両手をつき、伯爵を見上げた。
「腕がなければ、軍人も、続けられまい」
「シーリア、そろそろ帰るわね」
ドローイング・ルームにフローレンスが挨拶にきた。後ろには乳母に抱かれた赤ん坊──クラリスがいる。
「さみしくなるわ……」
シーリアは立ち上がり、クラリスの頬をそっと撫でた。
クラリスのお披露目に帰っていたフローレンス。三日間の滞在だった。
「あの、フローレンス、五十ポンドのことだけど……」
フローレンスが首を横に振った。
「貸せないわ。お兄様がどうするつもりかわからないのに、一人でインドに行くのは反対よ」
シーリアは顔を歪めた。胸の奥がむずむずする。
ロケットを受け取ってもらえた。写真にキスもしてもらえた。
それだけで十分な将来の誓いじゃないの?
午後十時を過ぎて、やっと空が薄暗くなり始めた。
シーリアはドレッシングガウンを脱ぐと、いつものように天蓋付きのベッドに横になり、上掛けを被った。
真っ暗闇──いつの間にか、一面の黄色い砂地。
肌がじりじりと焼けた。強烈な太陽光。
飲み干した水筒。鞍の上で逆さに振ったら一滴だけ喉に落ちた。
急に砂嵐。
打ちつける小粒の石。顔を伏せる。懐の何かを握りしめた。
砂嵐がくっきりと晴れた。
──地平線を埋め尽くす、ターバンを巻いた大群。いくつもの大砲。
右手に構えたリボルバーが震えた。圧倒的な数。
パニックを起こした歩兵、騎馬兵。
撃ち込まれる砲撃に砂ぼこりが起きた。
捨て身の抗戦。弾切れ。持ち替えたサーベル。
また砂嵐。
何かが光った。サーベルと少し違う剣。
逃げて────
シーリアは叫びながら飛び起きた。
「────腕が!腕が!」
腕が熱い──
「レディ・シーリア!?どうされました?」
「腕が!腕が切られたの!」
「え?」
はっきりとしてきた視界。ベッドから飛び出した。
窓から見える、静かなフォーチェスター・ホールの庭園。
青みのある空のふもとに朝焼けが見えた。
メイドが戸惑っている。
荒い息をしながら見下ろした右腕は、いつもと何も変わりがなかった。
あの日から三週間。
ほんの少しまどろんだだけで、今日も朝がきた。
夢を見るのが怖い。
朝食室に入ると、伯爵が窓辺に立っていた。
新聞を握りしめている。顔が赤黒い。
シーリアはドアの前で立ち止まった。
あれから新聞は読めなくなっていた。
「読め」
伯爵が新聞を丸いテーブルの上に放り投げた。
シーリアの全身に冷たい汗が噴き出した。
そばにある椅子の背もたれに手をついて体を支えた。
「読め」
シーリアはすすり泣きながら、テーブルに近づいた。
──イギリス軍、壊滅的打撃の全貌
大きな見出し。
「いや……」
シーリアはよれよれになった新聞から目をそらした。
「読め!」
伯爵が叩きつけた窓ガラスが割れた。
彼が死んだはずがない。もしそうなら、会いに来てくれているはずだもの。
震える手で、何とかページをめくった。
戦死者名簿。彼の名前は無い。
ほら……
うめきながら負傷者名簿に目を向けた。
第36軽騎兵連隊──大尉 ナサニエル・デ・レイシー(重傷:右腕切断)
シーリアの意識が、ぷつんと途切れた。
ノックの音がした。
「レディ・シーリア?」
ミセス・ケインズの声。
ドアが開いても、シーリアはベッドの上にそのまま横たわり続けた。
「食べていないそうですね」
彼女がサイドテーブルに何かを置いた。
バターと香辛料。ケジャリーの香り。
胃が硬くなった。
「なんだか御屋敷全体の空気が重くて……何かあったのですか?」
ミセス・ケインズが椅子に座った。
「……よければ、話を聞きますよ」
黙り込んだままでいると、ミセス・ケインズのため息が聞こえた。
口に出したら正気を保てない。
彼は今頃苦しんでいて、もしかしたら生死の境をさまよっている……。はっとして体を起こした。
「ミセス・ケインズ、お金を貸して欲しいの!」
「お金?またどうして?……いくらです?」
「……五十ポンド」
「五十ポンド?」
ミセス・ケインズが口元を手で覆った。
「レディ・シーリア、わたしはしがない付添人ですよ?」
またドアがノックされる。
シーリアはうつむいて、神に祈りをささげた。
ミセス・ケインズが誰かと話している。
足音が近づいた。
「レディ・シーリア。旦那様が執務室にお呼びだそうですけど……お断りしましょうか?」
シーリアは目を見開いて、首を横に振った。
伯爵がデスクに肘をつき、口の前で両手を組んでいる。
血走った眼差しに、シーリアは思わず怯んだ。
「座れ」
伯爵の視線の先の肘掛け椅子に、浅く座った。
「お前とフィリップ・ヘイズとの婚約が決まった」
シーリアは膝に爪を立てた。
「こ……断りました」
伯爵が眉間に深く皺を刻んだ。
「お前のせいで、息子は腕を無くした」
酷く割れた声だった。
シーリアの目がかすむ。
自分でも、もちろんそう思っていた。
デスクの向こうから伯爵が近づく。シーリアの胸ぐらを掴んだ。その勢いで、椅子から腰が浮いた。
「息子と私の人生から消えろ」
「……嫌です」
伯爵の目を見ながら、つぶやいた。
伯爵は激しく睨みつけたあと、彼女を突き飛ばした。
「結婚して出ていけば、ナサニエルの勘当を解いてやる」
絨毯に両手をつき、伯爵を見上げた。
「腕がなければ、軍人も、続けられまい」