幼すぎた君との別れから
9話
フローレンスが結婚して以来、雇い人達を除けば伯爵とシーリアの二人だけの暮らし。
ドローイング・ルームで会えば、シーリアが伯爵に午後のお茶を淹れる。
晩餐も毎日共にとっていた。
話はほとんど無かったが、シーリアは意外にも不自由のない暮らしをさせてもらっていた。
誕生日といっても、普段の日と何か変わるわけでもない。
パチパチと音をたてる暖炉の前で、シーリアはこの前買ったインドのガイド本をかじりつくように読みふけった。
軍人の夫に呼ばれてインドに移住した妻の記事。
唇を噛みながら目を通す。
フローにもう一度頼んでみようか……五十ポンド。
多分断られるだろうけど。
シーリアは途切れ途切れのため息をついた。
寝室のドアがノックされた。
「どうぞ」
定規のようにまっすぐ背筋を伸ばした、執事のクロッカーだった。
「なに?」
「レディ・シーリア、旦那様がドローイング・ルームにお呼びでございます」
少し体がこわばる。
「すぐ行くわ……」
呼び出されるなんて、めったにないことだった。
ドローイング・ルームのドアの前、胸に手をおいて意識的に心を落ち着ける。
静かにドアを開けて中に入った。
肘掛け椅子に足を組んで座る伯爵。
その斜めに置かれたソファに、フィリップと彼の父ヘイズ卿がいた。
シーリアはさっとカーテシーをした。フィリップが、すぐさま立ち上がる。
「これはこれは、レディ・シーリア……蛹が蝶になるとは正にこのことだ。驚くほどお綺麗になられた」
ヘイズ卿が鷹揚に言った。
その横のフィリップが、にっこりと笑いながら二度頷いた。
「誕生日おめでとう、シーリア」
「あ、ありがとう」
シーリアは頬を指で擦った。
ヘイズ卿も口角を上げて頷く。
どこか感じる違和感。
「座りなさい」
伯爵に言われ、彼女は近くの椅子に静かに座った。
伯爵とヘイズ卿はアフガニスタンの戦況について意見を交わしている。戦争当事者のナサニエルの話を当然のように避けて。
シーリアはフィリップの熱心な視線を感じた。
視線を下げて扇子をそわそわと回しながら、ここに呼ばれた理由をひたすら考えた。
「フィリップ、退屈なら、レディ・シーリアに庭を案内してもらったらどうだ?」
小さい頃からここの庭園で遊んでいた彼に、今更案内するところなんてないのに……
フィリップがシーリアに近づき、軽くお辞儀をして腕を差し出した。
「案内していただけますか?レディ・シーリア」
ケープを羽織り、フィリップの腕に手を添えて、庭園を歩いた。
シーリアのレディズ・コンパニオンとなったミセス・ケインズが、少し離れて後ろを歩いている。
「湖のほうに行こうか?」
シーリアは口を引き結んでかぶりを振った。
「並木道のほうがいいわ」
シナノキの並木道。落葉して、枝や幹がむき出しになっている。
「大学はお休みなの?」
「シーリア……去年卒業したよ。知っているだろう?」
フィリップが咎めるように言った。
忘れていた。鼻先を触りながら気まずさをごまかす。
フィリップが道の真ん中で立ち止まった。
「去年のシーズンは残念だったよ。君は早々にロンドンからここに帰ってしまっただろう?」
「ちょっと、ロンドンに圧倒されちゃって……」
シーリアは彼から手を離して、頬に触れるおくれ毛をねじった。
知らない男性と踊るのは、苦しいだけだった。
フィリップは手を後ろで組み、まじまじとシーリアの顔を見つめている。
やっぱり落ち着かない……
フィリップの視線がシーリアの小さめの胸に移動した時、ミセス・ケインズが控えめに咳払いをした。
フィリップは眉をひそめて、ミセス・ケインズに冷たく目配せをした。
「気の利かない女だ……」
シーリアは自分の耳を疑った。
きっと、聞き間違いだろう。
ミセス・ケインズが数歩後ろに下がった。
フィリップが帽子を脱ぎ、胸に抱える。
「君に伝えたいことがあるんだ」
シーリアは両手を胸の前で固く握り合わせた。ようやく何が起ころうとしているのか分かった。
彼は髪をなでつけて深呼吸すると、視線を合わせた。
「レディ・シーリア──どうか僕と結婚していただけますか?」
シーリアは後ろのミセス・ケインズをすがるように見つめた。
ミセス・ケインズが困り顔で微笑む。
「ご、ごめんなさい……」
シーリアは頭を垂れた。迷いはなかった。フィリップの息を呑む音が聞こえた。
「……まだ彼を待っているのかい……ずっと連絡はないんだろう?」
胃のキリキリとするような痛み。
シーリアは、フィリップに背中を向けた。
戦争中だもの。終わればナサニエルお兄様はきっと迎えに来てくれる。
玄関前でフィリップと別れた。彼は何も言わずに屋敷に入って行った。
「いいのですか?」
ミセス・ケインズが首を傾け、じっと彼女を見つめる。
シーリアは首を縦に振った。
「……まあ、ミスター・ヘイズは振る舞いがスマートとは言えませんものね」
ずばりと言うミセス・ケインズに少し笑った。
「でもレディ・シーリア、あなたは社交を放棄しているわ。なぜなのです?今が一番大事な時期なのですよ?」
「……ミセス・ケインズといるほうが、楽しいもの」
彼女のかすかなため息が聞こえた。
屋敷に入る気になれず、そのままミセス・ケインズと庭園を歩いた。
もう日が落ちかけている。
ムクドリの群れが、うねるように空を飛んでいた。
屋敷前に戻ると、丁度帰宅しようとするフィリップと彼の父に鉢合わせてしまった。
フィリップは目も合わせず馬車に乗り込む。
少し寂しいけれど、仕方ない……
ヘイズ卿が一人近づいてきた。
「あいつの何が気に入らない」
「気に入らないだなんて……」
首を横に何度も振った。
幼馴染の彼が嫌いな訳ではない。
ヘイズ卿はステッキの先でシーリアの顔を指した。
「弟のほうならどうだ?」
「え……」
シーリアはドレスのスカートを鷲掴みにした。
彼の弟は、まだ少年用の膝下丈のズボンを履いていたはず。
言葉が出てこない。
ヘイズ卿が顔を歪めた。
「もったいぶってばかりいては、いくら父親の遺産が多くても、誰にも相手にされなくなるぞ」
ヘイズ卿はステッキを強く地面に突きながら、馬車に戻っていった。
ドローイング・ルームで会えば、シーリアが伯爵に午後のお茶を淹れる。
晩餐も毎日共にとっていた。
話はほとんど無かったが、シーリアは意外にも不自由のない暮らしをさせてもらっていた。
誕生日といっても、普段の日と何か変わるわけでもない。
パチパチと音をたてる暖炉の前で、シーリアはこの前買ったインドのガイド本をかじりつくように読みふけった。
軍人の夫に呼ばれてインドに移住した妻の記事。
唇を噛みながら目を通す。
フローにもう一度頼んでみようか……五十ポンド。
多分断られるだろうけど。
シーリアは途切れ途切れのため息をついた。
寝室のドアがノックされた。
「どうぞ」
定規のようにまっすぐ背筋を伸ばした、執事のクロッカーだった。
「なに?」
「レディ・シーリア、旦那様がドローイング・ルームにお呼びでございます」
少し体がこわばる。
「すぐ行くわ……」
呼び出されるなんて、めったにないことだった。
ドローイング・ルームのドアの前、胸に手をおいて意識的に心を落ち着ける。
静かにドアを開けて中に入った。
肘掛け椅子に足を組んで座る伯爵。
その斜めに置かれたソファに、フィリップと彼の父ヘイズ卿がいた。
シーリアはさっとカーテシーをした。フィリップが、すぐさま立ち上がる。
「これはこれは、レディ・シーリア……蛹が蝶になるとは正にこのことだ。驚くほどお綺麗になられた」
ヘイズ卿が鷹揚に言った。
その横のフィリップが、にっこりと笑いながら二度頷いた。
「誕生日おめでとう、シーリア」
「あ、ありがとう」
シーリアは頬を指で擦った。
ヘイズ卿も口角を上げて頷く。
どこか感じる違和感。
「座りなさい」
伯爵に言われ、彼女は近くの椅子に静かに座った。
伯爵とヘイズ卿はアフガニスタンの戦況について意見を交わしている。戦争当事者のナサニエルの話を当然のように避けて。
シーリアはフィリップの熱心な視線を感じた。
視線を下げて扇子をそわそわと回しながら、ここに呼ばれた理由をひたすら考えた。
「フィリップ、退屈なら、レディ・シーリアに庭を案内してもらったらどうだ?」
小さい頃からここの庭園で遊んでいた彼に、今更案内するところなんてないのに……
フィリップがシーリアに近づき、軽くお辞儀をして腕を差し出した。
「案内していただけますか?レディ・シーリア」
ケープを羽織り、フィリップの腕に手を添えて、庭園を歩いた。
シーリアのレディズ・コンパニオンとなったミセス・ケインズが、少し離れて後ろを歩いている。
「湖のほうに行こうか?」
シーリアは口を引き結んでかぶりを振った。
「並木道のほうがいいわ」
シナノキの並木道。落葉して、枝や幹がむき出しになっている。
「大学はお休みなの?」
「シーリア……去年卒業したよ。知っているだろう?」
フィリップが咎めるように言った。
忘れていた。鼻先を触りながら気まずさをごまかす。
フィリップが道の真ん中で立ち止まった。
「去年のシーズンは残念だったよ。君は早々にロンドンからここに帰ってしまっただろう?」
「ちょっと、ロンドンに圧倒されちゃって……」
シーリアは彼から手を離して、頬に触れるおくれ毛をねじった。
知らない男性と踊るのは、苦しいだけだった。
フィリップは手を後ろで組み、まじまじとシーリアの顔を見つめている。
やっぱり落ち着かない……
フィリップの視線がシーリアの小さめの胸に移動した時、ミセス・ケインズが控えめに咳払いをした。
フィリップは眉をひそめて、ミセス・ケインズに冷たく目配せをした。
「気の利かない女だ……」
シーリアは自分の耳を疑った。
きっと、聞き間違いだろう。
ミセス・ケインズが数歩後ろに下がった。
フィリップが帽子を脱ぎ、胸に抱える。
「君に伝えたいことがあるんだ」
シーリアは両手を胸の前で固く握り合わせた。ようやく何が起ころうとしているのか分かった。
彼は髪をなでつけて深呼吸すると、視線を合わせた。
「レディ・シーリア──どうか僕と結婚していただけますか?」
シーリアは後ろのミセス・ケインズをすがるように見つめた。
ミセス・ケインズが困り顔で微笑む。
「ご、ごめんなさい……」
シーリアは頭を垂れた。迷いはなかった。フィリップの息を呑む音が聞こえた。
「……まだ彼を待っているのかい……ずっと連絡はないんだろう?」
胃のキリキリとするような痛み。
シーリアは、フィリップに背中を向けた。
戦争中だもの。終わればナサニエルお兄様はきっと迎えに来てくれる。
玄関前でフィリップと別れた。彼は何も言わずに屋敷に入って行った。
「いいのですか?」
ミセス・ケインズが首を傾け、じっと彼女を見つめる。
シーリアは首を縦に振った。
「……まあ、ミスター・ヘイズは振る舞いがスマートとは言えませんものね」
ずばりと言うミセス・ケインズに少し笑った。
「でもレディ・シーリア、あなたは社交を放棄しているわ。なぜなのです?今が一番大事な時期なのですよ?」
「……ミセス・ケインズといるほうが、楽しいもの」
彼女のかすかなため息が聞こえた。
屋敷に入る気になれず、そのままミセス・ケインズと庭園を歩いた。
もう日が落ちかけている。
ムクドリの群れが、うねるように空を飛んでいた。
屋敷前に戻ると、丁度帰宅しようとするフィリップと彼の父に鉢合わせてしまった。
フィリップは目も合わせず馬車に乗り込む。
少し寂しいけれど、仕方ない……
ヘイズ卿が一人近づいてきた。
「あいつの何が気に入らない」
「気に入らないだなんて……」
首を横に何度も振った。
幼馴染の彼が嫌いな訳ではない。
ヘイズ卿はステッキの先でシーリアの顔を指した。
「弟のほうならどうだ?」
「え……」
シーリアはドレスのスカートを鷲掴みにした。
彼の弟は、まだ少年用の膝下丈のズボンを履いていたはず。
言葉が出てこない。
ヘイズ卿が顔を歪めた。
「もったいぶってばかりいては、いくら父親の遺産が多くても、誰にも相手にされなくなるぞ」
ヘイズ卿はステッキを強く地面に突きながら、馬車に戻っていった。