幼すぎた君との別れから

11話

 オークの木の木陰に、フィリップが立っている。
 シーリアが近づくと、彼は照れ笑いを浮かべて、一瞬目を伏せた。

「彼のことは……もういいんだね?」

 表情を殺して頷いた。

 これでナサニエルお兄様を救える。


 シーリアはフィリップのハンサムな顔をじっと見つめた。

──いつか好きになれる?

 目の焦点が合わなくなった。気づけばナサニエルの姿を思い描いている。

 シーリアは瞼をぎゅっと閉じた。

 そうなる努力をしなければならない。



 赤い煉瓦で出来た、チューダー様式のヘイズ卿の屋敷。

 玄関前でシーリアとミセス・ケインズをおろすと、馬車は厩舎に向かった。

 屋敷の正面にある丸い大きな噴水。
 二段の皿から雨のように水が落ちるさまを、シーリアはうつろに見つめ続けた。

 水面に映る雲が動いている。

 彼の屋敷に来ると、いつも体が重い。

 
「シーリア!」
 
 玄関からフィリップが駆けてきた。

「どうして早く入って来ないんだい?」

「ご、ごめんなさい。ご両親に会うと思うと緊張しちゃって……」

 フィリップに連れられドローイング・ルームに入ると、彼の両親と弟のジョージがいた。

 シーリアはミセス・ケインズと擦り切れた絨毯の上を歩き、レディ・ヘイズの近くの椅子に座った。

 椅子の座面は破れたまま。
 使用人もほとんど見かけない。
 
 地代収入が減って、資金繰りに苦しむ貴族は多い。
 ここも、そう見えた。

「レディ・シーリア。二階にあなたとフィリップの部屋を用意したのよ。二人で見てきてごらんなさい」


 シーリアとフィリップのために彼の母が用意した部屋。屋敷のほかの部分とは違い、真新しい家具。

 ワインレッドのシルクのカーテン、繊細な植物が描かれたモリスの壁紙、深緑の絨毯。
 いくらかけたんだろう。
 大きなベッド……

 シーリアは顔を両手で覆った。

 この部屋の全てを壊し尽くしたくなった。
 
 フィリップがシーリアの肩にそっと手を置いた。

「どうだい?結婚後はここが僕たちの部屋だ」
 誇らしげな彼の声。

「……素敵だわ」

「シーリア……僕は君と結婚することをずっと夢見てた。君が受け入れてくれたことが、本当に嬉しいんだ」
 優しい小声でフィリップが言った。
 


1881年、イングランド


 夜、廊下を歩くシーリアの耳に、激しい咳が聞こえた。

 冬に風邪を引いて以来、八月になった今でも、伯爵の体調は戻らない。

 病状が持ち直すまで、またフィリップと私の挙式は延期だろう。

 シーリアは大きく息を吐き出した。

 ほっとする一方で、歯がゆくて仕方がなかった。

 六月には結婚して、ナサニエルの勘当は解かれているはずだった。



 十月に入り、伯爵は部屋から出てこられなくなった。
 さらに、ここ数日は熱まで出ている。


 シーリアは顔をしかめて伯爵の部屋のドアを見つめた。

 激しい咳。一歩ドアに近づく。

 中からフローレンスと主治医が出てきて、あわてて後ろに下がった。

「おじ様の様子はどう?」

 フローレンスが疲れた目元をこすった。

「また熱が高くなってしまったわ」



 その二日後、シーリアは伯爵の部屋に呼ばれた。

 肘掛け椅子に前かがみになって座る伯爵のそばには、涙目のフローレンスと苦い顔の主治医のスミス。

 汗だくの伯爵はゼエゼエと息をしている。

「シーリアと……二人にしてくれ」

 戸惑いながらフローレンスとスミスが出ていった。



 紫色になった伯爵の唇。
 意識が遠のいて伯爵の体が横に崩れる。シーリアは駆け寄って支えた。

 死がすぐそこまで近づいている。

「おじ様……」

「……お前を、ヘイズと婚約させてしまった……ナ……ナサニエルは、私を許さんだろう……」

 朦朧とした灰色の瞳が、すがるようにシーリアを見つめた。

「彼には言いません……」

 シーリアは、喉のつかえを無理やり飲み込み、そっとささやいた。

 伯爵の唇が震えていた。


 それが、伯爵と交わした最後の言葉だった。
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