幼すぎた君との別れから

14話

「旦那様?」

 三回目にして、ナサニエルはようやくクロッカーが呼んでいるのは、自分だと気づいた。

「お部屋はどちらになさいますか?」

「……以前の部屋で」

「かしこまりました」

 まだ父の部屋を使う気にはなれない。


 視界の隅に、シーリアが見えた。目をそらして、まっすぐに前を一点に見つめる。

 今は彼女の顔が見たくない……



 部屋に入るとすぐアリを下がらせて、濃紺の天蓋のかかるベッドに座った。

 五年前出ていった時のまま、変わらない寝室。

 壁に貼られた大きな世界地図。本棚に並べられた戦術本の知識は──実戦ではあまり役に立たなかった。


 ナサニエルはボタンを、一つ一つ時間をかけて外し、窮屈なフロックコートとクラヴァット、ウエストコートを脱いだ。
 
 今はアリに着替えを手伝わせる気にはなれない。

 細いベルトで体に固定された、重たい鋼鉄製の義手。

 ナサニエルは歯でベルトを噛みながら、バックルを外し、絡み合う紐を脱いだ。

 義手がドサリとマットレスの上に落ちる。
 付け慣れない偽物の腕を見ながら、せせら笑った。

 シーリアを怖がらせないために、準備した義手。
 確かに効果はあった。

 いや、違う。

 結婚相手でもない男に腕があろうがなかろうが、どうでもいいだけの話ではないのか?

 シーリアからロケットを受け取ったあの瞬間が、ナサニエルの頭の中に蘇った。

 シーリアがインドに来なくても、手紙の返事が無くとも、当然彼女は待ってくれていると思っていた。疑いもしていなかった。

 シーリアがそもそも本気だったか、今では分からない。彼女は、子供だった。

 父親のような存在を求めていただけかもしれない。
 そう思うと、残された左腕に鳥肌が立った。

 フィリップ・ヘイズ。

 シーリアはああいう男が好きなのか。
 金髪のひ弱な男。

 だが、あいつには両腕がある。  

 ナサニエルは立ち上がり、衝動のまま義手をサイドテーブルに叩きつけた。
 義手の真鍮の筒が大きくへこみ、テーブルの細く優美な脚が二本折れた。



 閉め切った厚いカーテンで、窓の外は見えない。朝から小雨が降っているのは、音で分かった。

 シーリアはベッドの上で横向きに寝たまま、膝を胸に引き寄せた。

 いつもと違うナサニエルの夢を見た。
 五年前キスをした、まばゆいばかりの若き将校。
 唇を離すと、片腕を無くした影のある男になっていた。

 圧倒的な、ひりひりするような存在感を放って。



 朝食室には、フローレンスとアンブローズ卿がいた。

 黒いデイドレス──喪服を着たフローレンスが黙々と食べている。食べ終わると、ふいに口を開いた。

「ねえ、シーリア。お兄様は、あなたとフィリップの婚約のことを知っているの?」

 食べていたマフィンが、喉に詰まりそうになった。

「……え、ええ」

「何か言っていた?」
 
「い、いいえ?」

「ふーん……」

「シーリア、僕たちは今日屋敷に帰ることにするよ」

 サイドボードから戻ってきたアンブローズ卿が、二人の前にコーヒーを置いた。

「え、あ、そうなの……もう……」

 フローレンス達が帰ったら、今度はナサニエルとの二人暮らし。

 急にジャムを塗ったマフィンの味がしなくなった。

「もう少しここにいたいけど、子供たちが心配だから……。あ、でも困ったことがあれば連絡をちょうだい。すぐにまた駆けつけるわ」

 部屋に執事のクロッカーが入ってきた。

「レディ・シーリア、旦那様が午後に執務室へお越しいただきたいとのことです」

 フローレンスはシーリアと視線が合うと、すぐに目をそらしてコーヒーを飲んだ。

 

 フローレンス夫婦が、朝食室を出ていった。

 サイドボードの横で待機していたクロッカーが近づく。

「レディ・シーリア。先代伯爵が遺された真珠の鍵ですが、おそらく亡き奥様の作業箱の鍵かと。旦那様のお許しがあれば、お部屋にお持ちできますが……」

──おじ様の奥様。

 おじが爵位を継ぐ前に亡くなった人、ナサニエルの母。
 面識はなかった。

 そんな大切なものを、なぜ私に遺すの?


 
 クロッカーが机に置いた、エボニーの木でできた作業箱。
 鍵穴の周りには、鍵と同じ銀の透かし模様がある。隙間に小さな真珠も埋め込まれていた。

 鍵を差し込み、回した。カチリと音がした。

「クロッカー、ありがとう」

 クロッカーは会釈をして、彼女の部屋を出ていった。


 シーリアはゆっくりと蓋を開けた。

 手紙──私宛。
 なんだろう……
 
 一呼吸おいて、手に取った。

 切手には1879年6月のインドの消印が押されている。
 
 手が激しく震えた。既に開封されている。

 シーリアはびくつきながら中身を取り出した。

 待っている。
 ナサニエルお兄様からの手紙。

 ロンドン発、インド・ボンベイ行きの船のチケット。

 切り裂くような悲鳴をあげ、シーリアはしゃがみ込んだ。



「──レディ・シーリア!」

 体を揺さぶられている。

「いったいどうしたんです!」

 シーリアは顔をゆっくりと上げた。
 誰だろう……そうだわ……ミセス・ケインズよ。

 虚ろに部屋を見回した。
 喉がカラカラだった。

「爪から血が出てるわ!」
 ミセス・ケインズがあわてる。

 シーリアの割れた爪に、絨毯の毛と血がからまっていた。
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