幼すぎた君との別れから

15話

 医師のスミスが飲ませた鎮静剤。頭がぼーっとする。

 シーリアはふらつきながら執務室のドアをノックした。

「入りなさい」
 ナサニエルの低く厚みのある声が聞こえた。

 ドアを開けると彼はデスクの向こう、ビロードのカーテンの前に立っていた。

「シーリア」

 シーリアは息ができなかった。

 ナサニエルが真正面から彼女を見つめている。幻のように思えた。

 ナサニエルに向かって、ひとりでに足が動く。
 彼はデスクの手前に置かれた椅子を、すかさず指さした。

「そこに座って」

 シーリアは立ち尽くした。目が急に覚めた気がした。

 少しつまずきながら椅子に座る。

 彼は元軍人らしい無駄のない動きで、デスクに着いた。
 かつてシーリアが奪った唇は、一分の隙もなく硬く結ばれている。


「五年ぶりかな?見違えた。もう立派なヤング・レディだ」

 シーリアは一つも嬉しくないまま頷いた。

 ナサニエルの態度はどこまでもよそよそしかった。

 他に何か言うことはないのだろうか。

 五年前、キスをしたこと。ロケットのこと。離れていた間のこと。

 あのチケットは、もうなかったことにしたの……?

 のぼせたように、また頭がぼんやりとしてきた。
 
「……ご無事のご帰還、何よりです」

 ナサニエルが視線を斜め下にさげたとき、空の右袖が揺れた。

 シーリアははっとした。
 
 私はなんて気が利かないの……

 言葉がうまく出てこない。

 シーリアは狼狽えながら、デスクに開かれたスクラップブックへ視線を逃がした。

「クロッカーに借りた。君の記事が切り抜いてある」

 ナサニエルがペン先を当てた、ごく小さな新聞の切り抜き。立ち上がりそれに目を凝らした。シーリアとフィリップの婚約の記事だった。

 思わずうめき声を漏らした。

「ここに君を呼んだのは、君と──彼の結婚について、話をするためだ」
 
「話……」

 ナサニエルが、椅子を少し後ろに引いて体を反らせた。

「……来月、式だそうだね……そうなのかい?」 

 シーリアはうなだれたまま、何も反応できなかった。
 胃がキリキリと痛む。

 しばらく沈黙が続いた。 ナサニエルが立ち上がり、パタンとスクラップブックを閉じた。

「何度も式を延期した理由は?」

「……おじ様の体調が戻らなくて」

「なるほど……やむにやまれず」

 ナサニエルが少し笑った。

「残念だけど、君の結婚を許すわけにはいかない」

 シーリアは素早く顔を上げた。

 両手を胸の前で固く握り合わせる。
 期待しすぎてはだめ…… 

 ナサニエルは壁の本棚に向かい、焦げ茶色の本の背表紙を指先で撫でた。

「喪中だからね。少し延期してもらおうと思う」
 どうでもよさそうに、彼は言った。

 手足から急に力が抜けた。

「楽しみにしていただろうね。がっかりしたかい?」

 美しく、冷たい笑みを浮かべたナサニエル。灰色の瞳が少しぎらついたように見えた。

 シーリアはなんらかの感情を探して彼の顔をじっと見つめた。 
 顔をしかめて、ナサニエルは彼女から目をそらす。

「父が亡くなり、私が君の後見人になった。指示には従ってほしい」

「……いつまで?」
 延期だけなの?

 ナサニエルは背中を向けて何も答えなかった。
 
「わ、わかりました。おじ様が亡くなったばかりですものね」

「よろしい。彼には私から連絡しておくよ」

 彼は話は終わりだとでもいうようにデスクにつき、山積みの書類を取り出して次々とサインを書き始めた。

 左手で書かれる、少し歪んだフォーチェスターのサイン。
 ガリガリと響く音。

「あの……ナサニエルお兄様──」
 ──会いたかった。
 せめてそう伝えたかった。

 彼の肩がふいに張りつめたので、シーリアは言葉を呑みこんだ。

 控えめなノックの音。

「入れ」

 クロッカーが入って来た。

「旦那様、領地管理人のウィリアムズが参りましたが、どういたしましょうか」

「彼女との話は終わった。ここに通せ」

 ナサニエルは出ていくようにと、彼女に目で合図をした。



 ドアが閉まりシーリアが見えなくなると、ナサニエルは詰めていた息を吐き出した。

 振り向かせて、彼女が泣くまで裏切りを責めたかった。

 無意識にウエストコートのポケットからロケットを取り出し、握りしめる。

 蓋を開けた。

 少し畏まった姿で座る十四歳の頃のシーリア。写真を見なくても、もう脳裏に焼きついている。

 以前のようにポートレートに口づけすることは躊躇われた。視線を上げて、蓋を閉じる。

 フィリップ・ヘイズとの結婚の延期。シーリアはあっさりと受け入れたようにも見えたし、がっかりしているようにも見えた。


 領地管理人のウィリアムズが入ってきた。

 ナサニエルは引き出しにロケットをしまい、硬くなった首を回した。



「────ですので、地代収入は幾分か減りましたが、採石場の開発で資産は大きく────」

 ウィリアムズの話が、まるで頭に入ってこない。
 ナサニエルはペン先で書類を何度も叩いた。

 成長したシーリア。声も、以前とはまるで別人のようだった。
 彼女のしっとりとした声がいつまでも耳に残っている。
 社交界でも、可愛らしく男に囁いて、恋の駆け引きを楽しんできたのだろう。
 
 食いしばったナサニエルの歯がきしんだ。

 いっそ寄宿学校に入れたほうが、良かったのかもしれない。

 デスクに放り投げた金属製のペンが床に転げ落ち、ウィリアムズが目を丸くした。
 
 結婚を延期して、どうする。
 何の考えも無かった。



 その晩もいつものように、自分の部屋でミセス・ケインズと食事をとっていた。

「スミス先生が、また眠れないようだったら、以前と同じお薬も出すとおっしゃってましたよ」
 ミセス・ケインズが静かに言った。

 シーリアは頷いて、ナイフとフォークを皿に置いた。

 荒々しく何度も叩きつけるノック。
 ミセス・ケインズと目を見合わせた。

「ど、どうぞ?」

 燕尾服で正装したナサニエルがドアを開けて入ってきた。

「シーリア。何のつもりだ?」

 握りこぶしをまっすぐにおろして、声はまるで噛みつくようだ。

「な、なんのつもりって……食事をしているだけです」

 彼の華やかな出で立ちに心を奪われて、シーリアは目がちかちかとした。

「私とは食事をとれないと?ずいぶん侮辱的じゃないか」

 シーリアは思わず立ち上がった。

「い、いえ、違います!前からこういう習慣なの」

「なぜ?」

「なぜって……」
 
 体が硬くこわばった。

 あなたの父に心底嫌われていたからよ。そう心の中で毒づいた。

 彼の視線がシーリアのドレスに向けられた。

 コルセットとバッスルもない、くつろいだ黒いティードレス。
 
 シーリアは椅子に素早く座り直し、両腕を体に巻きつけた。
 彼がここに来るなんて思わなかった。

 ナサニエルが胸を大きく膨らませて息を吸い込んだ。

「君は使用人ではない。こんな真似は今日限りでやめろ。イブニングドレスを着て、三十分以内に下におりてくるんだ」

 ミセス・ケインズが目を伏せて、気配を消そうとしている。

「ミセス・ケインズ。君も同席してもらって構わない。シーリアを連れてきてくれ」

 ドアを開けたままナサニエルは出ていった。

 ミセス・ケインズが肩をさすった。

「新しい伯爵は、意外と気性の激しい方なのですね」

「そうね……」

 そうだったかしら……

 シーリアは火照る頬を手で冷やした。怒られたのに顔が緩んでしまう。
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