幼すぎた君との別れから
16話
着替えを済ませ、手首と首筋にラベンダーの香水をつけると、シーリアはミセス・ケインズとドローイング・ルームに急いで向かった。
従僕がドアを開けた。
ナサニエルが、すぐにソファから立ち上がる。
彼に言われた通り黒のイブニングドレスに着替えた。ナサニエルがその姿をかすめ見る。
とたんに体にしびれが走った。
歩み寄った彼が左腕を差し出した。シーリアはその腕にそっと手を添わせた。
ナサニエルが空気を吸い込むのを感じた。ラベンダーの香りを味わうように。
香りをつけて良かった……
二人でダイニング・ルームに向かった。
筋肉質な逞しい腕にそわそわとしてしまう。
手袋越しに触れる指先がうずいていた。
どう過ごせば、こんな腕になるの?
想像をめぐらせるうちに、次第に浮ついた気持ちが沈んでいった。
「……戦争の、話を聞いてもいいの?」
ナサニエルは目を大きく開いたあと、顔をしかめた。
「だめだ。女性に聞かせるような話ではない」
夜は眠れるの?──もう痛みはないの?
そんな質問も?
シーリアは張り詰めたナサニエルの横顔を見つめた。
彼の中では、何かがまだ続いているかもしれない──当然だわ。
胸に苦しさが残った。
彼を癒せたらいいのに……
戦争の話など、シーリアにできるわけがない。
分かるだけでも、自ら七人もの敵兵を手にかけた。
指揮下の者たちの分も合わせたら──数え切れない。
中隊は守りきれず大勢失った。
シーリアの中のかつての自分のイメージを、これ以上壊したくなかった。
清楚なラベンダーの香りが、また鼻をくすぐった。
黒いイブニングドレス。
少し控えめに晒されたデコルテの白い肌が、先ほどの無防備なティードレスとは違う苦しみをナサニエルに与えた。
成長したシーリアは恐ろしく目の毒だ。
抑えようとしても、全身に力がみなぎった。
インドの病院で死んだように過ごしていた頃の自分とは、別人のようだ。
シーリアのピンク色の唇を密かに見つめる。
あの唇を知っている。
──いや、知らない。
昔はあんなに熟れた唇ではなかった。
一番奥の暖炉前の席。
インド人の従者が、ナサニエルの仔牛肉のローストを小さめに切り分けている。
左手のフォークのみで黙々と食べる彼を、シーリアはこっそりと観察した。
生活で、不自由なことはあるのだろうか。
私にできることは……
「あの、ナサニエルお兄様──」
ナサニエルはフォークを皿に置いて、背中を少し反らせた。
「その呼び方はやめてくれ。君の兄になった覚えはない」
吐き捨てるように、彼は言った。
シーリアはナイフとフォークをぎゅっと握りしめた。
なんで今になって言うの……?
「……では、なんと?」
声が震えた。
ナサニエルは無責任にも口をつぐんだ。
「……フォーチェスター卿?」
ナサニエルの後ろに立つインド人の従者が、眉をひどく下げてかぶりを振っている。
シーリアは唇をゆがめた。
ナサニエルのこめかみには青筋が立っていた。
「だって……」
シーリアは向かいに座るミセス・ケインズに視線で助けを求めた。
「そ、そうですね。すこし、他人行儀すぎる気もしますね…」
ひたすらうつむきながら、ミセス・ケインズが答えた。
シーリアは仔牛肉をフォークでつついた。
心の中でずっと呼んでいた呼び名はある。
「ネ、ネイト……」
力が入って、思いのほか大きな声になった。
インド人の従者が、にっこりと笑って頷いた。
ナサニエルと目が合った。
強い引力を放つ彼の瞳。しばらく見つめあった。胸の苦しさに耐え切れず、無理やり視線をそらした。
「ミセス・ケインズ。君はシーリアのガヴァネスだったそうだね」
ミセス・ケインズが手を膝に下ろし、背筋をぴんと伸ばした。
「はい、レディ・シーリアが十四歳の頃から。デビュー以降もご温情で、付添人をさせていただいております」
「屋敷の主と食事をしなくてもいいと、君が彼女に教えたのか。それとも父がそうさせたのか?」
「……あの」
ミセス・ケインズが背中を丸める。
シーリアの顔から血の気が引いた。
ミセス・ケインズは、何度もおじと私の間を仲立ちしようとしていた。事情を知らずに……
「ナサニエルお兄様──」
ナサニエルが彼女を鋭く睨んだ。
「ネ、ネイト、私がそう決めたんです」
それは紛れもなく事実だった。
ナサニエルの眉間の皺が深くなった。
ミセス・ケインズが何度も眼鏡の位置を直している。
ナサニエルは考え込むような表情をして、その後はろくに話さなくなった。
食事が終わり、シーリアとダイニング・ルームを出て行ったケインズを、ナサニエルは連れ戻させた。
「ミセス・ケインズ。君にはありのままを率直に話してほしい。私の父はシーリアにつらく当たっていたのか?」
ケインズは落ち着きなく手を擦ったあと、やっと重い口を開いた。
「大声をあげられるようなことはありませんでしたが……何故か、前伯爵はレディ・シーリアを酷く憎んでおられるようでした。一年ほど前から。食事を別にとられるようになったのもその頃からです」
一年ほど前。
腕をなくした頃だ。
はっとして、口をおさえた。
父はシーリアを責めたのか?
呻きながら立ち上がった。
そうに違いない。
シーリア……
大佐にまで上り詰めた男に怒りを向けられて、どれほど恐ろしかっただろう……
ナサニエルは死んだ父の墓を開けて、怒鳴り散らしたくなった。
「……ミセス・ケインズ。子供の頃からシーリアを支えてくれたことに、感謝する。これからも彼女を助けてやってくれ」
ケインズがまばたきをして、明るく装うように笑った。
「そうしたいのは山々なのですが、レディ・シーリアが結婚されたあとは別の仕事を探さねばなりません」
──結婚──
ナサニエルは突然苦味が欲しくなり、立ったままウイスキーを口に流し込んだ。
「レディ・シーリアとは支え合いながら過ごしてきました。彼女との時間がもうすぐ終わると思うと……」
ミセス・ケインズが遠い目になった。
──これは本当に現実なのか?
しばらく声を出せなかった。
「──ヘイズは君を雇わないのか。随分ケチだな」
ケインズが、くすくすと笑った。
「実は、旦那様に少し早めに紹介状をお願いできればと思っていたのです。すぐに次の仕事が見つかるとは思えないので……」
ナサニエルはグラスの縁を何度も指でこすった。
ケインズが心許なげにこちらを見ている。
「紹介状のことは、少し待ってほしい。……悪いようにはしない」
従僕がドアを開けた。
ナサニエルが、すぐにソファから立ち上がる。
彼に言われた通り黒のイブニングドレスに着替えた。ナサニエルがその姿をかすめ見る。
とたんに体にしびれが走った。
歩み寄った彼が左腕を差し出した。シーリアはその腕にそっと手を添わせた。
ナサニエルが空気を吸い込むのを感じた。ラベンダーの香りを味わうように。
香りをつけて良かった……
二人でダイニング・ルームに向かった。
筋肉質な逞しい腕にそわそわとしてしまう。
手袋越しに触れる指先がうずいていた。
どう過ごせば、こんな腕になるの?
想像をめぐらせるうちに、次第に浮ついた気持ちが沈んでいった。
「……戦争の、話を聞いてもいいの?」
ナサニエルは目を大きく開いたあと、顔をしかめた。
「だめだ。女性に聞かせるような話ではない」
夜は眠れるの?──もう痛みはないの?
そんな質問も?
シーリアは張り詰めたナサニエルの横顔を見つめた。
彼の中では、何かがまだ続いているかもしれない──当然だわ。
胸に苦しさが残った。
彼を癒せたらいいのに……
戦争の話など、シーリアにできるわけがない。
分かるだけでも、自ら七人もの敵兵を手にかけた。
指揮下の者たちの分も合わせたら──数え切れない。
中隊は守りきれず大勢失った。
シーリアの中のかつての自分のイメージを、これ以上壊したくなかった。
清楚なラベンダーの香りが、また鼻をくすぐった。
黒いイブニングドレス。
少し控えめに晒されたデコルテの白い肌が、先ほどの無防備なティードレスとは違う苦しみをナサニエルに与えた。
成長したシーリアは恐ろしく目の毒だ。
抑えようとしても、全身に力がみなぎった。
インドの病院で死んだように過ごしていた頃の自分とは、別人のようだ。
シーリアのピンク色の唇を密かに見つめる。
あの唇を知っている。
──いや、知らない。
昔はあんなに熟れた唇ではなかった。
一番奥の暖炉前の席。
インド人の従者が、ナサニエルの仔牛肉のローストを小さめに切り分けている。
左手のフォークのみで黙々と食べる彼を、シーリアはこっそりと観察した。
生活で、不自由なことはあるのだろうか。
私にできることは……
「あの、ナサニエルお兄様──」
ナサニエルはフォークを皿に置いて、背中を少し反らせた。
「その呼び方はやめてくれ。君の兄になった覚えはない」
吐き捨てるように、彼は言った。
シーリアはナイフとフォークをぎゅっと握りしめた。
なんで今になって言うの……?
「……では、なんと?」
声が震えた。
ナサニエルは無責任にも口をつぐんだ。
「……フォーチェスター卿?」
ナサニエルの後ろに立つインド人の従者が、眉をひどく下げてかぶりを振っている。
シーリアは唇をゆがめた。
ナサニエルのこめかみには青筋が立っていた。
「だって……」
シーリアは向かいに座るミセス・ケインズに視線で助けを求めた。
「そ、そうですね。すこし、他人行儀すぎる気もしますね…」
ひたすらうつむきながら、ミセス・ケインズが答えた。
シーリアは仔牛肉をフォークでつついた。
心の中でずっと呼んでいた呼び名はある。
「ネ、ネイト……」
力が入って、思いのほか大きな声になった。
インド人の従者が、にっこりと笑って頷いた。
ナサニエルと目が合った。
強い引力を放つ彼の瞳。しばらく見つめあった。胸の苦しさに耐え切れず、無理やり視線をそらした。
「ミセス・ケインズ。君はシーリアのガヴァネスだったそうだね」
ミセス・ケインズが手を膝に下ろし、背筋をぴんと伸ばした。
「はい、レディ・シーリアが十四歳の頃から。デビュー以降もご温情で、付添人をさせていただいております」
「屋敷の主と食事をしなくてもいいと、君が彼女に教えたのか。それとも父がそうさせたのか?」
「……あの」
ミセス・ケインズが背中を丸める。
シーリアの顔から血の気が引いた。
ミセス・ケインズは、何度もおじと私の間を仲立ちしようとしていた。事情を知らずに……
「ナサニエルお兄様──」
ナサニエルが彼女を鋭く睨んだ。
「ネ、ネイト、私がそう決めたんです」
それは紛れもなく事実だった。
ナサニエルの眉間の皺が深くなった。
ミセス・ケインズが何度も眼鏡の位置を直している。
ナサニエルは考え込むような表情をして、その後はろくに話さなくなった。
食事が終わり、シーリアとダイニング・ルームを出て行ったケインズを、ナサニエルは連れ戻させた。
「ミセス・ケインズ。君にはありのままを率直に話してほしい。私の父はシーリアにつらく当たっていたのか?」
ケインズは落ち着きなく手を擦ったあと、やっと重い口を開いた。
「大声をあげられるようなことはありませんでしたが……何故か、前伯爵はレディ・シーリアを酷く憎んでおられるようでした。一年ほど前から。食事を別にとられるようになったのもその頃からです」
一年ほど前。
腕をなくした頃だ。
はっとして、口をおさえた。
父はシーリアを責めたのか?
呻きながら立ち上がった。
そうに違いない。
シーリア……
大佐にまで上り詰めた男に怒りを向けられて、どれほど恐ろしかっただろう……
ナサニエルは死んだ父の墓を開けて、怒鳴り散らしたくなった。
「……ミセス・ケインズ。子供の頃からシーリアを支えてくれたことに、感謝する。これからも彼女を助けてやってくれ」
ケインズがまばたきをして、明るく装うように笑った。
「そうしたいのは山々なのですが、レディ・シーリアが結婚されたあとは別の仕事を探さねばなりません」
──結婚──
ナサニエルは突然苦味が欲しくなり、立ったままウイスキーを口に流し込んだ。
「レディ・シーリアとは支え合いながら過ごしてきました。彼女との時間がもうすぐ終わると思うと……」
ミセス・ケインズが遠い目になった。
──これは本当に現実なのか?
しばらく声を出せなかった。
「──ヘイズは君を雇わないのか。随分ケチだな」
ケインズが、くすくすと笑った。
「実は、旦那様に少し早めに紹介状をお願いできればと思っていたのです。すぐに次の仕事が見つかるとは思えないので……」
ナサニエルはグラスの縁を何度も指でこすった。
ケインズが心許なげにこちらを見ている。
「紹介状のことは、少し待ってほしい。……悪いようにはしない」