幼すぎた君との別れから
17話
昼前から前触れもなく訪れたヘイズ親子。
予想通りだった。
クロッカーからその報せを聞いた時、ナサニエルは戦地に展開するときの、全身に血の巡る感覚を思い出した。
ドローイング・ルームに入った。
父親のほうはソファでふんぞり返り、息子はその横で前のめりになりながら脚をゆすっている。
「ヘイズ卿、ミスター・ヘイズ」
ずんぐりとした体のヘイズ卿。片手に手紙を持ち、ナサニエルを睨みつけながら立ち上がった。
「フォーチェスター卿、昨日届いたこの驚くべき手紙について、説明していただけますかな?」
ナサニエルは肘掛け椅子に深く座り、脚をゆったりと組んだ。
「書いてある通り。来月の挙式は中止。牧師にもそう伝えてある」
ヘイズ卿は丸めた手紙を絨毯に叩きつけた。
「今まで何度延期したと思っているんだ!あまりに横暴だ!それも、延期期間も未定だと!?」
「父の死を悼む時間を取るのは当然でしょう」
「あなた方は遠い親戚に過ぎないではないか!」
「父は彼女を実の家族のように思っていた。シーリアもそのはずだ」
「あれで?」
フィリップがボソッとつぶやく。
居心地の悪さを感じて、ナサニエルは脚を組み替えた。
しばらく肩で息をしたあと、ヘイズ卿が口を開いた。
「ははあ、わかったぞ、フォーチェスター卿。親子共々彼女の金が惜しくなったのだな」
ナサニエルは、思ってもみない言葉にまばたきをした。
……なるほど、そういうことか。
「ヘイズ卿。あなたが目の色を変えるほどだ。彼女の父の遺産は、相当な額なのでしょうね」
ナサニエルはフィリップをじっと見つめた。
フィリップの顔がみるみると紅潮する。
「ますますこの結婚について、考え直さなければなりませんね。落ちぶれた家に嫁がせても、彼女のためにはならない」
「……その言葉……たとえ貴方といえども、許せませんぞ」
ヘイズ卿がナサニエルを指差した。指先が震えている。
ナサニエルは立ち上がり、頭一つ背の低いヘイズ卿を顎を突きだして見下ろした。
「決闘でもしますか?構いませんよ」
ヘイズ卿が腕を胸の前に構えながら後ずさりをした。
「い、今どき、決闘など……と、とにかく、レディ・シーリアはフィリップと結婚する。延期は、長くても一カ月だ」
「……期間は私が決める」
声に脅しを込めた。
ヘイズ卿が素早く目をそらした。
この結婚を壊す。そのことだけは決めていた。
ナサニエルはゆっくりと椅子に座り、背もたれに寄りかかった。
少し熱くなりすぎた。こういう小物は淡々と相手するに限る。
「こ、こちらは訴訟を起こしても構わないんだ!フィリップ、行くぞ!」
ヘイズ卿が出ていったあと、フィリップがふらりとしながら、やけに静かに立ち上がった。
「……僕は金目当てじゃない」
冷めた目でフィリップを見ながら、肩をすくめた。
「……シーリアが憧れていたあなたはもういない」
ナサニエルは肘掛けを強く握りしめた。
フィリップが口の端を、片方だけ上げた。
「あなたが腕を失ったと知ったあと、シーリアは僕を選んだんだ」
フィリップの挑発的な薄青い目。
少なくとも、シーリアは途中までは私に本気だったようだ。
ナサニエルは短く笑った。
身体の感覚がなくなっていくのを感じた。
庭師がイチイの木を剪定している。
シーリアは屋敷にこもっている気分になれず、ミセス・ケインズを誘い庭園を歩いた。
『ナサニエルは、私を許さんだろう……』
最後に会った時のおじの言葉。
手紙とチケットを隠したことも、あの言葉の中には含まれていたのだろうか。
散策中、ミセス・ケインズが立ち止まり、佇みながらどこかを見つめていた。
芝生の中に生える、杉の木。
その木陰にアリがいた。
小さな絨毯の上で聞き慣れない言葉をつぶやきながら、跪いて額を地面につけている。
「彼は何をしているのかしら」
「……きっとメッカに向かって礼拝をしているのでしょう」
彼の周りだけインドみたい……
シーリアは、アリの姿を見ながら物思いにふけった。
チケットをちゃんと受け取っていたら、間違いなくインドに向かっていた。
バザールに寺院、モスク……香辛料の匂いを嗅ぎながら、きっとネイトと街を歩いていた。
その頃はまだ彼の右腕はあったはず。
えぐられたような胸の痛みに、シーリアは顔をゆがめた。
しばらくして、アリがこちらに歩いてきた。
「レディ・シーリア、ミセス・ケインズ」
こんなふうに気軽に従者に話しかけられたことはなかった。
どうしていいか分からず、シーリアはミセス・ケインズにすり寄った。
剪定を終えた庭師が、横目でアリを見ながら遠ざかっていく。
「あなたのお邪魔をしてしまったのではありませんか?」
ミセス・ケインズがさらりと尋ねた。
アリがアーチ型の眉を高く上げて、エキゾチックな笑みを浮かべる。
「ええと、ナサニエルお兄様……じゃなかったわ、ネイトは?」
シーリアはアリに尋ねた。
「大尉は一人になりたいと、馬に乗って行かれました」
「馬?」
「ええ」
「そう……今も馬に乗れるのね」
しんみりとつぶやいて、指先を唇に当てる。
良かった……
「ええ、もちろんです。ですがレディ・シーリア、大尉の前で決してそのようなことを言ってはいけませんよ」
はっとして顔を上げた。
「大尉は誇り高き人ですから」
どこか得意げにアリは言った。
「……そう、そうね。その通りだわ」
「そして時折、謎の自信家でもあります」
アリのおどけた顔。三人で笑った。
インドで、ナサニエルとアリが苦楽を共にする姿が自然と目に浮かんだ。
アリがシーリアの婚約指輪をじっと見つめる。
感情豊かな眉毛が、ひどく下がった。
「レディ・シーリア……大尉のために、それを外すことはできないのですか?」
シーリアはしばらく言葉が出なかった。
ゆっくりと二歩、前に進む。
「アリ、それは……どういう意味?」
「アリさん、無責任なことを言わないでください」
ミセス・ケインズが少し強い口調で言った。
「シーリア!」
大きな声に、さっと振り向いた。
フィリップが、芝生の向こうから歩いてくる。
シーリアは、駆け寄るフィリップから目をそらした。
体が隅々まで冷えていく。
「フィリップ、どうしたの……来るなんて、聞いてなかった」
フィリップが彼女の両肩を乱暴につかんだ。
「シーリア、君も聞いただろう、式の延期の話を」
いきり立つフィリップに、彼女はぎこちなく一度頷いた。
「フォーチェスター卿に従う必要なんてない。今から僕の屋敷に行こう。あいつはおかしい。決闘なんか持ち出したんだぞ!あんな男のそばにいてはだめだ」
シーリアは身をよじって、フィリップから離れた。
決闘?ネイトが?
そわそわと腕を撫でた。
「わ、私は彼の指示に従うわ。彼は後見人だもの……」
「……シーリア?」
フィリップが眉間に皺を寄せた。
探るように彼が見ている。
指先、足の小さな動き、視線の揺れまで自由にできない。
「け、結婚もせずにあなたのところに行けば、酷い醜聞になるでしょう?」
小声で悪態をつく彼から、シーリアはさりげなく一歩離れた。
フィリップが髪を手で荒くすく。
「君の財産が惜しくなったんだろう……やつの後見人の資格を奪えないか、帰りしだい弁護士に相談して──」
「どうしてそんなに急ぐの」
シーリアは甲高く彼の言葉を遮った。
フィリップが無表情に目を細めた。
「そんなにお金が欲しいの?」
言った途端にシーリアは口を手でおさえた。
フィリップは呆然と固まっている。
私はなんて最低な人間なの……
「──君を、愛しているからだ。そんなの分かりきったことだろう」
少し震えた声で、フィリップは答えた。
「……父と僕の考えは違うんだ」
シーリアは顔を両手で覆った。
お金目当てだったら、どれだけ良かったか……
「シーリア……」
彼の手が再び肩に触れた。シーリアの全身がそれを拒絶している。
フィリップの妻となった自分が想像できない。
どうしてもできない。
私は────
「大尉……」
アリの声と、蹄の音が聞こえた。
予想通りだった。
クロッカーからその報せを聞いた時、ナサニエルは戦地に展開するときの、全身に血の巡る感覚を思い出した。
ドローイング・ルームに入った。
父親のほうはソファでふんぞり返り、息子はその横で前のめりになりながら脚をゆすっている。
「ヘイズ卿、ミスター・ヘイズ」
ずんぐりとした体のヘイズ卿。片手に手紙を持ち、ナサニエルを睨みつけながら立ち上がった。
「フォーチェスター卿、昨日届いたこの驚くべき手紙について、説明していただけますかな?」
ナサニエルは肘掛け椅子に深く座り、脚をゆったりと組んだ。
「書いてある通り。来月の挙式は中止。牧師にもそう伝えてある」
ヘイズ卿は丸めた手紙を絨毯に叩きつけた。
「今まで何度延期したと思っているんだ!あまりに横暴だ!それも、延期期間も未定だと!?」
「父の死を悼む時間を取るのは当然でしょう」
「あなた方は遠い親戚に過ぎないではないか!」
「父は彼女を実の家族のように思っていた。シーリアもそのはずだ」
「あれで?」
フィリップがボソッとつぶやく。
居心地の悪さを感じて、ナサニエルは脚を組み替えた。
しばらく肩で息をしたあと、ヘイズ卿が口を開いた。
「ははあ、わかったぞ、フォーチェスター卿。親子共々彼女の金が惜しくなったのだな」
ナサニエルは、思ってもみない言葉にまばたきをした。
……なるほど、そういうことか。
「ヘイズ卿。あなたが目の色を変えるほどだ。彼女の父の遺産は、相当な額なのでしょうね」
ナサニエルはフィリップをじっと見つめた。
フィリップの顔がみるみると紅潮する。
「ますますこの結婚について、考え直さなければなりませんね。落ちぶれた家に嫁がせても、彼女のためにはならない」
「……その言葉……たとえ貴方といえども、許せませんぞ」
ヘイズ卿がナサニエルを指差した。指先が震えている。
ナサニエルは立ち上がり、頭一つ背の低いヘイズ卿を顎を突きだして見下ろした。
「決闘でもしますか?構いませんよ」
ヘイズ卿が腕を胸の前に構えながら後ずさりをした。
「い、今どき、決闘など……と、とにかく、レディ・シーリアはフィリップと結婚する。延期は、長くても一カ月だ」
「……期間は私が決める」
声に脅しを込めた。
ヘイズ卿が素早く目をそらした。
この結婚を壊す。そのことだけは決めていた。
ナサニエルはゆっくりと椅子に座り、背もたれに寄りかかった。
少し熱くなりすぎた。こういう小物は淡々と相手するに限る。
「こ、こちらは訴訟を起こしても構わないんだ!フィリップ、行くぞ!」
ヘイズ卿が出ていったあと、フィリップがふらりとしながら、やけに静かに立ち上がった。
「……僕は金目当てじゃない」
冷めた目でフィリップを見ながら、肩をすくめた。
「……シーリアが憧れていたあなたはもういない」
ナサニエルは肘掛けを強く握りしめた。
フィリップが口の端を、片方だけ上げた。
「あなたが腕を失ったと知ったあと、シーリアは僕を選んだんだ」
フィリップの挑発的な薄青い目。
少なくとも、シーリアは途中までは私に本気だったようだ。
ナサニエルは短く笑った。
身体の感覚がなくなっていくのを感じた。
庭師がイチイの木を剪定している。
シーリアは屋敷にこもっている気分になれず、ミセス・ケインズを誘い庭園を歩いた。
『ナサニエルは、私を許さんだろう……』
最後に会った時のおじの言葉。
手紙とチケットを隠したことも、あの言葉の中には含まれていたのだろうか。
散策中、ミセス・ケインズが立ち止まり、佇みながらどこかを見つめていた。
芝生の中に生える、杉の木。
その木陰にアリがいた。
小さな絨毯の上で聞き慣れない言葉をつぶやきながら、跪いて額を地面につけている。
「彼は何をしているのかしら」
「……きっとメッカに向かって礼拝をしているのでしょう」
彼の周りだけインドみたい……
シーリアは、アリの姿を見ながら物思いにふけった。
チケットをちゃんと受け取っていたら、間違いなくインドに向かっていた。
バザールに寺院、モスク……香辛料の匂いを嗅ぎながら、きっとネイトと街を歩いていた。
その頃はまだ彼の右腕はあったはず。
えぐられたような胸の痛みに、シーリアは顔をゆがめた。
しばらくして、アリがこちらに歩いてきた。
「レディ・シーリア、ミセス・ケインズ」
こんなふうに気軽に従者に話しかけられたことはなかった。
どうしていいか分からず、シーリアはミセス・ケインズにすり寄った。
剪定を終えた庭師が、横目でアリを見ながら遠ざかっていく。
「あなたのお邪魔をしてしまったのではありませんか?」
ミセス・ケインズがさらりと尋ねた。
アリがアーチ型の眉を高く上げて、エキゾチックな笑みを浮かべる。
「ええと、ナサニエルお兄様……じゃなかったわ、ネイトは?」
シーリアはアリに尋ねた。
「大尉は一人になりたいと、馬に乗って行かれました」
「馬?」
「ええ」
「そう……今も馬に乗れるのね」
しんみりとつぶやいて、指先を唇に当てる。
良かった……
「ええ、もちろんです。ですがレディ・シーリア、大尉の前で決してそのようなことを言ってはいけませんよ」
はっとして顔を上げた。
「大尉は誇り高き人ですから」
どこか得意げにアリは言った。
「……そう、そうね。その通りだわ」
「そして時折、謎の自信家でもあります」
アリのおどけた顔。三人で笑った。
インドで、ナサニエルとアリが苦楽を共にする姿が自然と目に浮かんだ。
アリがシーリアの婚約指輪をじっと見つめる。
感情豊かな眉毛が、ひどく下がった。
「レディ・シーリア……大尉のために、それを外すことはできないのですか?」
シーリアはしばらく言葉が出なかった。
ゆっくりと二歩、前に進む。
「アリ、それは……どういう意味?」
「アリさん、無責任なことを言わないでください」
ミセス・ケインズが少し強い口調で言った。
「シーリア!」
大きな声に、さっと振り向いた。
フィリップが、芝生の向こうから歩いてくる。
シーリアは、駆け寄るフィリップから目をそらした。
体が隅々まで冷えていく。
「フィリップ、どうしたの……来るなんて、聞いてなかった」
フィリップが彼女の両肩を乱暴につかんだ。
「シーリア、君も聞いただろう、式の延期の話を」
いきり立つフィリップに、彼女はぎこちなく一度頷いた。
「フォーチェスター卿に従う必要なんてない。今から僕の屋敷に行こう。あいつはおかしい。決闘なんか持ち出したんだぞ!あんな男のそばにいてはだめだ」
シーリアは身をよじって、フィリップから離れた。
決闘?ネイトが?
そわそわと腕を撫でた。
「わ、私は彼の指示に従うわ。彼は後見人だもの……」
「……シーリア?」
フィリップが眉間に皺を寄せた。
探るように彼が見ている。
指先、足の小さな動き、視線の揺れまで自由にできない。
「け、結婚もせずにあなたのところに行けば、酷い醜聞になるでしょう?」
小声で悪態をつく彼から、シーリアはさりげなく一歩離れた。
フィリップが髪を手で荒くすく。
「君の財産が惜しくなったんだろう……やつの後見人の資格を奪えないか、帰りしだい弁護士に相談して──」
「どうしてそんなに急ぐの」
シーリアは甲高く彼の言葉を遮った。
フィリップが無表情に目を細めた。
「そんなにお金が欲しいの?」
言った途端にシーリアは口を手でおさえた。
フィリップは呆然と固まっている。
私はなんて最低な人間なの……
「──君を、愛しているからだ。そんなの分かりきったことだろう」
少し震えた声で、フィリップは答えた。
「……父と僕の考えは違うんだ」
シーリアは顔を両手で覆った。
お金目当てだったら、どれだけ良かったか……
「シーリア……」
彼の手が再び肩に触れた。シーリアの全身がそれを拒絶している。
フィリップの妻となった自分が想像できない。
どうしてもできない。
私は────
「大尉……」
アリの声と、蹄の音が聞こえた。