幼すぎた君との別れから

18話

 フィリップと一緒にいるシーリアが目に入った途端、視界に斑点が出るほど頭に血が上った。

 それから急に怖くなった。

 ナサニエルは二人をじっと目で捉えながら、あえてゆっくりと馬を進ませた。

 馬を止め、鞍を掴み地面に下りる。
 アリに手綱を渡し、拳を握って二人に近づいた。

「ヘイズ……」
 
 顔を引きつらせながら、フィリップ・ヘイズが笑った。

「……元大尉、その腕で馬に乗れるとは思いませんでしたよ」

 シーリアは目を伏せたまま黙っている。
 何ともフィリップ・ヘイズに従順じゃないか。

 ナサニエルは喉から唸り声をあげた。

「シーリア……こちらに来なさい」

 目を見開いたシーリア。おとなしく歩いてきた。
 シーリアの細い手首を、ナサニエルはすぐさま掴んだ。

「シーリアに触れるな!」

「ミスター・ヘイズ。用件は済んだはずだ」

 シーリアの手首を更に強くつかみ、足早に屋敷に向かった。


「ネイト!待って……」
 シーリアが息を切らしている。

 数え切れないほど名前を呼ばれたあと、ナサニエルは立ち止まり、シーリアに振り向いた。

 悪気のない顔で見返してくる彼女。紅潮した頬と大きな緑色の瞳の煌めきが、ナサニエルの腹の奥にどす黒い火をつけた。

 永遠に屋敷に閉じ込めてやろうか──

 ナサニエルは鋭く空気を吸った。

 遠くで離せと喚くフィリップ。なだめるアリの声。他人事のように遠くに聞こえた。

 離れの温室が目に入った。
 ああ、あの温室だ──五年ぶりだった。

 ナサニエルは歯ぎしりをして、そこに進路をかえた。

 美しい思い出を、シーリアと破壊し尽くしたかった。



 緑、花、苔──柑橘……
 久しぶりに嗅ぐ、温室の空気──

 夢を見ているような気分だった。

 ナサニエルは通路を進み、ドームに向かった。
 シーリアは抗うことなく大人しくついてくる。

 柔らかく光の差し込むドーム。
 アイアンの丸テーブルはあの頃のまま。ラタンの椅子は違うデザインのものに入れ替えられている。
 
 ……腐ったのだろう。

 少し頭が現実に戻った。

 ナサニエルは枝を張るレモンの木の前で立ち止まり、握りしめていた彼女の手首を離した。

 手首をさするシーリアのとなり──若木だったレモンの木は大きく育ち、沢山の実をつけている。

 ナサニエルは手で両目を覆い、深呼吸を繰り返した。
 レモンの木の後ろに隠れていた、かつての彼女を思い出した。


「ネイト……?」

 ナサニエルは後退りをした。

「……あの時、君と私の間には……何かの絆があると思っていた」

 シーリアがぴたりと身動きを止めた。

 ドレスのスカートを両手で鷲掴みにしながら、彼女は小さくうなずく。

 ナサニエルは目眩を覚えた。

「ならばどうして……どうしてヘイズを選んだ」

 鼻と口を両手で隠して黙り込むシーリアを、ナサニエルは冷ややかな目で見据えた。

 シーリアが力なく目をそらす。

 そうだ、少しは恥じればいい……

「答えられないのか……まあ、そうだろうな」

 答えられるわけがない。

 あるはずのない右腕に力がこもった。
 
 ナサニエルは急に耐えきれなくなり、地面に向かって獣のように吠えた。

「ネ、ネイト……」

「……その程度の想いだったのか」

 シーリアが、一瞬よろめいた。

「違う……」

 ひたすらかぶりを振るシーリア。怒っているようにさえ見えた。
 
 嘘が上手くなった……

 ナサニエルは急激な虚無感に襲われた。


「腕のない男は嫌だと言うんだ……そうすれば、君を自由にしてやる。どこへでも行けばいい」

 シーリアがのけぞりながら、苦しそうなあえぎ声をもらした。

 次の瞬間、ナサニエルはシーリアに抱きしめられていた。


 
 視界が次第にぼやけた。

 ……よくも、こんな真似を。

 シーリアを突き放そうと、ナサニエルは彼女の肩に左手を置いた。

 シーリアがしがみつく。彼女の息で肌が湿った。

 体が言うことを聞かない。

 手が彼女の背中の柔らかい曲線をたどりながら、ゆっくりと滑りおりた。

──そうだ……初めからこうするつもりだったのではないのか?

 自分の魂胆、弱さに呆然としながら、ナサニエルは少しずつ頭をかがめた。

 彼女の首元から熱を感じる。

 引き寄せられるままに、黒いハイネックのすき間にのぞく白いうなじに鼻をこすりつけた。

 シーリアが小さく声を上げて身震いをした。
 素早く頭を上げて彼女の反応を確かめる。

 目が輝き、開いた唇が艶めいていた。

「あれから……キスは?」
 ナサニエルはかすれた声で自虐的に尋ねた。



 ナサニエルの問いにシーリアは息を止めた。
 フィリップに────何度かキスされそうになったことはある。その都度、何とか避けてきた。

 首を横に振った。

 そのとたんに、まとめた髪にナサニエルの指が差し込まれる。

 じっと唇を見つめられて、すべての感覚がそこに集まった。

 彼が私を求めている。
 シーリアの心は狂喜に弾け散ってしまいそうだった。

 唇が触れた。
 夢でするよりずっと熱いキス。

 うそ……そんな……
 
 未知のキスに体が硬直して、次第に溶けた。
 立っていられずに、たくましい胸にすがりつく。ナサニエルの片腕が体にきつく巻きついた。
 
 シーリアは知らず知らずにうめき声を漏らした。


 彼が音を立てて、いきなり唇を離す。

 シーリアはわななきながら、後ずさりするナサニエルを見つめた。

 あの時と同じように驚いた顔をして、彼は身じろぎもしなくなった。

 シーリアは罪深いキスに戸惑いながら、ひりひりとする唇にそっと触れた。
 濡れていて、酷くたじろいだ。

 なんとか声を絞り出した。
「ネイト……」

 ナサニエルが口元を引きつらせて、彼女の手を見ている。指輪のあるところを。

「ヘイズも哀れだな。身持ちの悪い婚約者を持って」
 ナサニエルが少し上ずった声で言った。

 彼が一人出口に向かう。

 ドアの閉まる音。

 足がガクガクと激しく震えている。シーリアはその場にしゃがみ込んだ。
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