幼すぎた君との別れから

19話

 午後八時。
 ドローイング・ルームでミセス・ケインズと夕食の準備が整うのを待った。

 もうすぐ彼もここに来るはず。

 シーリアは顔を両手で覆って、ため息をついた。
 どんな表情をすればいいのか分からない。

 近くの椅子に座るミセス・ケインズを盗み見た。
 目が合った。ぎこちなくそらされてしまった。

 今日、ネイトと私が、普通の後見人と被後見人に見えなかったことは分かっている。
 顔が熱くなった。

「レディ・シーリア、ミセス・ケインズ。ご夕食の準備が整いました」
 クロッカーがやってきた。

 シーリアは立ち上がり、指先をいじりながら視線を泳がせた。

「……でも、ネ……伯爵は?」

「旦那様でしたら、しばらく留守にされると伺っております」
 
 ──留守?

 シーリアは椅子に崩れ落ちた。 

「何かお急ぎのご要件がございますか?」

 焦点の合わない目で、絨毯の幾何学模様をじっと見つめた。

 キスのせいなの……?

「どこに行ったの?」

「申し訳ございません、レディ・シーリア……旦那様の詳しい行き先は私も伺っていないのです」

 はっと顔を上げた。

「そんなわけないわ」
 執事が行き先を知らないはずがない。

「彼に口止めされたのね?」
 自分のものとは思えない、きつい声が出る。

 クロッカーは怪訝そうに目を細めたあと、すぐに顔から表情を消した。

「もし、何かお困りごとがおありでしたら、私めになんなりとお申し付けください」

 いつものように単調な声でクロッカーは言った。


 
 犬舎の一番奥の区画。ドレイクがマットの上で日に当たりながら、うずくまっている。

「ドレイク」

 何度かそっと呼びかけると、ドレイクは静かに頭を上げた。

 すこし耳が遠くなってしまった。
 もう彼と狩りに行くのは無理だろう。

「ネイトに……会った?」

 目を見開いたドレイク。ゆっくりと立ち上がり、耳を立てて落ち着きなくその場をうろうろとし始めた。

「まだなのね……」

 ドレイクはずっと、こんなにも待ちわびてきたのに。

 ナサニエルの匂いを探すドレイクの鼻を、シーリアは柵ごしに優しく撫でた。

 彼が姿を消して、五日が過ぎていた。



 ドレイクを連れ出して、犬舎の外に出た。犬舎の中庭から、生き生きとした犬の鳴き声や駆ける足音が聞こえる。
 ドレイクの子供や孫たちだろう。

 シーリアはドレイクに合わせて、ゆっくりと進んだ。

 どこに行こう。

 湖まで歩いて行くのは、今のドレイクには厳しい。

 辺りを見回した。
 温室が目に入る。
 
 喉に感じるつかえ。音をたてて飲み込んだ。

 ドレイクが地面の匂いを嗅ぎながら、そこに向かった。

「ドレイク!だめよ」

 ドレイクが振り向き、切なそうに鳴いた。

 もしかして……ネイトが帰ってきているのだろうか……



 温室のドアを開けると、暖かい部屋のなかにドレイクがすっと入って行った。

 誰もいない。

 レモンの木の下でドレイクがぴたりと止まり、ゆっくりとうずくまる。

 シーリアはその様子を少し離れて見守った。

 うずきだした唇。思わず指の腹でたどり、目を閉じた。

 私のふしだらな一面を知って、彼は幻滅したに違いない。

 我慢できずにすすり泣きが漏れた。



 赤い夕暮れ。

 ヘイズ家の屋敷の影が、肌寒い庭園に長く歪に伸びている。

 シーリアは黒い手袋をつけた指先をいじりながら、逆光になった屋敷を見つめた。

 先触れもなく、衝動的にここまで来てしまった。

 

 テラスの階段をのぼり、玄関ベルを鳴らして数歩下がる。

 ドアを開けたヘイズ家の執事が、驚いた顔をしていた。

 
「……シーリア」
 フィリップが体を斜めに構えながら、静かに階段をおりてきた。

「……驚いたよ……急に来るなんて、君らしくないね」
 
 シーリアは視線を下げて無意識に自分の顔を引っ掻いた。
 
「あ、あなたに、聞いてほしい話があるの……」

 視線の先のフィリップの足が、凍りついたように動かなくなった。



 夕日の差さない薄闇の廊下。壁の燭台には、まだ灯りがともされていない。

「……あの男は?ここに来たことを知っているのか?」

 並んで歩くフィリップが、前を見ながら聞いた。

「いいえ。今は屋敷を空けているから」

「どこに?」

 シーリアは無関心を装って、肩をすくめた。
 フィリップがゆがんだ笑みを浮かべた。

「どうせロンドンの昔なじみの女の所にでも、いるんだろう」

 シーリアは目の前が一瞬ぐにゃりと揺らいだような気がした。

 廊下の向こうの暗がりから、レディ・ヘイズが姿を現した。

「レディ・シーリア。フィリップに話があるそうですね。私と夫も……同席していいかしら?」



 ドローイング・ルームに入ると、座っていたフィリップの父が目線を上げた。
 レディ・ヘイズがヘイズ卿の斜め後ろの椅子に座った。
 壁際にジョージまでいる。

 フィリップが口を開いた。
「ジョージ、廊下の灯りをつけるように言ってきてくれ」
 
 ヘイズ卿が眉間に皺を寄せる。
 ジョージはうなずき、逃げるように部屋を出ていった。

 煙を吐きながら、ヘイズ卿はゆっくりと葉巻をガラスの灰皿に預けた。

「レディ・シーリア。こんな遅くにおいでになるとは驚いた……もちろんいい知らせを持ってきてくれたんだろうね?」

「父さん……」

「体調不良、体調不良、喪中……式の延期は四度目か……?フォーチェスターの言いなりになるばかりではなく、君にも我が家の一員として努力してもらいたいものだ」

 答えようとしたら、なぜか急に乾いた咳が出た。

「シーリア、少し顔色が悪い。疲れがたまっているんだろう。話は今度にしたほうがいい」

 引きつった顔のフィリップが、早口で言った。

 私が何を言おうとしているのか、もう分かっているのね……

 シーリアはお腹の前で両手を握りしめ、無理やり声を出した。

「あの……あの、私たちの婚約を……白紙にしてもらいたいんです……今日はそのお願いにまいりました」

 静まり返った部屋。
 コチコチと、秒針の音だけが聞こえる。

 恐る恐る顔を上げると、ヘイズ夫人が立ちすくみ、顎を震わせていた。

 後ろのフィリップを見ることはできなかった。

 ヘイズ卿がいきなり立ち上がり、近づく。

 立ちすくむ彼女の横を通り過ぎ、ヘイズ卿はフィリップの頬を強く叩いた。

「言い聞かせておけ」

「……はい」

 感情のこもらない声で、フィリップが答えた。
< 19 / 46 >

この作品をシェア

pagetop