幼すぎた君との別れから
20話
フィリップの頬に赤い手の跡がついていた。
目にした光景が信じられなかった。
ヘイズ卿が出ていくと、夫人も慌ててその後に付いて出ていった。
灰皿の上で葉巻の火がまだくすぶっている。
「シーリア」
シーリアはびくりと身じろぎをした。彼女を一瞥すると、フィリップは窓辺に向かった。
「……どうしてこんなことを言い出したのか、理由は聞かない」
「フィリップ……ごめんなさい。あなたには悪いことを──」
フィリップは腕を固く組んで作り笑いをした。
「謝ることはないよ。いっときの気の迷いだ」
シーリアは首を何度も横に振った。
フィリップがシーリアを見ながら苦々しく目を細める。
「フィリップ……」
「僕らの婚約はもう大々的に発表してある。婚約解消がどれだけ醜聞になるか、分かるだろう?」
彼は眉間を揉み、ため息をついた。
「君が理由となれば、君は社交界から追放されるだろう」
さも、おぞましいことのように、フィリップが言う。
シーリアは胸に両手をあて、頭を下げた。
フィリップには悪いことをした。
彼は知らずに巻き込まれた被害者だった。
「そんな卑屈な真似はやめてくれ。今日はもう……君と話すつもりはない」
はっと顔を上げた。
「帰ってくれ」
シーリアは激しくかぶりを振った。
「帰ってくれ!結婚をやめるつもりはない!」
「ネイトとキスをしたの!」
──そう言ったあと、全身から汗が吹き出した。
こんなことまで言うつもりは無かったのに。
フィリップの大きく開いた目が血走っている。
開いた手で顔を覆い、彼はシーリアに背を向けた。
「聞かなかったことにする」
玄関を出た。日が落ちていた。
揺れる馬車。シーリアは過ぎていく民家の灯りを、窓越しにぼんやりと見つめた。
体の力がまるで入らない。
なんて無力なんだろう。フィリップを傷つけただけで終わった。
フォーチェスター・ホールの玄関前、馬車を降りるとクロッカーが彼女を出迎えた。
「……彼はどこにいるの?」
ぼそぼそとクロッカーに尋ねた。
「旦那様のことでしたら、以前に申し上げた通りでございます。レディ・シーリア」
通り一遍にクロッカーは答えた。
シーリアは両肘を抱えながら、クロッカーの横を通り過ぎた。
「外出されていたそうですね?呼んでくだされば良かったのに」
ダイニング・ルーム。テーブルの向こうから、ミセス・ケインズが尋ねてきた。
シーリアは手に持つグラスを見つめた。そこに映りこむ自分。ひどい顔をしている。
乾ききった唇を舐めた。
「あの……フィリップのところに行っていたの……」
「……そ、そうですか」
ミセス・ケインズがあわてて横を向き、シェリー酒を飲んだ。そのあとすぐ流行りの小説の話を始めた。
五本立ての燭台の上で、蝋燭の炎がゆらゆらと揺れている。
シーリアの口から、か細いため息が漏れた。
ミセス・ケインズに話を聞いてほしかった。
ミセス・ケインズが婚約解消に賛成してくれるとは思えないけれど。
二階にある自分の部屋の前に着いた時、廊下の先にあるナサニエルの部屋の方から物音がした。
シーリアは走り、彼の部屋のドアをいきなり開けた。
ワードローブの前で、メイドがポカンと固まっている。
「あの……」
「あ、ご、ごめんなさい。伯爵が帰ってきたかと……」
メイドは口をあけたまま、一度頷いた。
ばかね、余計に怪しまれるわ。
火照る顔を手で隠した。
指の間からメイドを覗き見る。ナサニエルのものらしき大量の軍服を抱えていた。
シーリアはゆっくりと手を下ろした。
「それはどうするの?」
「旦那様から処分するようにと言いつかっております」
「そう……」
メイドはお辞儀をすると、服を持ってドアに向かった。
「ま、待って。チャリティで寄付できるかもしれない。その、よければもらってもいいかしら?」
あわててシーリアは尋ねた。
入浴を済ませてナイトドレスに着替えた。
シーリアは手伝ってくれたメイドを部屋から下がらせてベッドに座った。
毛布をめくる。
何となくそこに隠しておいた、ナサニエルの軍服。
一着を取り、膝の上に広げてみた。よく着ていた黒い紐飾りのついたショートジャケット。一番彼らしい服だった。
それを綺麗にたたみ直して服の山の隣に置くと、もう一着を手に取る。
手に少し力が籠もった。
あの時着てた夜会服。濃紺のウエスト丈のジャケット。豪華な金色の刺繍を眺めながら指でたどる。
服の山の中にスカーレットのウエストコートも見えた。
唇を震わせながら、ジャケットに顔をうずめる。
あのときキスをしなければ、彼の右腕は今もあったのだろうか。
顔をあげてウエストコートを取り、ジャケットとともに抱きしめた。
視界がだんだん狭くなり、時間の感覚がなくなった。
廊下から足音が聞こえた。メイドの誰かだろう。念のため天蓋のカーテンを閉めた。
シーリアはカーキ色の軍服を手に取った。どこかで見覚えがある。
あの時の夢だと気づいて息を飲んだ。
右袖は綺麗に残っている。傷を負った時のものは捨てたのだろうか……
カーキ色の軍服は、ナサニエルの香りと、気のせいかわずかに火薬のにおいがした。
色褪せて擦り切れていた。
シーリアは目を伏せながらそれに手を通した。
ぶかぶかだった。
これを着て、彼は戦ってきたのだろうか。
ベッドにゆっくりと横になり、体に両腕をぴたりと巻き付ける。
軍服の香りが、恐ろしくて、落ち着く……
彼の腕はどこにいったんだろう……
久しぶりに顔を出したロンドンのクラブ。
シャンデリアの灯りの下、白いクロスのかけられた四角いテーブルが不規則に置かれている。
向かいに座るタルボットはテーブルに上半身を預け、病んだ目つきでウイスキーを飲み続けていた。
「なあ、レイシー……腕と足と、どちらがましなんだ?」
ろれつの回らない口調で、タルボットが言った。
戦地で片足を無くして、士官学校時代の不遜なタルボットはどこかに消えてしまった。
ナサニエルは脚を組み、体を後ろに反らせた。
自分もこんなに惨めに見えているとしたら──ぞっとする。
シェリダンとハリソンがビリヤードルームから出てきた。
真っ赤な軍服──勲章のついたメス・ジャケットを着たシェリダン。アフガン戦争の真の英雄。
自信のあるなしで、人の見た目はこんなにも変わるものなのか……
「レイシー、タルボット。久しぶりに劇場に行かないか?新しい店に可愛いダンサーがたくさんいるらしいぞ」
タルボットが松葉杖を取り、不自由そうに立ち上がった。
「デ・レイシー!」
シェリダンに急かされて、ナサニエルものろのろと立ち上がった。
目的は踊り子達との女遊び。誰もショーに興味はない。
街灯に照らされた、霧の立ち込める夜の街並み。
クラブの前につけられた馬車。乗り込む友人達の目をかいくぐって、ナサニエルは細い路地に姿を消した。
最後に女を抱いたのはいつだろう。
あのクリスマスの前だろうか。
相手のこともうろ覚えだった。
ドローイング・ルームの窓から見える、ムーア伯爵の巨大なカントリー・ハウス。
アンブローズ卿の両親の屋敷。
「数百年前は要塞だったのよ。夕食はあちらでとりましょう。お義父様とお義母様が是非にとおっしゃってたわ」
フローレンスが言った。
なかなか見事な風景だった。
打算的なフローレンスが選んだ結婚相手だけある。
しみじみとフローレンスを見つめると、妹は紅茶を飲みながら顔をしかめた。
「ねえお兄様、ところで何をしにはるばるここまでやって来たの?」
「……妹を訪ねるのに、理由がいるのかい?」
「……そういえば、シーリアの結婚を延期したそうね?」
ナサニエルは口をつぐみ、窓にもたれながら広い部屋の中を見回した。何処かフランスを思わせる豪華な調度品の数々。壁を埋め尽くすほどの油絵。とても別邸とは思えない。
「ずいぶんフローレンスに贅沢をさせてくれているようですね」
フローレンスの隣に座るアンブローズ卿が笑いながら肩をすくめた。
「彼女の言いなりになっているだけですよ。僕が結婚生活で学んだ、うまくやるコツです」
「なるほど……」
乳母に連れられ、フローレンスの子供たちがやってきた。
たしか、三歳のアーサー、一歳のクラリス。
「伯父様にご挨拶なさい」
乳母に抱かれ指をくわえたクラリスは、ナサニエルを見ただけで泣き出した。
「もう、お兄様、そんな怖い顔やめて。子供たちが怯えるわ」
怖い顔などしたつもりはなかった。
アーサーが前のめりに、ゆっくりと近づいてきた。腕のないナサニエルの右袖を見ながら。
「それどーなってるの?みせて?」
「アーサー!」
アンブローズ卿が声を荒げた。
無邪気なだけだと分かっていても、ナサニエルのこめかみはぴくぴくと痙攣した。
アーサーを見下ろしながら、舌打ちをする。
アーサーが唇を噛みながら泣き出した。
「お兄様!泣かせないでよ!」
シーリアは初めて会ったとき、にこにこと笑っていたのに。
何なんだこの違いは。
二人分の泣き声でやかましいドローイング・ルーム。
歓迎の印に、すずらんとローズマリーの小さな花束まで手渡してくれた十二歳のシーリアを思い出しながら、ナサニエルはささくれた心を癒やした。
ふいに引っかかりを感じて、眉をひそめた。
あの時のシーリアは明るすぎた。父親を亡くしたばかりにしては。
……子供ながら無理をしていたんだな。
アーサーの泣き声が復讐のごとく大きくなった。
ナサニエルは額に手を当て、立ち尽くした。
「その、……すまない」
「いつものことですよ」
アンブローズ卿がクラリスを、フローレンスがアーサーを抱いてあやしている。
五年の歳月。すっかり母親になった妹。
ナサニエルの頭の中に子供を抱くシーリアの姿が浮かんだ。
上の空でフロックコートの襟を指先でなぞる。
シーリアもいつか母親になる。
──その子供の父親は……?
鋭く息を吸った。
急に居ても立ってもいられない気分になった。
目にした光景が信じられなかった。
ヘイズ卿が出ていくと、夫人も慌ててその後に付いて出ていった。
灰皿の上で葉巻の火がまだくすぶっている。
「シーリア」
シーリアはびくりと身じろぎをした。彼女を一瞥すると、フィリップは窓辺に向かった。
「……どうしてこんなことを言い出したのか、理由は聞かない」
「フィリップ……ごめんなさい。あなたには悪いことを──」
フィリップは腕を固く組んで作り笑いをした。
「謝ることはないよ。いっときの気の迷いだ」
シーリアは首を何度も横に振った。
フィリップがシーリアを見ながら苦々しく目を細める。
「フィリップ……」
「僕らの婚約はもう大々的に発表してある。婚約解消がどれだけ醜聞になるか、分かるだろう?」
彼は眉間を揉み、ため息をついた。
「君が理由となれば、君は社交界から追放されるだろう」
さも、おぞましいことのように、フィリップが言う。
シーリアは胸に両手をあて、頭を下げた。
フィリップには悪いことをした。
彼は知らずに巻き込まれた被害者だった。
「そんな卑屈な真似はやめてくれ。今日はもう……君と話すつもりはない」
はっと顔を上げた。
「帰ってくれ」
シーリアは激しくかぶりを振った。
「帰ってくれ!結婚をやめるつもりはない!」
「ネイトとキスをしたの!」
──そう言ったあと、全身から汗が吹き出した。
こんなことまで言うつもりは無かったのに。
フィリップの大きく開いた目が血走っている。
開いた手で顔を覆い、彼はシーリアに背を向けた。
「聞かなかったことにする」
玄関を出た。日が落ちていた。
揺れる馬車。シーリアは過ぎていく民家の灯りを、窓越しにぼんやりと見つめた。
体の力がまるで入らない。
なんて無力なんだろう。フィリップを傷つけただけで終わった。
フォーチェスター・ホールの玄関前、馬車を降りるとクロッカーが彼女を出迎えた。
「……彼はどこにいるの?」
ぼそぼそとクロッカーに尋ねた。
「旦那様のことでしたら、以前に申し上げた通りでございます。レディ・シーリア」
通り一遍にクロッカーは答えた。
シーリアは両肘を抱えながら、クロッカーの横を通り過ぎた。
「外出されていたそうですね?呼んでくだされば良かったのに」
ダイニング・ルーム。テーブルの向こうから、ミセス・ケインズが尋ねてきた。
シーリアは手に持つグラスを見つめた。そこに映りこむ自分。ひどい顔をしている。
乾ききった唇を舐めた。
「あの……フィリップのところに行っていたの……」
「……そ、そうですか」
ミセス・ケインズがあわてて横を向き、シェリー酒を飲んだ。そのあとすぐ流行りの小説の話を始めた。
五本立ての燭台の上で、蝋燭の炎がゆらゆらと揺れている。
シーリアの口から、か細いため息が漏れた。
ミセス・ケインズに話を聞いてほしかった。
ミセス・ケインズが婚約解消に賛成してくれるとは思えないけれど。
二階にある自分の部屋の前に着いた時、廊下の先にあるナサニエルの部屋の方から物音がした。
シーリアは走り、彼の部屋のドアをいきなり開けた。
ワードローブの前で、メイドがポカンと固まっている。
「あの……」
「あ、ご、ごめんなさい。伯爵が帰ってきたかと……」
メイドは口をあけたまま、一度頷いた。
ばかね、余計に怪しまれるわ。
火照る顔を手で隠した。
指の間からメイドを覗き見る。ナサニエルのものらしき大量の軍服を抱えていた。
シーリアはゆっくりと手を下ろした。
「それはどうするの?」
「旦那様から処分するようにと言いつかっております」
「そう……」
メイドはお辞儀をすると、服を持ってドアに向かった。
「ま、待って。チャリティで寄付できるかもしれない。その、よければもらってもいいかしら?」
あわててシーリアは尋ねた。
入浴を済ませてナイトドレスに着替えた。
シーリアは手伝ってくれたメイドを部屋から下がらせてベッドに座った。
毛布をめくる。
何となくそこに隠しておいた、ナサニエルの軍服。
一着を取り、膝の上に広げてみた。よく着ていた黒い紐飾りのついたショートジャケット。一番彼らしい服だった。
それを綺麗にたたみ直して服の山の隣に置くと、もう一着を手に取る。
手に少し力が籠もった。
あの時着てた夜会服。濃紺のウエスト丈のジャケット。豪華な金色の刺繍を眺めながら指でたどる。
服の山の中にスカーレットのウエストコートも見えた。
唇を震わせながら、ジャケットに顔をうずめる。
あのときキスをしなければ、彼の右腕は今もあったのだろうか。
顔をあげてウエストコートを取り、ジャケットとともに抱きしめた。
視界がだんだん狭くなり、時間の感覚がなくなった。
廊下から足音が聞こえた。メイドの誰かだろう。念のため天蓋のカーテンを閉めた。
シーリアはカーキ色の軍服を手に取った。どこかで見覚えがある。
あの時の夢だと気づいて息を飲んだ。
右袖は綺麗に残っている。傷を負った時のものは捨てたのだろうか……
カーキ色の軍服は、ナサニエルの香りと、気のせいかわずかに火薬のにおいがした。
色褪せて擦り切れていた。
シーリアは目を伏せながらそれに手を通した。
ぶかぶかだった。
これを着て、彼は戦ってきたのだろうか。
ベッドにゆっくりと横になり、体に両腕をぴたりと巻き付ける。
軍服の香りが、恐ろしくて、落ち着く……
彼の腕はどこにいったんだろう……
久しぶりに顔を出したロンドンのクラブ。
シャンデリアの灯りの下、白いクロスのかけられた四角いテーブルが不規則に置かれている。
向かいに座るタルボットはテーブルに上半身を預け、病んだ目つきでウイスキーを飲み続けていた。
「なあ、レイシー……腕と足と、どちらがましなんだ?」
ろれつの回らない口調で、タルボットが言った。
戦地で片足を無くして、士官学校時代の不遜なタルボットはどこかに消えてしまった。
ナサニエルは脚を組み、体を後ろに反らせた。
自分もこんなに惨めに見えているとしたら──ぞっとする。
シェリダンとハリソンがビリヤードルームから出てきた。
真っ赤な軍服──勲章のついたメス・ジャケットを着たシェリダン。アフガン戦争の真の英雄。
自信のあるなしで、人の見た目はこんなにも変わるものなのか……
「レイシー、タルボット。久しぶりに劇場に行かないか?新しい店に可愛いダンサーがたくさんいるらしいぞ」
タルボットが松葉杖を取り、不自由そうに立ち上がった。
「デ・レイシー!」
シェリダンに急かされて、ナサニエルものろのろと立ち上がった。
目的は踊り子達との女遊び。誰もショーに興味はない。
街灯に照らされた、霧の立ち込める夜の街並み。
クラブの前につけられた馬車。乗り込む友人達の目をかいくぐって、ナサニエルは細い路地に姿を消した。
最後に女を抱いたのはいつだろう。
あのクリスマスの前だろうか。
相手のこともうろ覚えだった。
ドローイング・ルームの窓から見える、ムーア伯爵の巨大なカントリー・ハウス。
アンブローズ卿の両親の屋敷。
「数百年前は要塞だったのよ。夕食はあちらでとりましょう。お義父様とお義母様が是非にとおっしゃってたわ」
フローレンスが言った。
なかなか見事な風景だった。
打算的なフローレンスが選んだ結婚相手だけある。
しみじみとフローレンスを見つめると、妹は紅茶を飲みながら顔をしかめた。
「ねえお兄様、ところで何をしにはるばるここまでやって来たの?」
「……妹を訪ねるのに、理由がいるのかい?」
「……そういえば、シーリアの結婚を延期したそうね?」
ナサニエルは口をつぐみ、窓にもたれながら広い部屋の中を見回した。何処かフランスを思わせる豪華な調度品の数々。壁を埋め尽くすほどの油絵。とても別邸とは思えない。
「ずいぶんフローレンスに贅沢をさせてくれているようですね」
フローレンスの隣に座るアンブローズ卿が笑いながら肩をすくめた。
「彼女の言いなりになっているだけですよ。僕が結婚生活で学んだ、うまくやるコツです」
「なるほど……」
乳母に連れられ、フローレンスの子供たちがやってきた。
たしか、三歳のアーサー、一歳のクラリス。
「伯父様にご挨拶なさい」
乳母に抱かれ指をくわえたクラリスは、ナサニエルを見ただけで泣き出した。
「もう、お兄様、そんな怖い顔やめて。子供たちが怯えるわ」
怖い顔などしたつもりはなかった。
アーサーが前のめりに、ゆっくりと近づいてきた。腕のないナサニエルの右袖を見ながら。
「それどーなってるの?みせて?」
「アーサー!」
アンブローズ卿が声を荒げた。
無邪気なだけだと分かっていても、ナサニエルのこめかみはぴくぴくと痙攣した。
アーサーを見下ろしながら、舌打ちをする。
アーサーが唇を噛みながら泣き出した。
「お兄様!泣かせないでよ!」
シーリアは初めて会ったとき、にこにこと笑っていたのに。
何なんだこの違いは。
二人分の泣き声でやかましいドローイング・ルーム。
歓迎の印に、すずらんとローズマリーの小さな花束まで手渡してくれた十二歳のシーリアを思い出しながら、ナサニエルはささくれた心を癒やした。
ふいに引っかかりを感じて、眉をひそめた。
あの時のシーリアは明るすぎた。父親を亡くしたばかりにしては。
……子供ながら無理をしていたんだな。
アーサーの泣き声が復讐のごとく大きくなった。
ナサニエルは額に手を当て、立ち尽くした。
「その、……すまない」
「いつものことですよ」
アンブローズ卿がクラリスを、フローレンスがアーサーを抱いてあやしている。
五年の歳月。すっかり母親になった妹。
ナサニエルの頭の中に子供を抱くシーリアの姿が浮かんだ。
上の空でフロックコートの襟を指先でなぞる。
シーリアもいつか母親になる。
──その子供の父親は……?
鋭く息を吸った。
急に居ても立ってもいられない気分になった。