幼すぎた君との別れから
3話
身支度に時間がかかってしまった。
シーリアは駆け足で、一階のビリヤードルームに向かった。
その途中にある客が集まる賑やかな図書室。中からふいにフィリップが出てきた。
「あれ、シーリア?どうしたんだい、まるで別人──」
「ごめんなさい。また後で!」
もうすぐ夜会が始まってしまう。
ビリヤードルームの前。
シーリアは立ち止まり、息を整えた。
ドアの向こうから、ボールのぶつかり合う音がする。
静かにドアノブを回し、隙間から中に入った。
シャンデリアに照らされた、緑色のビリヤード台。
キューを構えて玉を狙うナサニエルの屈んだ後ろ姿。
濃紺のピッタリとしたトラウザーズが、騎兵隊らしい逞しい脚の形を強調していた。
シーリアは急に息がしづらくなった。
ナサニエルはため息をつくと、キューを置いて艷のある黒髪をかきあげた。
天井を見上げている。
金色の縁飾りや刺繍がされた、濃紺のジャケット。丈がウエストラインまでしかなくて、とても短い。
素敵だと思った。だけどなんだか近寄りがたい。
ナサニエルの近くで伏せていたドレイクが、シーリアに気づき一度吠えた。
ナサニエルが、素早く振り向く。
彼の開いたジャケットのすき間から、びっしりと金の組み紐が縫い付けられたスカーレットのウエストコートが見えた。
「あ、あの、ええと……フローレンスが……じゃなくてその、チョコレートのお礼を…」
シーリアは支離滅裂なことしか言えない自分を心のなかで罵った。
ナサニエルは固まっている。シーリアを見ながら、口をぽかんと開けていた。
シーリアはもじもじとつま先をこすり合わせた。
似合わないだろうか。
ナサニエルがまばたきもしないで、視線をゆっくりと上下に動かす。
シーリアはアップにした髪とドレスを、白手袋をはめた手で撫でた。
背伸びした姿を、とっさに隠したくなった。
「メイドがどうしてもこれを着ろと言うものだから……」
ナサニエルが何度も咳払いをして、肩をすくめた。
「……変わったメイドもいたものだ」
「そ、そうなの……それより、き、騎兵隊の夜会服は、派手なのね」
シーリアは部屋をうろつきながら、ナサニエルをちらちらと眺めた。
長身のナサニエルの体が、いつもより際立って見える。
なんて足が長いの。
シーリアは肘を強くつかんだ。
夜会なんてなくなればいいのに。
──軽騎兵隊の将校は、遊び人ばかりだそうだよ──
フィリップの言葉が頭に蘇った。
彼が、駐屯地や近くのロンドンで、どんな暮らしをしているのか。
そういえば、まるでなにも知らない。
「君はもう部屋で寝ている時間だろう、シーリア」
ナサニエルは再びビリヤード台に向かい、ボールを突き始めた。
シーリアは唇を噛み締めた。どんなに努力しても彼は女扱いしてくれない。
いつまでもじっとしていると、ナサニエルが振り向き顔をしかめる。
「リトル・ガール……」
「そう呼ばないで!」
シーリアは思わず声を荒げた。
彼は目を丸くしている。
「……小さな可愛いシーリーは、いったいどこに行ったんだ?」
「……そんなの、も、もういない。フィ、フィリップは綺麗になったと言ってくれたわ」
ナサニエルがすっと背を伸ばして、灰色の目を冷たく細める。
背中がぞくっとした。
「ならば、あのおしゃべりな坊やのところに早く行けばいい」
シーリアは口を引き結んで足元を見つめた。
喧嘩をしにきたわけじゃないのに……
ロケットを渡すことなど、とてもできそうにない。
ドレイクが弱々しく鳴いた。
ナサニエルがキューを置いて懐中時計を確認する。
「そろそろ晩餐会の時間だ」
ナサニエルはドレイクを連れて、戸口に向かった。
「シーリア、これからは大人の社交の時間だ。早く部屋に戻りなさい」
振り返りもせずにそう言うと、ナサニエルは部屋を出ていった。
首のビロードのリボンをほどく。シーリアは重い足取りでビリヤードルームを出て、廊下を歩いた。
うつむいた視界に入った、ピカピカに磨かれた大きな革靴。
素早く顔を上げた。
第九代フォーチェスター伯爵──ナサニエルとフローレンスの父がいた。
シーリアは息を止めてカーテシーをすると、廊下の脇に寄り、道を譲った。
「そのイブニングドレスは?」
鋭い声に、ぎくりと肩を縮める。
「フローレンスのものか……」
やむを得ずこくりと頷いた。
「これから夜会があるのは知っているだろう。子供にここにいられては困る。ガヴァネスは知っているのか?」
「い、いえ……」
「早く三階に戻りなさい。君に常識外れな真似をされると、それはわが家の恥になる」
「はい……」
勇気を振り絞って、長身の伯爵をそっとうかがった。無機質な表情に耐えきれず、すぐに目をそらす。
亡くなった父の従兄弟。父だったら笑って許してくれただろうと、ふと思った。
シーリアは頭を下げたまま、伯爵の足音が遠ざかり、聞こえなくなるのを待った。
伯爵に気に入られようと取り入るのは、もうずいぶん前にやめた。
メイドを呼ぶ気分には、なれなかった。
寝室の立鏡の前。シーリアは背中に手を伸ばして何とか1つ目のボタンを外した。
ドアが、叩きつけるように開けられた。ノックもなかった。
「どういうつもり!?私に恥をかかせないで!」
バークリーの声に、シーリアは首をすくめた。
伯爵に、もう何か言われたのだ。
バークリーが目を見開いた。シーリアをじろじろと値踏みするように見て、鼻で笑う。
「まあ、あきれる……あなたは夜会に出られないのよ?」
頬がかっと熱くなった。
「わかってるわ。今から着替えるところだったの」
「あなた、自分の立場を分かってるの?伯爵にとって先代の娘は邪魔者でしかないのよ?今に寄宿学校に追い出されるわ」
ミス・バークリーが詰め寄る。
後ずさりしながら、彼女を睨み返した。
私が追い出されたら、あなたは仕事を無くすじゃない……
「寄宿学校のひもじさと体罰を、あなたも一度経験するべきでしょうね。どうも能天気すぎるようだから」
どこか自慢げにバークリーは言った。
唇の震えをこらえる。
無関心は慣れていたけれど、こんなに悪意をぶつけられるのは初めてだった。
「ナサニエル様に会いに行ったのね?……勘違いしないほうがいいわ。彼は優しいだけ。彼みたいな大人の男性が、あなたみたいな子供を相手にするわけがないでしょう?」
「……じゃあ、だれなら相手にするの?」
シーリアは顎を上げ、震える声で言い返した。
バークリーは腰に手を当てて、大きな胸を威圧的に突きだした。
バークリーのいなくなった部屋。シーリアは鏡を見ながら、強く手を握りしめた。
ナサニエルお兄様が誰かを選ぶとしても、あの女だけは嫌だ。
背中に手を回して、一つだけ外れていたままのボタンを留め直し、再びビロードのリボンを首に結んだ。
コルセットのなかのロケットが、熱を持っているように感じた。
シーリアは駆け足で、一階のビリヤードルームに向かった。
その途中にある客が集まる賑やかな図書室。中からふいにフィリップが出てきた。
「あれ、シーリア?どうしたんだい、まるで別人──」
「ごめんなさい。また後で!」
もうすぐ夜会が始まってしまう。
ビリヤードルームの前。
シーリアは立ち止まり、息を整えた。
ドアの向こうから、ボールのぶつかり合う音がする。
静かにドアノブを回し、隙間から中に入った。
シャンデリアに照らされた、緑色のビリヤード台。
キューを構えて玉を狙うナサニエルの屈んだ後ろ姿。
濃紺のピッタリとしたトラウザーズが、騎兵隊らしい逞しい脚の形を強調していた。
シーリアは急に息がしづらくなった。
ナサニエルはため息をつくと、キューを置いて艷のある黒髪をかきあげた。
天井を見上げている。
金色の縁飾りや刺繍がされた、濃紺のジャケット。丈がウエストラインまでしかなくて、とても短い。
素敵だと思った。だけどなんだか近寄りがたい。
ナサニエルの近くで伏せていたドレイクが、シーリアに気づき一度吠えた。
ナサニエルが、素早く振り向く。
彼の開いたジャケットのすき間から、びっしりと金の組み紐が縫い付けられたスカーレットのウエストコートが見えた。
「あ、あの、ええと……フローレンスが……じゃなくてその、チョコレートのお礼を…」
シーリアは支離滅裂なことしか言えない自分を心のなかで罵った。
ナサニエルは固まっている。シーリアを見ながら、口をぽかんと開けていた。
シーリアはもじもじとつま先をこすり合わせた。
似合わないだろうか。
ナサニエルがまばたきもしないで、視線をゆっくりと上下に動かす。
シーリアはアップにした髪とドレスを、白手袋をはめた手で撫でた。
背伸びした姿を、とっさに隠したくなった。
「メイドがどうしてもこれを着ろと言うものだから……」
ナサニエルが何度も咳払いをして、肩をすくめた。
「……変わったメイドもいたものだ」
「そ、そうなの……それより、き、騎兵隊の夜会服は、派手なのね」
シーリアは部屋をうろつきながら、ナサニエルをちらちらと眺めた。
長身のナサニエルの体が、いつもより際立って見える。
なんて足が長いの。
シーリアは肘を強くつかんだ。
夜会なんてなくなればいいのに。
──軽騎兵隊の将校は、遊び人ばかりだそうだよ──
フィリップの言葉が頭に蘇った。
彼が、駐屯地や近くのロンドンで、どんな暮らしをしているのか。
そういえば、まるでなにも知らない。
「君はもう部屋で寝ている時間だろう、シーリア」
ナサニエルは再びビリヤード台に向かい、ボールを突き始めた。
シーリアは唇を噛み締めた。どんなに努力しても彼は女扱いしてくれない。
いつまでもじっとしていると、ナサニエルが振り向き顔をしかめる。
「リトル・ガール……」
「そう呼ばないで!」
シーリアは思わず声を荒げた。
彼は目を丸くしている。
「……小さな可愛いシーリーは、いったいどこに行ったんだ?」
「……そんなの、も、もういない。フィ、フィリップは綺麗になったと言ってくれたわ」
ナサニエルがすっと背を伸ばして、灰色の目を冷たく細める。
背中がぞくっとした。
「ならば、あのおしゃべりな坊やのところに早く行けばいい」
シーリアは口を引き結んで足元を見つめた。
喧嘩をしにきたわけじゃないのに……
ロケットを渡すことなど、とてもできそうにない。
ドレイクが弱々しく鳴いた。
ナサニエルがキューを置いて懐中時計を確認する。
「そろそろ晩餐会の時間だ」
ナサニエルはドレイクを連れて、戸口に向かった。
「シーリア、これからは大人の社交の時間だ。早く部屋に戻りなさい」
振り返りもせずにそう言うと、ナサニエルは部屋を出ていった。
首のビロードのリボンをほどく。シーリアは重い足取りでビリヤードルームを出て、廊下を歩いた。
うつむいた視界に入った、ピカピカに磨かれた大きな革靴。
素早く顔を上げた。
第九代フォーチェスター伯爵──ナサニエルとフローレンスの父がいた。
シーリアは息を止めてカーテシーをすると、廊下の脇に寄り、道を譲った。
「そのイブニングドレスは?」
鋭い声に、ぎくりと肩を縮める。
「フローレンスのものか……」
やむを得ずこくりと頷いた。
「これから夜会があるのは知っているだろう。子供にここにいられては困る。ガヴァネスは知っているのか?」
「い、いえ……」
「早く三階に戻りなさい。君に常識外れな真似をされると、それはわが家の恥になる」
「はい……」
勇気を振り絞って、長身の伯爵をそっとうかがった。無機質な表情に耐えきれず、すぐに目をそらす。
亡くなった父の従兄弟。父だったら笑って許してくれただろうと、ふと思った。
シーリアは頭を下げたまま、伯爵の足音が遠ざかり、聞こえなくなるのを待った。
伯爵に気に入られようと取り入るのは、もうずいぶん前にやめた。
メイドを呼ぶ気分には、なれなかった。
寝室の立鏡の前。シーリアは背中に手を伸ばして何とか1つ目のボタンを外した。
ドアが、叩きつけるように開けられた。ノックもなかった。
「どういうつもり!?私に恥をかかせないで!」
バークリーの声に、シーリアは首をすくめた。
伯爵に、もう何か言われたのだ。
バークリーが目を見開いた。シーリアをじろじろと値踏みするように見て、鼻で笑う。
「まあ、あきれる……あなたは夜会に出られないのよ?」
頬がかっと熱くなった。
「わかってるわ。今から着替えるところだったの」
「あなた、自分の立場を分かってるの?伯爵にとって先代の娘は邪魔者でしかないのよ?今に寄宿学校に追い出されるわ」
ミス・バークリーが詰め寄る。
後ずさりしながら、彼女を睨み返した。
私が追い出されたら、あなたは仕事を無くすじゃない……
「寄宿学校のひもじさと体罰を、あなたも一度経験するべきでしょうね。どうも能天気すぎるようだから」
どこか自慢げにバークリーは言った。
唇の震えをこらえる。
無関心は慣れていたけれど、こんなに悪意をぶつけられるのは初めてだった。
「ナサニエル様に会いに行ったのね?……勘違いしないほうがいいわ。彼は優しいだけ。彼みたいな大人の男性が、あなたみたいな子供を相手にするわけがないでしょう?」
「……じゃあ、だれなら相手にするの?」
シーリアは顎を上げ、震える声で言い返した。
バークリーは腰に手を当てて、大きな胸を威圧的に突きだした。
バークリーのいなくなった部屋。シーリアは鏡を見ながら、強く手を握りしめた。
ナサニエルお兄様が誰かを選ぶとしても、あの女だけは嫌だ。
背中に手を回して、一つだけ外れていたままのボタンを留め直し、再びビロードのリボンを首に結んだ。
コルセットのなかのロケットが、熱を持っているように感じた。