幼すぎた君との別れから

25話

 ナサニエルの部屋をノックする。

「入れ」

 シーリアが部屋に入ると、ウエストコートを脱いでいたナサニエルが目を見開いた。

「……アリかと思った」

 シャツとブリーチズ、サスペンダーだけの姿になっている。
 ベッドに置いてあるジャケットの上に、彼はウエストコートを投げた。

 シーリアは彼の後ろ側に回った。

 肩甲骨のあたりから腰の上まで裂けた白いシャツに、血が広がっている。

 シーリアは薬箱をぎゅっと抱え込んだ。堪えきれず、かすかなあえぎ声が漏れる。

「……大袈裟だ」

 ナサニエルが椅子に座った。顔がとても疲れて見えた。

「……見てもいい?」

 鼻をすすりテーブルに薬箱を置くと、素早く屈んで彼の襟元のボタンに手をかけた。

 うまく外せない……
 手袋をはずし、また取りかかる。

 どうか浅い怪我でありますように……

 ナサニエルの喉仏がごくりと動いた。

 顎を引いたまま何も言わないので、顔色をうかがいながらシャツの裾を引き出し、そのまま縦に並んだボタンを下まで外した。

「自分でする」

 ナサニエルは彼女と視線を一瞬だけ合わせて、顔をそらした。

 サスペンダーをゆっくりと下ろし、やけに慎重にシャツを脱ぐ様子を、シーリアは薬箱をあさりながら、もどかしく見つめた。

 彼の右腕の断端。

 シーリアは反射的にガーゼを握りしめた。

 上腕の中ほどで途切れた腕の端は、皮膚が引きつれて、丸みを帯びている。

 彼が躊躇していた理由がやっと分かった。



「横向きに、座ってくれる?」
 細い声でつぶやく。

 ナサニエルは黙って言うとおりにした。

 シーリアは平静を装って水差しを取ってくると、彼の後ろに立った。
 背中の傷を間近で確認して、ほっと息を吐き出す。

 良かった……深そうじゃない。

 水差しの水で傷口を拭き、ツンとしたにおいのする消毒液を塗る。
 綺麗なガーゼを傷口に当て、広い胸に両腕を回しながら包帯を巻いた。

 上腕の断端にどうしても腕が当たる。そのたび、彼の体が緊張するのが伝わった。

 私のせいで失った右腕。

 シーリアは取り乱しそうになった。
 
「ヘイズよりも……もう少しましな男がいただろうに」

 ナサニエルが喉に絡まった声を出して、すぐに咳払いをした。
 シーリアは黙って包帯を巻き続けた。

「まだあいつと結婚するつもりなのか?」
 今度はやたらと軽い口調で聞いた。

 シーリアは手を止めた。
 そうなってもいいの?

 包帯の端を巻いた部分に巻き込みながら、何とか留める。

「どうでしょうね……できたわ」

 ナサニエルが彼女の腕を掴んだ。肌に彼の硬い指先がくい込む。

「キスをしたことを知ったら、ヘイズはどうするだろうな」

 シーリアは唇を噛み、自分の腕をつかむ彼の手をじっと見つめた。

 外から犬の鳴き声が聞こえた。ぱっと顔を上げて窓に目を向ける。

「ドレイクかしら。心配してるのね。五年間ずっとあなたを待っていたのよ」

「気づいているか?……君はドレイクに噛まれたフィリップ・ヘイズのことをまるで心配していない」

 シーリアはまばたきを止めた。フィリップの心配なんて、まるで頭に無かった。

「君の唇をフィリップ・ヘイズの前で奪ってみようか……この前のようにじっくりと……面白いことになるに違いない」
 ナサニエルが棘のある笑い声を出した。

 背中に寒気を感じる。思わず彼の手をほどいて、窓の方に後退りした。

 彼はゲームでも始めるつもりなのだろうか。私への復讐なのかもしれない。

「……フィリップは知ってるわ」

 ナサニエルが口を半開きにして立ち上がった。ブリーチズがずり下がり、あわててサスペンダーを肩にかける。

「どうして──」
「……言ったもの」

 ナサニエルは彼女を見ながらしばらく絶句した。

「君は、なんて愚かなんだ……ヘイズが怒り狂うはずだ」
 怪我をした背中に手をあてながら彼は言った。

 シーリアは顔を両手で覆い、うめいた。

 聞こえないほど小さな声で、ぼそぼそと謝る。

 もっと怒って欲しい。背中も、腕の事も。
 叩きのめしてくれればいいのに……

 彼の気配を間近に感じて、びくっと顔から手を離した。
 目前に見えた包帯を巻いた胸。いきなり抱き寄せられた。

「殴られたりはしなかったか?」

 シーリアは目を見開き、ゆっくりと頷いた。



 まっすぐに彼女を見つめるナサニエルの灰色の瞳。優しく輝いている。

 どうしてそんな顔ができるの……

 シーリアは顔を伏せ、抱きしめられるがままに、じっとしていた。

「不思議だ……こうすると、痛みが消える」

 彼の胸の鼓動が次第に穏やかになっていく。
 シーリアの目が熱くなった。

「君が何をしたいのかは、分かった。もう何もするな。勇気があるのは分かったから、あとはすべて任せてくれ……」

 彼を見上げた。視線を上げては下げて、チラチラと見つめる。
 ナサニエルが彼女の顎を持ち、柔らかく口づけをした。
 シーリアは息を呑んだ。

 ナサニエルがシーリアの指から婚約指輪を抜き取り、ブリーチズのポケットに入れた。

「あっ──」

「まだ帽子もぬいでないじゃないか……シーリー」

 シーリアはあたふたと髪からハットピンを抜き、小さな黒い帽子をテーブルに置いた。

 一筋ほどけた薄茶色のシーリアの髪。彼はそれに指を絡めてもてあそぶ。

「……少しだけ、色が濃くなった」

「五年……経ったもの」

「ああ」
 ナサニエルがそっと目を閉じた。

 シーリアは両手をこすりながら小声で尋ねた。
「……前のほうが、よ、良かった?」

 ナサニエルの顔に笑みが広がった。

「難しい質問だ……」

 彼はシーリアを引き寄せて、また口づけをした。

 その向こうに何人もの女性の存在を感じる、くらくらするようなキス。

 シーリアは彼の滑らかな肩に両手を置いて、つい爪を立てた。ナサニエルが喉の奥でこもった笑い声をあげる。

 彼は二十九歳だもの。
──だけど……胸が張り裂けてしまいそう……
 
 ナサニエルのキスに立て続けに責められ、息つぎをしながら声をもらした。

 コルセットがもどかしい。二人の息が荒く重なる。

 ノックの音がした。

「旦那様?お怪我をされたと聞きました。入っても、よろしいでしょうか」
 クロッカーの声がした。

 のけぞるシーリアに、ナサニエルはキスをやめない。

「……失礼いたします」
 ドアの開く音。

 少しして閉まる音がした。

 シーリアは体を無理やり引き剥がし、素早くドアに目を向けた。クロッカーはいなくなっている。

「クロッカーに見られてしまったわ!」
 ナサニエルから飛びのいた。

 ナサニエルが額から乱れた前髪を払いのけた。

「クロッカーは誰にも言わない。家具か何かだと思えばいいんだ!」

「そんなの無理よ!」

 シーリアは口を両手で覆った。
 こんなことをしてはいけなかった。
 フィリップとの婚約を、解消できていないのに……

「……まだキスはしないで。私は……」

 ネイトとの関係を汚したくない……

 シーリアはドレスと髪を整え、背筋を何とか伸ばした。ナサニエルは顔をこわばらせている。

 婚約指輪──どうしよう……
 彼のポケットを見つめる。

 またノックが聞こえた。じっとしていられず、ドアを開けに向かう。
 入ってきたのはアリだった。
 表情を繕うことも忘れて、ぎょっとしている。

 シーリアはアリの横をすり抜け、たまらずドアを強く閉めた。
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