幼すぎた君との別れから
26話
「ウィリアムズ。いま我が家に自由にできる資金はいくらある?」
ナサニエルは革張りの椅子に座った。
執務室のデスクの向こうに立つウィリアムズが、少し警戒した目つきをしながら帳簿をめくる。
「採石場の設備投資を計画しておりますので……三万ポンド……ほどでしょうか。何かご入用でも?」
ナサニエルは背もたれに体を預けて、鼻から息を吐き出した。
思っていたより、少ない。
だが、シーリアの持参金よりはわずかに多い。
先月分の会計の報告を終え、ウィリアムズは執務室を出ていった。
ナサニエルは天井を仰ぎ見て、梁を睨んだ。
警察沙汰にすれば、フィリップ・ヘイズを追い払えるだろうが────気が進まない……
ナサニエルは引き出しから紙を取り出し、フィリップに向けて手紙を書き始めた。
意外なほど平和な日々が続いた。
朝食室に向かうと、ナサニエルは新聞を読んでいた。片手で少し不自由そうに。
彼が視線を上げて、挨拶がわりの目配せをする。
シーリアがサイドボードから朝食に選んだのはバターを塗ったマフィン二つと卵。彼の前の席に皿と紅茶を置き、椅子に座った。
新聞の隅から隅までじっくりと目を通すナサニエル。彼の飲むコーヒーの香り。
このままこんな日々が続けばいいのに。
シーリアは時間を引き伸ばすために、マフィンをお代わりして、紅茶を三杯も飲んだ。
「背中の傷は、どう?」
カップをいじりながら尋ねる。
ナサニエルが片眉を高く上げて、皮肉っぽく──思わせぶりに笑った。
シーリアはあわてて目をそらした。傷が気になるだけなのに……
あんなことがあっても、彼はずいぶん平然としていた。
ナサニエルが新聞を閉じて部屋を出ていった。
シーリアは腕をさすった。
フィリップとの婚約を早く解消しないと……
でも、どうやって?あんな一件がまた起きたら……
体の芯から寒気が込み上げる。シーリアは自分の体をきつく抱きしめた。
ドローイング・ルームでショパンをゆっくりと弾きながら、シーリアは背後のミセス・ケインズとアリの会話に耳をそばだてた。
ミセス・ケインズがまた噴き出した。
「──アリさん、もう笑わせないで。苦しいわ」
「ひどいですね。私はひとつも笑わせようとなんて、していませんよ?」
アリの話し方はずいぶん演技じみている。
「トラと戦ったなんて、そんなわけないじゃないですか!もう!」
「信じてくれないのですか?ミセス・ケインズ」
「ええ、信じません」
声を震わせながらミセス・ケインズが答えた。
「では今度、大尉に証言してもらいましょう」
アリが紅茶を注ぐ音が聞こえた。
「…………ところでアリさん、あなた、こんな所でくつろいでいていいのですか?旦那様はどちらに?」
「大尉は遠乗りに。私は置いていかれてしまいましたよ」
「あら、午前中も遠乗りされていたような……」
「どうも最近は体を動かさないと、気がすまないようで」
シーリアの体がふいに熱くなった。
ミセス・ケインズが重々しく声を潜めた。
「あの、アリさん。もうそろそろドローイング・ルームを出たほうがいいわ。クロッカーさんが見たらどう思うか……」
アリのクスクスとした笑い声が聞こえた。
「クロッカーさんはワインセラーに籠もっていましたよ。ミセス・ケインズ、ずいぶん私を心配してくださるのですね?」
少しして、ミセス・ケインズのぎこちない咳払いが聞こえた。
「……友人ですから」
アリは何も言わない。
「レ、レディ・シーリア。あなたも紅茶はいかがですか?」
ミセス・ケインズが、早口で尋ねた。
シーリアはソファに座るミセス・ケインズの隣に腰掛けた。
アリがインドから持ってきた紅茶を淹れてくれた。
「……ネイトの背中はどう?アリ」
「もう大丈夫ですよ、レディ・シーリア。あとはかさぶたが剥がれたら終わりです」
アリがにこやかに頷いた。シーリアも両手を強く握り合わせ、何度も頷く。
「背中?」
ミセス・ケインズが首をかしげた。
「怪我をしたの」
シーリアは小声でつぶやいた。詳しい話は控えた。
ナサニエルは怪我をしたことを、伏せているようだった。
ナサニエルは壁の呼び鈴を鳴らした。しばらくして、アリが執務室に入ってきた。
「フィリップ・ヘイズから手紙の返事は届いたか?」
アリが肩をすくめた。
ナサニエルは組んだ脚をほどいて椅子から立ち上がった。
「ちゃんと確認したのか?」
「もちろんです、大尉。返事がないのが返事なのでしょう」
フィリップ・ヘイズを馬から落としたのは間違いだった。
三万ポンドを蹴るほど、意固地になるとは……
ナサニエルはうつむいて気疲れした目頭を揉んだ。
「特別結婚許可証をもらえば、いつでもどこでもこっそりと結婚できるそうですよ」
アリが慣れない手つきで暖炉の手入れを始める。
「そんなことは言われなくても分かっている。あとでヘイズが騒ぎ立てるだろうな」
「騒がせておけばいい」
「馬鹿なことを言うな。新聞で取り上げられたらどうするんだ。シーリアはレディなんだぞ?」
裁判になれば、シーリアの名前に傷がつくことになる。
「そんなものですかね?」
「そうだ、ここはイングランドなんだ」
ドサリと椅子に座った。
「仕方ない、もう一度手紙を書こう。文面が悪かったのかもしれない」
引き出しからペンと紙を取り出す。
アリが鼻を鳴らした。
「大尉、あなたは頭が固すぎる」
「何だと?」
ナサニエルは声を尖らせた。
アリの軽口がいつもより癇に障る。
「真面目に息子を説得する必要なんてない。父親と話をすれば、片が付く話ではないですか」
スコップで暖炉に石炭を入れながら、アリが言った。
ナサニエルは顎を上げ、細めた目でじっとアリを見つめた。
「私の流儀に反する」
「戦地でそんなものは捨てたでしょう」
アリは何食わぬ顔をしている。
ナサニエルはフィリップ・ヘイズに手紙を書き始めた。自分の書いたへりくだった文面に腹が立って、ぐしゃぐしゃに丸める。
結局ヘイズ卿に訪問の申し出の手紙を書いた。三万ポンドのことも書き添えて。
「アリ、この手紙を出してきてくれ」
訪問の日になってもヘイズ卿からの返事はなかった。
フィリップ・ヘイズの時と同じ状況でも、ナサニエルはまるで気にならなかった。
あのがめつい男が大金を断るわけがない。
午後、ナサニエルは自室でフロックコートに着替え、シルクハットを被った。
アリは腰帯に短剣を差して、ショールで隠した。
「何のつもりだアリ」
「ミスター・ヘイズは前科がありますからね」
アリが差し出すステッキを、ナサニエルは左手で黙って受け取った。
ナサニエルが乗り込み、アリが御者の隣に座ると、馬車はヘイズ家に向かい出発した。
のどかな田舎道。小作人の夫婦と子どもが山の麓で薪拾いをしている。
ナサニエルは窓枠に肘をのせ、手を握りしめた。
何でもない光景に、自分の求めるすべてのものがあるような気がした。
もうすぐ────もうすぐだ……
ナサニエルは革張りの椅子に座った。
執務室のデスクの向こうに立つウィリアムズが、少し警戒した目つきをしながら帳簿をめくる。
「採石場の設備投資を計画しておりますので……三万ポンド……ほどでしょうか。何かご入用でも?」
ナサニエルは背もたれに体を預けて、鼻から息を吐き出した。
思っていたより、少ない。
だが、シーリアの持参金よりはわずかに多い。
先月分の会計の報告を終え、ウィリアムズは執務室を出ていった。
ナサニエルは天井を仰ぎ見て、梁を睨んだ。
警察沙汰にすれば、フィリップ・ヘイズを追い払えるだろうが────気が進まない……
ナサニエルは引き出しから紙を取り出し、フィリップに向けて手紙を書き始めた。
意外なほど平和な日々が続いた。
朝食室に向かうと、ナサニエルは新聞を読んでいた。片手で少し不自由そうに。
彼が視線を上げて、挨拶がわりの目配せをする。
シーリアがサイドボードから朝食に選んだのはバターを塗ったマフィン二つと卵。彼の前の席に皿と紅茶を置き、椅子に座った。
新聞の隅から隅までじっくりと目を通すナサニエル。彼の飲むコーヒーの香り。
このままこんな日々が続けばいいのに。
シーリアは時間を引き伸ばすために、マフィンをお代わりして、紅茶を三杯も飲んだ。
「背中の傷は、どう?」
カップをいじりながら尋ねる。
ナサニエルが片眉を高く上げて、皮肉っぽく──思わせぶりに笑った。
シーリアはあわてて目をそらした。傷が気になるだけなのに……
あんなことがあっても、彼はずいぶん平然としていた。
ナサニエルが新聞を閉じて部屋を出ていった。
シーリアは腕をさすった。
フィリップとの婚約を早く解消しないと……
でも、どうやって?あんな一件がまた起きたら……
体の芯から寒気が込み上げる。シーリアは自分の体をきつく抱きしめた。
ドローイング・ルームでショパンをゆっくりと弾きながら、シーリアは背後のミセス・ケインズとアリの会話に耳をそばだてた。
ミセス・ケインズがまた噴き出した。
「──アリさん、もう笑わせないで。苦しいわ」
「ひどいですね。私はひとつも笑わせようとなんて、していませんよ?」
アリの話し方はずいぶん演技じみている。
「トラと戦ったなんて、そんなわけないじゃないですか!もう!」
「信じてくれないのですか?ミセス・ケインズ」
「ええ、信じません」
声を震わせながらミセス・ケインズが答えた。
「では今度、大尉に証言してもらいましょう」
アリが紅茶を注ぐ音が聞こえた。
「…………ところでアリさん、あなた、こんな所でくつろいでいていいのですか?旦那様はどちらに?」
「大尉は遠乗りに。私は置いていかれてしまいましたよ」
「あら、午前中も遠乗りされていたような……」
「どうも最近は体を動かさないと、気がすまないようで」
シーリアの体がふいに熱くなった。
ミセス・ケインズが重々しく声を潜めた。
「あの、アリさん。もうそろそろドローイング・ルームを出たほうがいいわ。クロッカーさんが見たらどう思うか……」
アリのクスクスとした笑い声が聞こえた。
「クロッカーさんはワインセラーに籠もっていましたよ。ミセス・ケインズ、ずいぶん私を心配してくださるのですね?」
少しして、ミセス・ケインズのぎこちない咳払いが聞こえた。
「……友人ですから」
アリは何も言わない。
「レ、レディ・シーリア。あなたも紅茶はいかがですか?」
ミセス・ケインズが、早口で尋ねた。
シーリアはソファに座るミセス・ケインズの隣に腰掛けた。
アリがインドから持ってきた紅茶を淹れてくれた。
「……ネイトの背中はどう?アリ」
「もう大丈夫ですよ、レディ・シーリア。あとはかさぶたが剥がれたら終わりです」
アリがにこやかに頷いた。シーリアも両手を強く握り合わせ、何度も頷く。
「背中?」
ミセス・ケインズが首をかしげた。
「怪我をしたの」
シーリアは小声でつぶやいた。詳しい話は控えた。
ナサニエルは怪我をしたことを、伏せているようだった。
ナサニエルは壁の呼び鈴を鳴らした。しばらくして、アリが執務室に入ってきた。
「フィリップ・ヘイズから手紙の返事は届いたか?」
アリが肩をすくめた。
ナサニエルは組んだ脚をほどいて椅子から立ち上がった。
「ちゃんと確認したのか?」
「もちろんです、大尉。返事がないのが返事なのでしょう」
フィリップ・ヘイズを馬から落としたのは間違いだった。
三万ポンドを蹴るほど、意固地になるとは……
ナサニエルはうつむいて気疲れした目頭を揉んだ。
「特別結婚許可証をもらえば、いつでもどこでもこっそりと結婚できるそうですよ」
アリが慣れない手つきで暖炉の手入れを始める。
「そんなことは言われなくても分かっている。あとでヘイズが騒ぎ立てるだろうな」
「騒がせておけばいい」
「馬鹿なことを言うな。新聞で取り上げられたらどうするんだ。シーリアはレディなんだぞ?」
裁判になれば、シーリアの名前に傷がつくことになる。
「そんなものですかね?」
「そうだ、ここはイングランドなんだ」
ドサリと椅子に座った。
「仕方ない、もう一度手紙を書こう。文面が悪かったのかもしれない」
引き出しからペンと紙を取り出す。
アリが鼻を鳴らした。
「大尉、あなたは頭が固すぎる」
「何だと?」
ナサニエルは声を尖らせた。
アリの軽口がいつもより癇に障る。
「真面目に息子を説得する必要なんてない。父親と話をすれば、片が付く話ではないですか」
スコップで暖炉に石炭を入れながら、アリが言った。
ナサニエルは顎を上げ、細めた目でじっとアリを見つめた。
「私の流儀に反する」
「戦地でそんなものは捨てたでしょう」
アリは何食わぬ顔をしている。
ナサニエルはフィリップ・ヘイズに手紙を書き始めた。自分の書いたへりくだった文面に腹が立って、ぐしゃぐしゃに丸める。
結局ヘイズ卿に訪問の申し出の手紙を書いた。三万ポンドのことも書き添えて。
「アリ、この手紙を出してきてくれ」
訪問の日になってもヘイズ卿からの返事はなかった。
フィリップ・ヘイズの時と同じ状況でも、ナサニエルはまるで気にならなかった。
あのがめつい男が大金を断るわけがない。
午後、ナサニエルは自室でフロックコートに着替え、シルクハットを被った。
アリは腰帯に短剣を差して、ショールで隠した。
「何のつもりだアリ」
「ミスター・ヘイズは前科がありますからね」
アリが差し出すステッキを、ナサニエルは左手で黙って受け取った。
ナサニエルが乗り込み、アリが御者の隣に座ると、馬車はヘイズ家に向かい出発した。
のどかな田舎道。小作人の夫婦と子どもが山の麓で薪拾いをしている。
ナサニエルは窓枠に肘をのせ、手を握りしめた。
何でもない光景に、自分の求めるすべてのものがあるような気がした。
もうすぐ────もうすぐだ……