幼すぎた君との別れから

28話

 ノックをして執務室に入ると、ナサニエルが革張りの椅子からすぐさま立ち上がった。
 少し充血した彼の目。シーリアが見つめると、彼はさっと長い睫毛を伏せた。

 デスクには、丸めた紙がいくつも散らばっている。
 ナサニエルが、静かに咳払いをして、それを一つにかき集めた。

「どうした?」

 シーリアは靴の先をもぞもぞとこすり合わせた。
 
 夕べの彼のぬくもりを、体が求めている。

 彼を拒否しなかったら今頃私たちは……
 だめ……考えてはだめ……

「あの……ミセス・ケインズがお姉さんの所に看病に行きたいそうなの。私も……付いていこうと思って」

 彼の顔が青ざめた気がした。
 急に発言を取り消したくなった。

 どうするべきか……もう分からない。

「……分かった。詳しい話はクロッカーに伝えておいてくれ」
 
 ナサニエルが背を向けた。
 シーリアの顔が歪む。

 止めてほしかったなんて、身勝手すぎる。

 両手をじっと見下ろして、何も言わずに執務室を出た。



 ミセス・ケインズの姉夫婦、ミスター・ターナーとミセス・ターナーの住む牧師館に来て、一週間が過ぎた。

 シーリアはメイドからポリッジの乗ったトレーを受け取ると、階段をのぼりミセス・ケインズの部屋に入った。
 咳止めのシロップのせいか、ミセス・ケインズはぐっすりと眠っている。

 サイドテーブルにトレーを置き、ミセス・ケインズの額に手を当てた。
 
 まだ熱い。
 

 やっとミセス・ターナーが体調を持ち直すと、今度は妹のミセス・ケインズが風邪をひいてしまった。



 風が吹いてまた葉が落ちてきた。

 午前中は、教会敷地内の掃除。

 シーリアは籠に落ち葉を押し込み、汚れたエプロンをはたいた。鼻が凍ってしまいそうなほど空気は冷たい。

 じっとしているとすぐに気が滅入る。シーリアはまたレーキで落ち葉をかきはじめた。

 ターナー夫妻の娘、小さなメアリーは落ち葉集めに飽きたのか、シーリアの周りを走ったり飛んだりしている。

 ミセス・ターナーの反対を押し切り、シーリアは毎日女中のように働いていた。考える暇がなくなるまで。
 落ち着きなく動き回るうちに、この十日間で少し痩せたような気がする。


 正午の鐘が鳴った。

 まだ空腹は感じないけれど、メアリーはそうではないはず。

「今日はこのくらいにしましょうか」
 
 ミセス・ケインズも、そろそろ起きたかもしれない。

 
 牧師館への帰り道、メアリーが後ろから抱きついた。

「レディ・シーリアは、何だかいい匂いがするわ」

 シーリアは戸惑いながら、土の付いた袖の匂いを嗅いだ。

「みて!誰か来る」

 芝生の中の霧で霞んだ小道を、馬車が走ってくる。
 見慣れたダークグリーンの車体。

 口を手でおさえ、目で追った。馬車は牧師館の前で止まった。
 シーリアは無心で追いかけた。

 おりてきたのは白いターバンを頭に巻いたアリ。
 アリが馬車のドアを閉める。

 彼だけだった。

 シーリアの足取りが、急に重たくなった。



「アリ」

 アリが振り返り、胸に片手をあててお辞儀をした。

「レディ・シーリア」

「……ひとり?」

「ええ、不機嫌な大尉から逃げ出してきました」

「そ、そう……こんなところまで?」

「ええ」

 ──それだけ?

 僅かに後ろに下がり、アリを観察する。

「期待させてしまいましたか?」

 アリが含み笑いを浮かべた。
 はっとして、シーリアは首を横に振った。

 誰かを探すように、アリが視線を周囲に巡らせている。

「ミセス・ケインズなら牧師館よ。風邪をひいてしまったの」

 アリは、素早く牧師館に目を向けた。

 初めて見る彼の真顔。
 
「もう熱は下がったから大丈夫。そうお医者様は言っていたわ。ね、メアリー?」

 シーリアのスカートに隠れていたメアリーが、牧師館の中に走って行った。

 アリは牧師館を見ては視線をさげ、その場を行ったり来たりしている。

 まるで心配する恋人のよう。

「アリ……ミセス・ケインズは辛い人生を送ってきたの。お金も、家族も。幸せになってほしいわ……そう、思わない?」

 シーリアは口を引き結び、思いきってアリと目を合わせた。

 ミセス・ケインズを守れるの?そう視線で問いかける。
 黙り込んだアリの表情が次第に冷たくなった。怯まず見返した。
 
 ふっとアリが微笑んだ。

「お二人には強い絆があるのですね」
 
 シーリアは眉をひそめた。
 答えになってないわ。


 少しして、二階の窓からミセス・ケインズが眼鏡をかけながら顔をのぞかせた。顔を引っ込めたかと思うと、程なく玄関から飛び出してきた。

「アリさん!どうしてここに?」

 玄関から、ミセス・ターナーが眉をひそめて覗いている。

「あの、中に入りませんか?温かいお茶を……」

 ミセス・ケインズの言葉に、アリはかぶりを振った。
 
 ゴシック様式の教会の尖塔を背景に、アリの姿は異彩を放っている。
 シーリアはやきもきしながら二人を交互に見つめた。

 ミセス・ターナーが外に出てきた。引きつった顔を伏せてそそくさとミセス・ケインズを玄関に連れて行く。

「フォーチェスター・ホールで待ってます。早く元気になって下さい!」

 ミセス・ケインズが振り返りながら、何度もアリに頷いた。


「大尉も少し痩せたようです」

 馬車に乗る前、背中を向けたアリがぽつりと言った。

 馬車が見えなくなった。

 シーリアは近くの木にもたれかかり、目を閉じた。
 涙をぬぐう。

 しっかりしないと。五年間、彼なしで生きてきたじゃない……



 日曜の礼拝が終わった。

 ナサニエルは教会堂の出口に向かった。会衆が恭しく頭を下げながら道を譲っていく。

 外は小雨が降っていた。

 すでにポーチにつけていた馬車。アリがドアを開ける。
 ナサニエルは座席に座り、顔を上げて息を吐き出した。

 肌寒く、湿気のこもる車内。
 雨、馬の息づかい、五感に集中して思考を一度断ち切る。

 馬車が動き始めた。フォーチェスター・ホールのある西に向けて。

 ナサニエルは肩をさすった。
 戦地にいたときは、恋しくて仕方なかったフォーチェスター。灰色がかった景色に、今日は愛着を感じない。

 前の窓を開けた。

「街道を適当に走らせてくれ。……南に」

「かしこまりました」
 御者が答えた。

 アリが隣に座る御者に耳打ちするのを確認して、窓を閉じた。

 砕石の道が続き、隣の領地との境界を示す石柱を通り過ぎた。

 途中、宿屋で止まった。
 疲れた馬を交代させ、少し休憩をとり、再び出発した。

 無意識に手で探り、握りしめた懐のロケット。

 雨が止んで幾分か暖かく感じた。
 紅葉の終わりかけた山が、湖に映り込んでいる。

 ナサニエルは座席から背中を起こした。

 林の向こうに、ゴシック様式の尖塔が見えた。



 アリが牧師館のドアベルを鳴らした。ミセス・ケインズがドアを開けた。

「旦那様!アリさん!」

 口を覆ったミセス・ケインズ。ナサニエルはシルクハットを軽く持ち上げた。

「ミセス・ケインズ。突然申し訳ない。風邪を引いていたそうだが」

「いえ、ええ、あの、もうすっかり良くなりました。長い間お屋敷を空けてしまい──」

 ナサニエルは静かに指先を上げて、言葉を制した。

「シーリアは?」

 子供たちのはしゃぐ声が聞こえる。
 ミセス・ケインズが首を伸ばして、ナサニエルの背後に目を向けた。

「あら、ちょうど終わったようだわ。レディ・シーリアは日曜学校まで手伝ってくださって……」

 ミセス・ケインズの視線の先に目を向けた。子供たちに囲まれたシーリアが教会から歩いてくるのが見える。
 両手をぐいぐいと引かれて、バランスを崩しながら。

 ナサニエルは顎を高く上げた。

 あんなに気安いレディは見たことがない。

 苦笑いをして、視線を足元にそらした。

 シーリアの柔らかい話し声が聞こえた。
 吸い寄せられるように、またすぐ顔を上げた。

 身をかがめて子供たち一人一人に耳を傾けるシーリアの様子を、ナサニエルは目を細めて見守った。
 
 ツイードのジャケットを着た若い男が彼女のそばまで来て、子供たちを追いたてた。
 
 ナサニエルは小声で悪態をついた。

 まだヘイズも片が付いていないと言うのに……

 足音を殺してシーリアと男に近づいた。男は甘い言葉で彼女を褒めそやしている。
 獰猛な衝動が、腹の底からこみ上げた。

 目の前でこの男を痛めつけたら、彼女は少しは反省するだろうか。
 
「シーリア」
 
 シーリアが硬直した。ぎこちなくこちらを向いた緑色の大きな瞳が、潤んで輝き始める。

「君は?」

 ナサニエルは微笑みながら男に尋ねた。
 相手は山高帽を脱ぎ、頭を振り下げて逃げて行った。


「ネイト……」

 シーリアが唇を震わせながら、じっとナサニエルの目を見つめる。

「──商人といったところか。君は誰に対しても隔てがないようだな。もちろん悪い意味で」

「子供たちの勉強を一緒にみただけよ」

 ナサニエルの頬がピクピクと痙攣した。あの舐め回すような視線にどうして気づかないんだ?

「隙を作るな」

 シーリアが体をそらして、傷ついた顔をした。

 くそっ……もうやめよう……

 ナサニエルは頭を冷やすために、深く息を吸い込んだ。
 まるで効果は無く、勝手に言葉がついて出た。

「よくもまあ、他人の家にこんなにも長居できるものだ」

 ナサニエルは芝生の中に建つ教会、牧師館、納屋や雑木林に辛辣に目を向けた。フォーチェスター・ホールのほうが、はるかに広大で快適なはずだ。

「私はずっと他人の家で生きてきたもの」

 シーリアが体を背けた。
 ナサニエルは歯を食いしばり、胸の痛みを抑え込んだ。

 何よりも効く攻撃だった。

「父や私に……居場所を奪われたと思っていたのか?」

 シーリアの前に回り込むと、彼女は眉間にしわを寄せてまた体を背けた。

「……何をしにきたの?」

「フォーチェスター・ホールは君の家だ」

 シーリアがはっと振り向いて目を合わせた。

「……どういう意味で?」

 ナサニエルは少し間を置いて答えた。
「……あらゆる意味でだ」

 生まれ育ったフォーチェスター・ホールで私の妻となり、子供を産んで、添い遂げる。
 ほかの世界なんか知らなくていい。

 頬を紅潮させてうつむいたシーリアが、弱々しくつぶやいた。
「そろそろ帰ろうと思っていたの……」

 ナサニエルは、彼女の気が変わる前に素早く頷いた。

 シーリアの肩が、いつも以上に華奢に見える。

 ああ……アリの言ったとおりだ。離れ離れの間に、彼女は本当に痩せてしまった。

 ナサニエルは彼女に一歩近づき、腕を腰に伸ばしかけてぴたりと止まった。

 何をしようとした。
 もう同じ過ちは犯さない。彼女を法的に手に入れるまでは。
 そう心に誓ったばかりではないか。

「これ以上ミセス・ケインズの家族に迷惑はかけられない。すぐに帰りの支度をしてくれ。馬車で待っている」
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