幼すぎた君との別れから

29話

 牧師館の前に停めた馬車の隣で、アリとミセス・ケインズが話をしている。

 ナサニエルは立ち止まり、眉を搔いた。

──しまった。
 二人乗りの馬車で来てしまった。

 シーリアが牧師館に入るのを目の端で確認して、口を開いた。

「ミセス・ケインズ。シーリアはこれからフォーチェスターに連れて帰る。明日改めてアリを迎えに出す。君はそれまで待っていてくれ」

 ミセス・ケインズが用心深く顎を引いた。

 彼女の考えが手に取るように分かる。
 背筋を伸ばし、つま先にぐっと力を入れた。

「シーリアはヘイズと結婚させない。帰りの準備を手伝ってやってくれ」

 ナサニエルはミセス・ケインズに背を向け、馬車に乗った。
 


 道の砕石と馬車の車輪がぶつかりあい、ガラガラと音をたてている。

 ボルドー色の車内。二人掛けの座席。ナサニエルは彼女の隣で脚を組み替えた。

 シーリアは浅く腰掛け、窓の外の流れる景色を見ている。

 落ち着きなくビロードの座面を撫でる細い指先に気づいて、ナサニエルは思わず視線を正面に戻した。


 あの夜のことを、謝るべきだろうか。決めかねるうちに体から抵抗を感じた。
 間違いだったとは言いたくない。

「アリとミセス・ケインズのことは、どう考えているの?」

 アリとケインズ?

「何も。二人のことに口出しをするつもりはない」

「アリは異教徒で身分も違うけど……ミセス・ケインズを守っていけるかしら……どう思う?」

 異教徒はどうしようもないが、アリはもとはインドの高貴な家柄の生まれだ──そんな説明を長々とする気には、今はなれなかった。

「本人達に何か言われたわけでもないんだろう。それよりもちゃんと食べていたのか?」

「え?……ええ」

 返事の間の開き具合で、嘘だと分かった。

 馬車が跳ねるほど、激しく揺れた。
 軽く浮いたシーリアの体を思わず抱き寄せる。
 道が平らになり揺れが収まった。

 胸元のシーリアは息を止めている。

 萎縮して、目が一点を向いたまま固まっていた。

 ナサニエルは腕をほどき、体を離して座り直した。プライドがズタズタにされてしまいそうだ。

「そんなに怯えなくても、襲いかかったりはしない」

 瞼を閉じ、さげすむように言った。
  


 目を閉じて数分が経った頃、膝に置いていた左手が柔らかい手に包まれた。

 ぱっと目を開け、手と、次いでシーリアを見つめる。
 シーリアは赤らんだ顔を伏せた。

 ナサニエルは手を裏返して、華奢な指と無骨な指を強く絡み合わせた。顔を上げたシーリアの唇が開花する薔薇のように開いた。

 女の顔だった。もう、あの頃の幼さはない。

「君はキスをするなと言った……忘れようもない」
 喉から、かれた声が出た。

「カーテンを……閉めて」

 シーリアの震えるつぶやきに、ナサニエルは鋭く息を吸った。

 何をしようとしているのか、十四の頃ならともかく、十九の女が分からないはずがない。

 シーリアの真意を探りながら、ナサニエルは右と前のクリムゾン色のカーテンをゆっくりと閉めた。彼女は碧い湖のような瞳を睫毛で隠して、左のカーテンを閉める。

 ナサニエルは衝動的にシーリアを掻き抱いた。
 同じ強さで背中に腕を回されたときの、果てしない安らぎ。

 夫でも婚約者でもない男に、シーリアは身を委ねようとしている。危険をかえりみずに。

 頭がくらくらした。

 これ以上の愛の証明はあるだろうか……
 かつてない情熱が、ナサニエルを飲み込んだ。

 背中を撫でながら、彼女のふっくらとした唇に、触れるだけの優しい口づけを落とした。シーリアが無防備なため息を漏らす。

 彼女を悦びで満たせ──頭の奥から声がする。
 
 ナサニエルは前のめりになりながら、なんとか踏みとどまった。
 張り詰めた体に、彼女がさらにしがみつく。
 額にどっと汗がにじんだ。

「シーリア、シーリア……君を大切にしたい。後ろめたい思いをさせたくないんだ。少し……離れよう」
 歯を食いしばりながら、ささやいた。

 理解できていないような熱に浮かされた顔で、シーリアが見あげた。

 堪えきれずもう一度彼女の唇を奪って、ナサニエルはカーテンを開けた。


 会話はなかった。ただ手を握った。

 ヘイズの問題は、まだ何も解決していない。


 馬を替えに宿屋で停まった。そわそわとしているシーリアの手をほどいた。
 馬車が再び動き始めてまた手を取る。
 それ以降はフォーチェスター・ホールに着くまでずっと、彼女の手を離さなかった。

 

──君を大切にしたい。
 彼はそう言った。

 馬車をおりてからは、本当に紳士的な態度。晩餐のときも。
 シーリアは落ち着かない気分になった。


 ダイニング・ルームでの昼食。ミセス・ケインズを迎えに行ったアリは、ナサニエルのそばにいなかった。代わりに従僕が彼のうしろにひかえている。

「シーリア。次の土曜、ウィリアム・ヘイズ教授が弔問に来ることになった」

 シーリアは、カトラリーを取り落とした。

「へ、ヘイズ?それは……」

「ああ、ヘイズ卿の親族──弟だ。大丈夫、何も心配することはない。少し話をして帰るだけだ。共に食事をすることもない」

 シーリアはドレスの胸元を握りしめた。
「なにか……フィリップに魂胆があるんじゃ……」

「違うよ、シーリア。私が誘ったんだ」

「な、なぜ?」
 声が裏返る。

 彼は返事をしない。名前を聞いたことは無いけれど、おじ様の知り合いだっただろうか。

「……断れないの?」

 ナサニエルは厳しい顔で首を横に振った。

 人目を避けて、ナサニエルの被後見人としてこのまま彼と暮らす。
 離れていた間にシーリアが思いついた案は、早くも大きく揺さぶられた。

 胃がチクチクとして、食べる気が失せた。
 シーリアは目を伏せて、皿を押しやった。

「シーリア、顔を上げて……私を信じてくれ」

 ナサニエルが、じっと彼女を見つめた。

「さあ、食べるんだ」

 従僕がさりげなく、カトラリーを交換した。
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