幼すぎた君との別れから
4話
自分でも、むきになっていることは、分かっていた。
デ・レイシー家の先祖の肖像画がずらりと飾られた長い廊下。突き当たりにある舞踏室から、少したどたどしいピアノのワルツが聞こえる。
曲が終わり少しすると、重厚な両開きのドアが開いて、ぞろぞろと人が出てきた。
休憩だろうか。
シーリアは廊下に飾られた甲冑の陰に急いで隠れた。
拍車の鳴る足音。
ナサニエルお兄様。
人ごみの中、抜きん出たナサニエルの頭。
皆が休憩に入るダイニング・ルームを通り過ぎて、角を曲がった。
シーリアは甲冑の後ろから爪先立ちになり、首を伸ばした。
見失ってしまった。
天井から吊るされたランプが、温室を照らしている。
シーリアはその中でひとり立ち尽くし、植物の香りを深く吸い込んだ。
ナサニエルお兄様はどこにいったのだろう。
雨が降りそう……
月明かりに照らされた厚く大きな雲を見ながら、シーリアは温室の通路をゆっくりと歩いた。
落ち着いてくると、少し気弱になった。
彼は迷惑に感じているのかもしれない。
そうとしか思えない。避けられてばかりだもの……
通路の奥のドーム。その中に人影が見える。
ハッとして、シーリアは息を止めた。
レモンの大きな鉢植えの向こう、ラタンの編み込み椅子にナサニエルが座っている。
どうして一人でいるの……?
アイアンのテーブルの上のデキャンタ。
琥珀色のウイスキーが入ったグラスに口をつけるナサニエルの横顔は、恐ろしいほど魅力的に見えた。
物思いにふける眼差しは、まるで恋をしているかのよう。
……誰を思っているの?
シーリアは胸に痛みを感じながらも、彼を見つめることをやめられなかった。
「シーリア……」
どこか遠くを見ながら、ナサニエルが彼女の名前を呼んだ。
シーリアは目を見開いた。唇に拳をあて、荒くなった呼吸をおさえる。
「ナサニエル様?」
突然聞こえた声に、シーリアは、あわあわしながらレモンの木の裏に隠れた。
ドレスにレモンの棘が引っかかる。心のなかでフローレンスに謝った。
「ここにいらしたのね」
ミス・バークリーの猫なで声。香水の香り。
「ミス・バークリー……」
ナサニエルの、無感情な低いつぶやきが聞こえた。
バークリーが小さく咳払いをする。
「私も人混みは苦手なんです。逃げてきてしまいました。……私たち、似ていると──」
「失礼」
「まっ、待ってください!」
シーリアはレモンの葉の隙間から二人を覗いた。
恋する乙女のように、バークリーは、口元で両手の指先を合わせている。
「あの、もしよろしければ、駐屯地での話を聞かせていただけませんか?ご存じかもしれませんが、私の亡くなった父も軍人だったのです。……ナサニエル様の軍服姿を見ると、なんだか懐かしくて……」
バークリーは首をかしげて上目遣いになった。
普段は亡くなった父親の悪口ばかり言っているくせに。
なんてあざといの……
知らず知らずにレモンの木の枝を握りしめる。ずきりと棘の痛みを感じた。
「私の従卒に聞くといい」
ナサニエルが、ラタンの椅子から立ち上がった。
「あ、で、では相談にのっていただけませんか?レディ・シーリアの愚かな振る舞いのせいで、旦那様に叱られてしまって……」
シーリアの持つ枝がぱきりと折れた。
「……シーリアの?」
ナサニエルは椅子に座り直し、顎で続きを促した。
ミス・バークリーがパチパチとまばたきをして、両手を下ろした。
「……彼女の話なら聞いてくださるの?」
「それで、シーリアが何をしたと」
「あなたは彼女の家族なわけでもないでしょう?なんで……」
ナサニエルがイライラと肘掛けを指で叩く。
「ええと……やっぱりやめようかしら」
「ミス・バークリー……ふざけているのか?」
バークリーは面白くなさそうに肩をすくめた。
「……あなたもあの着飾った姿をご覧になったんでしょう?夜会のさなかなのに、彼女、場違いにうろうろして」
ナサニエルが目を伏せて、唇を噛んだ。
「……シーリアは好奇心が強いんだ。大目に見てやってくれ。父には私から話をしておこう。それと、彼女の評判を落とすようなことは、今後口にしないでほしい」
シーリアの目の奥がつんとしみた。
この優しさが、愛ならばいいのに……
「まあ、ずいぶん思いやりがあるのね。……そんなふうだから、彼女は誤解するのね」
ナサニエルの顔が少しずつ赤らむ。その様子をシーリアはじっと見つめた。
時間が止まったようだった。
バークリーが目を見開いて、ゆっくりと首を横に振った。
「もしかして……やだ、嘘でしょう?」
ナサニエルが顔をあげた。
「……彼女はまだ十四よ?」
体をこわばらせて、彼は何も答えない。
シーリアは頬を両手でおさえ、しゃがみこんだ。
足の力がぬけて、立ちあがれない。
テラコッタの鉢にすがりついて、再び二人を覗いた。
不自然なほど押し黙っていたバークリーが、突然、妖しくほほ笑んだ。
ベラドンナの目薬のせいか、ランプの光が映り込んだ彼女の瞳はやけにぎらぎらしている。
嫌な予感がした。
「なんだか、めまいがしてきたわ……」
バークリーがよろめく。
ナサニエルが立ち上がり、無言で彼女を支えた。
やめて……
シーリアは口を大きく開けた。
バークリーが不意をついて、ナサニエルにキスをした。
デ・レイシー家の先祖の肖像画がずらりと飾られた長い廊下。突き当たりにある舞踏室から、少したどたどしいピアノのワルツが聞こえる。
曲が終わり少しすると、重厚な両開きのドアが開いて、ぞろぞろと人が出てきた。
休憩だろうか。
シーリアは廊下に飾られた甲冑の陰に急いで隠れた。
拍車の鳴る足音。
ナサニエルお兄様。
人ごみの中、抜きん出たナサニエルの頭。
皆が休憩に入るダイニング・ルームを通り過ぎて、角を曲がった。
シーリアは甲冑の後ろから爪先立ちになり、首を伸ばした。
見失ってしまった。
天井から吊るされたランプが、温室を照らしている。
シーリアはその中でひとり立ち尽くし、植物の香りを深く吸い込んだ。
ナサニエルお兄様はどこにいったのだろう。
雨が降りそう……
月明かりに照らされた厚く大きな雲を見ながら、シーリアは温室の通路をゆっくりと歩いた。
落ち着いてくると、少し気弱になった。
彼は迷惑に感じているのかもしれない。
そうとしか思えない。避けられてばかりだもの……
通路の奥のドーム。その中に人影が見える。
ハッとして、シーリアは息を止めた。
レモンの大きな鉢植えの向こう、ラタンの編み込み椅子にナサニエルが座っている。
どうして一人でいるの……?
アイアンのテーブルの上のデキャンタ。
琥珀色のウイスキーが入ったグラスに口をつけるナサニエルの横顔は、恐ろしいほど魅力的に見えた。
物思いにふける眼差しは、まるで恋をしているかのよう。
……誰を思っているの?
シーリアは胸に痛みを感じながらも、彼を見つめることをやめられなかった。
「シーリア……」
どこか遠くを見ながら、ナサニエルが彼女の名前を呼んだ。
シーリアは目を見開いた。唇に拳をあて、荒くなった呼吸をおさえる。
「ナサニエル様?」
突然聞こえた声に、シーリアは、あわあわしながらレモンの木の裏に隠れた。
ドレスにレモンの棘が引っかかる。心のなかでフローレンスに謝った。
「ここにいらしたのね」
ミス・バークリーの猫なで声。香水の香り。
「ミス・バークリー……」
ナサニエルの、無感情な低いつぶやきが聞こえた。
バークリーが小さく咳払いをする。
「私も人混みは苦手なんです。逃げてきてしまいました。……私たち、似ていると──」
「失礼」
「まっ、待ってください!」
シーリアはレモンの葉の隙間から二人を覗いた。
恋する乙女のように、バークリーは、口元で両手の指先を合わせている。
「あの、もしよろしければ、駐屯地での話を聞かせていただけませんか?ご存じかもしれませんが、私の亡くなった父も軍人だったのです。……ナサニエル様の軍服姿を見ると、なんだか懐かしくて……」
バークリーは首をかしげて上目遣いになった。
普段は亡くなった父親の悪口ばかり言っているくせに。
なんてあざといの……
知らず知らずにレモンの木の枝を握りしめる。ずきりと棘の痛みを感じた。
「私の従卒に聞くといい」
ナサニエルが、ラタンの椅子から立ち上がった。
「あ、で、では相談にのっていただけませんか?レディ・シーリアの愚かな振る舞いのせいで、旦那様に叱られてしまって……」
シーリアの持つ枝がぱきりと折れた。
「……シーリアの?」
ナサニエルは椅子に座り直し、顎で続きを促した。
ミス・バークリーがパチパチとまばたきをして、両手を下ろした。
「……彼女の話なら聞いてくださるの?」
「それで、シーリアが何をしたと」
「あなたは彼女の家族なわけでもないでしょう?なんで……」
ナサニエルがイライラと肘掛けを指で叩く。
「ええと……やっぱりやめようかしら」
「ミス・バークリー……ふざけているのか?」
バークリーは面白くなさそうに肩をすくめた。
「……あなたもあの着飾った姿をご覧になったんでしょう?夜会のさなかなのに、彼女、場違いにうろうろして」
ナサニエルが目を伏せて、唇を噛んだ。
「……シーリアは好奇心が強いんだ。大目に見てやってくれ。父には私から話をしておこう。それと、彼女の評判を落とすようなことは、今後口にしないでほしい」
シーリアの目の奥がつんとしみた。
この優しさが、愛ならばいいのに……
「まあ、ずいぶん思いやりがあるのね。……そんなふうだから、彼女は誤解するのね」
ナサニエルの顔が少しずつ赤らむ。その様子をシーリアはじっと見つめた。
時間が止まったようだった。
バークリーが目を見開いて、ゆっくりと首を横に振った。
「もしかして……やだ、嘘でしょう?」
ナサニエルが顔をあげた。
「……彼女はまだ十四よ?」
体をこわばらせて、彼は何も答えない。
シーリアは頬を両手でおさえ、しゃがみこんだ。
足の力がぬけて、立ちあがれない。
テラコッタの鉢にすがりついて、再び二人を覗いた。
不自然なほど押し黙っていたバークリーが、突然、妖しくほほ笑んだ。
ベラドンナの目薬のせいか、ランプの光が映り込んだ彼女の瞳はやけにぎらぎらしている。
嫌な予感がした。
「なんだか、めまいがしてきたわ……」
バークリーがよろめく。
ナサニエルが立ち上がり、無言で彼女を支えた。
やめて……
シーリアは口を大きく開けた。
バークリーが不意をついて、ナサニエルにキスをした。