幼すぎた君との別れから
32話
二階の私室でジャケットとブリーチズに着替え、階段をおりた。玄関ホールの暖炉前に、あの女が座っている。
ナサニエルは気づかないふりをして、通り過ぎようとした。
「お待ちしておりましたわ、フォーチェスター卿。あまりお話ができませんでしたね」
ミセス・ヘイズが立ち上がった。
軽く会釈をして、階段裏手の地下室入り口に向かう。
「レディ・シーリアの婚約を破棄したいそうですね……夫を説得しましょうか?」
眉間に皺を寄せて足を止めた。ミセス・ヘイズがもったいつけた歩き方で階段裏までやってくる。
「あなたのすることは信頼できない」
「まあ酷い」
何が狙いだろうか。ナサニエルはじわじわと距離を取った。
「……あの日以来ですね。驚かれたでしょう?私が教授の妻だなんて……」
どうしてこんなに親しげに話しかけてくるのか、理解できない。
人の心の中に無理やり入り込もうとする彼女の目つきを、改めて不快に感じた。
「私の結婚、あなたはどうお思いになって?」
「別になにも」
ナサニエルは肩をすくめた。
「……そうですか」
ミセス・ヘイズは急に耳障りな声で笑った。
寒気がする。魔女がいるとしたらこんな女だろう。
「あなたの腕のことを知って、私も少し責任を感じていたのよ」
ミセス・ヘイズは閉じた扇子の先で、自分の首筋から胸元をゆっくりと撫でた。
「あなたのせいだと思ったことは一度もないよ」
淡々と答える。
「では、レディ・シーリアのせい?」
ナサニエルはじっとミセス・ヘイズを見据えた。
「……そうよ、彼女のせいだわ。なぜ婚約を破棄するの?フィリップ・ヘイズと結婚させればいいじゃない」
急にミセス・ヘイズは語気を荒げた。
「ミセス・ヘイズ……はっきり言ってあなたは部外者だ。嵐がやみ次第、早々に帰ってくれ」
ナサニエルは地下室に続くドアを開け、ミセス・ヘイズがついてこないように素早く閉めた。
食料は無事だろうか。
階段下から、使用人達の余裕のない声がする。
暖炉の火が消えた。シーリアは壁の呼び鈴を引いた。しばらく待っても誰も来なかった。
部屋を出て二階の回廊を歩いているとき、反対側からミセス・ヘイズが向かってきた。
肩がぶつかる。お互い何も言わずに通り過ぎた。
シーリアは詰めていた息を吐き出した。
「……フォーチェスター卿をお探し?」
両腕を抱えながら、ぎこちなく後ろを振り返った。
「……いいえ」
「彼ならさっき庭園に出て行ったわよ」
「外に?」
こんな嵐の中?
「何をしに?」
「知らないわ。被害の様子でも見に行ったんじゃない?」
ミセス・ヘイズは顔をつんとそらして、すたすたと歩いて行った。
シーリアは大階段を駆け下りた。玄関ドアを開けて、あまりの風の勢いに、一旦ドアを閉める。
こんな嵐の中……彼は無謀だわ……
ドアのそばでナサニエルの帰りを待った。三十分が限界だった。
シーリアはドア脇の棚からランタンを取り、中の蝋燭に火をつけた。
レインコートはどこかしら……どうして誰もいないの?
仕方なくそのまま外に出た。傘が裏返って飛ばされ、またたく間にずぶ濡れになった。
ふくらはぎの高さまで水に浸かった調理場。ナサニエルはクロッカーと二人、立ち尽くした。
「とても料理はできないな……」
「温かいお食事は難しいかと存じます、旦那様」
「ヘイズ教授に一声かけてくるとしよう」
ナサニエルは首の後ろをさすりながら階段をのぼった。水に濡れたブーツがひどく重い。
回廊の途中にある、客室へ続く通路の入り口。ミセス・ヘイズの声が聞こえる。手前で立ち止まった。
「それはまずいよ」
若い男の声。ヘイズ教授の息子だろう。
「すぐあきらめて帰ってくると思ったのよ。こんなに馬鹿だと思わなかった」
「レディ・シーリアは無事だろうか……何かあったらどうす──」
ナサニエルは壁を殴りつけた。二人がとたんに振り向く。
「シーリアはどこだ」
ミセス・ヘイズが小さく金切り声を上げて、男にすがりついた。
「庭園であなたを探しています……僕は無関係です、フォーチェスター卿」
ヘイズ教授の息子は、ミセス・ヘイズを振り払い、ぼそぼそと答えた。
耳鳴りの向こうに、雷の音が聞こえた。シーリアの父の命を奪った雷。
パニックを起こしているに違いない……
ナサニエルはミセス・ヘイズを指差した。指先が震える。
「ここで待っていろ……あとで殺してやる」
「……ま、まあ!軍人さんが言うと、冗談でも笑えないわ」
上ずった声で言う女から目をそらし、ナサニエルは玄関ホールまで走り下りた。
ドアを開けて飛び出した。風雨が叩きつけ、外は真っ暗。
見開いた目をぎゅっと閉じた。
シーリア……
怒号を上げて玄関の中に戻り、手こずりながらランタンに火をつけて、また外に飛び出した。
ナサニエルは気づかないふりをして、通り過ぎようとした。
「お待ちしておりましたわ、フォーチェスター卿。あまりお話ができませんでしたね」
ミセス・ヘイズが立ち上がった。
軽く会釈をして、階段裏手の地下室入り口に向かう。
「レディ・シーリアの婚約を破棄したいそうですね……夫を説得しましょうか?」
眉間に皺を寄せて足を止めた。ミセス・ヘイズがもったいつけた歩き方で階段裏までやってくる。
「あなたのすることは信頼できない」
「まあ酷い」
何が狙いだろうか。ナサニエルはじわじわと距離を取った。
「……あの日以来ですね。驚かれたでしょう?私が教授の妻だなんて……」
どうしてこんなに親しげに話しかけてくるのか、理解できない。
人の心の中に無理やり入り込もうとする彼女の目つきを、改めて不快に感じた。
「私の結婚、あなたはどうお思いになって?」
「別になにも」
ナサニエルは肩をすくめた。
「……そうですか」
ミセス・ヘイズは急に耳障りな声で笑った。
寒気がする。魔女がいるとしたらこんな女だろう。
「あなたの腕のことを知って、私も少し責任を感じていたのよ」
ミセス・ヘイズは閉じた扇子の先で、自分の首筋から胸元をゆっくりと撫でた。
「あなたのせいだと思ったことは一度もないよ」
淡々と答える。
「では、レディ・シーリアのせい?」
ナサニエルはじっとミセス・ヘイズを見据えた。
「……そうよ、彼女のせいだわ。なぜ婚約を破棄するの?フィリップ・ヘイズと結婚させればいいじゃない」
急にミセス・ヘイズは語気を荒げた。
「ミセス・ヘイズ……はっきり言ってあなたは部外者だ。嵐がやみ次第、早々に帰ってくれ」
ナサニエルは地下室に続くドアを開け、ミセス・ヘイズがついてこないように素早く閉めた。
食料は無事だろうか。
階段下から、使用人達の余裕のない声がする。
暖炉の火が消えた。シーリアは壁の呼び鈴を引いた。しばらく待っても誰も来なかった。
部屋を出て二階の回廊を歩いているとき、反対側からミセス・ヘイズが向かってきた。
肩がぶつかる。お互い何も言わずに通り過ぎた。
シーリアは詰めていた息を吐き出した。
「……フォーチェスター卿をお探し?」
両腕を抱えながら、ぎこちなく後ろを振り返った。
「……いいえ」
「彼ならさっき庭園に出て行ったわよ」
「外に?」
こんな嵐の中?
「何をしに?」
「知らないわ。被害の様子でも見に行ったんじゃない?」
ミセス・ヘイズは顔をつんとそらして、すたすたと歩いて行った。
シーリアは大階段を駆け下りた。玄関ドアを開けて、あまりの風の勢いに、一旦ドアを閉める。
こんな嵐の中……彼は無謀だわ……
ドアのそばでナサニエルの帰りを待った。三十分が限界だった。
シーリアはドア脇の棚からランタンを取り、中の蝋燭に火をつけた。
レインコートはどこかしら……どうして誰もいないの?
仕方なくそのまま外に出た。傘が裏返って飛ばされ、またたく間にずぶ濡れになった。
ふくらはぎの高さまで水に浸かった調理場。ナサニエルはクロッカーと二人、立ち尽くした。
「とても料理はできないな……」
「温かいお食事は難しいかと存じます、旦那様」
「ヘイズ教授に一声かけてくるとしよう」
ナサニエルは首の後ろをさすりながら階段をのぼった。水に濡れたブーツがひどく重い。
回廊の途中にある、客室へ続く通路の入り口。ミセス・ヘイズの声が聞こえる。手前で立ち止まった。
「それはまずいよ」
若い男の声。ヘイズ教授の息子だろう。
「すぐあきらめて帰ってくると思ったのよ。こんなに馬鹿だと思わなかった」
「レディ・シーリアは無事だろうか……何かあったらどうす──」
ナサニエルは壁を殴りつけた。二人がとたんに振り向く。
「シーリアはどこだ」
ミセス・ヘイズが小さく金切り声を上げて、男にすがりついた。
「庭園であなたを探しています……僕は無関係です、フォーチェスター卿」
ヘイズ教授の息子は、ミセス・ヘイズを振り払い、ぼそぼそと答えた。
耳鳴りの向こうに、雷の音が聞こえた。シーリアの父の命を奪った雷。
パニックを起こしているに違いない……
ナサニエルはミセス・ヘイズを指差した。指先が震える。
「ここで待っていろ……あとで殺してやる」
「……ま、まあ!軍人さんが言うと、冗談でも笑えないわ」
上ずった声で言う女から目をそらし、ナサニエルは玄関ホールまで走り下りた。
ドアを開けて飛び出した。風雨が叩きつけ、外は真っ暗。
見開いた目をぎゅっと閉じた。
シーリア……
怒号を上げて玄関の中に戻り、手こずりながらランタンに火をつけて、また外に飛び出した。