幼すぎた君との別れから

34話

 たくましい体が離れて、シーリアは体の一部がもぎ取られたような気がした。

 何かの衝撃音。

 その人がまた近づいてきた。徐々に目の焦点が合う。

「ネイト……」

 ナサニエルが立ち止まり、しばらく瞼を閉じたあと頷いた。

 ここは……

 シーリアは耳に押しあてていた手をゆっくりとおろした。

 風に吹かれた玄関ドアが壁を叩き続けている。
 ドレイクが、少し離れた所からじっと見ていた。

「よくやった。ドレイク」
 ランタンを拾い、ナサニエルが言った。

 そうだった──

「……ボートハウスに入ろうと」

「おいで……」

 ナサニエルはばたつくドアを背中でおさえた。シーリアはよろよろと立ち上がりボートハウスの中に入った。

 ランタンの灯りを頼りに、内階段のある狭い玄関ホールを抜け、サロンに入る。
 ナサニエルが後ろで内ドアを閉める音。
 ドレイクはブルブルと体を振って水を散らしたあと、暖炉に向かい、伏せて体を舐め始めた。

 一面が窓になった左右の壁。後ろから吹き込むすきま風に、カーテンが揺れていた。シーリアは部屋の真ん中に立ち、窓からできる限り離れた。

 建物の中だもの、大丈夫……きっと、大丈夫……


 ナサニエルが暖炉の中に薪を組む。マッチをレンガでこすり火をつけると、薪の上の枝にのせた。

 少しずつ、薪に火が燃え広がり、サロンの中が炎の色に照らされた。

「……あなたを探してたの」
 小さくつぶやく。

 ナサニエルはこちらをひとつも見ない。背中が怒っているように見えた。

「……私を探してたの?」

「ああ」

 音もなくやってきたナサニエルが、シーリアを抱きしめた。
 彼の体は小刻みに震えている。
 ナサニエルを見上げながら、彼の背中に両手を回した。仄暗い灰色の瞳……

 冷たい体だった。
 自分の体も濡れて冷え切っている。彼を温めたくても、できない……

 雷が光る。目を閉じて、耳を塞いだ。

 大きな雷鳴に叫んだ。

 ナサニエルが左腕に力を込めたあと、離れた。

「いやっ」

「少し待っていてくれ」

 彼が窓のカーテンを一つずつ閉めて回る。そのままドアに向かった。

「ネイト……」

「すぐ戻る」

 ナサニエルがサロンを出てドアを閉めた。シーリアはドアを見ながら体を凍りつかせた。



 ナサニエルはなかなか戻らない。
 暖炉前の床に座り、ドレイクに身を寄せた。

『深く息をして』

 以前ナサニエルに言われた通りにゆっくりと呼吸を繰り返す。

 雷はあれっきり。玄関ドアは相変わらず激しく音をたてていた。

 ドレイクの体も震えている。
 シーリアは椅子からクッションを取り、ドレイクの体から水を吸い取った。

 ドレイクが張りつめたシーリアの顔を舐めた。

 何か食べ物があったはず……

 サイドテーブルの上にビスケット缶を見つけた。夏にフローレンスが置いていったものだろう。
 水差しの水はいつのものか分からない。ドレイクに飲ませるのは諦めた。

 堅焼きの丸いビスケットを手に取り、割ってドレイクに与えた。
 二枚食べたあと、ドレイクは暖炉の前で眠った。


 キャビネットに、昔ナサニエルとフローレンスとで遊んだトランプを見つけた。
 
 それを手に取り、眠るドレイクのもとに戻った。かじかんだ手で意味なくカードをいじりながら、時計を何度も確認する。
 歯が震えてカチカチと鳴った。

 二十分が過ぎた。



 サロンを出ると、ナサニエルは内階段をおりドアを開けて船着き場に出た。
 収納ベンチの中に毛布が一枚。こわばった肩が少し下がる。

 毛布を肩にかけ、壁にフックでかかったロープとナイフを取り、また階段をのぼった。

 暴れる玄関ドアを何とかしないと、ここも外と変わらない。
 足と歯で張ったロープを左手のナイフで切る。両手があった頃は難なくできたことが、今は手間取りながらでしかできない。
 吹き込む雨風に打たれながら、何とかドアノブ同士を縛り付け玄関ドアを固定した。

 ナサニエルは振り向いて後ろのサロンを見つめた。

 狂気が波のように繰り返し押し寄せて、まだあそこには戻れない。

 シーリアを見つけたのに、ひどく気が立っていた。



 ドアが壁に打ちつける音が止んだ。
 少し待ってから、シーリアはサロンを出た。

 ドアの前の床に残された、ろうそくの短くなったランタン、ロープとナイフ。階段脇に毛布。
 シーリアはランタンを持ち上げて、そわそわと周りを見回した。

 ナサニエルはホールの隅の壁にもたれていた。初めは、暗くて気がつかなかった。

「ネイト……どうしたの?」

 彼は毛布を拾い肩にかけると、ゆっくりと近づき、シーリアの背中に腕を回した。

「部屋に戻ろう」

 いつもより聞き取りにくい声。シーリアはナサニエルの顔を見あげた。
 野性味を帯びた無表情な顔。
 彼にあからさまに唇を見つめられて、あわてて目をそらした。
 

 サロンに入るとドレイクの寝息が聞こえた。

「……何か食べる?」

 ビスケットしか、まだ見つけていないけれど……

「いや」

 シーリアは目を伏せてうなずいた。
 気を取り直して風と雨の音に耳を澄ませる。

「……嵐がやんだら帰る?」

「今日は無理だろう」

 ナサニエルはシーリアのそばの椅子に毛布を置き、少し離れてジャケットのボタンを外し始めた。

「君もその濡れた服を脱いで」

 シーリアは胸元をぎゅっと握りしめた。
 いずれそう言われる気はしていた。

 ぐっしょりと濡れて重たくなったドレスや肌着は、熱を奪い続けている。
 脱げば震えはましになるだろうけれど……

「……脱ぐ必要ある?」

「凍えて死にたくなければ」

「着るものがないの……」

「毛布を被ればいい」

 平然とウエストコートを脱ぎ捨てるナサニエル。

 シーリアの空っぽな胃がきゅっと縮んだ。

 椅子の後ろに膝をついて、シーリアは身を隠した。ドレスの前にずらりと並んだボタンを少しずつ外す。

 椅子の背もたれ越しに彼を覗き見た。裸の上半身が見える。唾が飲み込めない。

 シーリアはコルセットで締め上げた体を見下ろした。ミス・バークリーほど胸は大きく育たなかった。

 何を考えているの。彼にその気はないわ──

 コルセットのフックを外す。
 何枚も重ねた服をやっとのことで脱ぎ、絨毯の上に裸で座り込んで小さく息をついた。

 肌が息を吹き返したかのよう……
 水分がどれだけ体温を奪っていたのか、ひしひしと感じた。

 裸の胸を見下ろして、両腕でそっと隠した。
 毛布はどこだったかしら。

 後ろからふいに肩を撫でられて、体がビクッと跳ねた。
 


 ナサニエルが後ろに膝をついた。肩を這う彼の唇。

「ネ、ネイト……」

 肌についた水滴を吸われて、シーリアは小さなあえぎ声を漏らした。

 今のは私の声?

 ぎこちなく顔だけ振り向いた。彼の沈んだ灰色の目は、瞳孔がぽっかりと開いている。

 厚い胸板。ナサニエルと裸でいることを、シーリアは強烈に意識した。

 毛布を……

「……君を感じたい、シーリア……」
 乞うようなかすかなつぶやき。

 ざわっと肌が騒いだ。
 体の奥がイエスと熱を帯びて、うずいていく。
 
 ナサニエルが彼女の手を引き、立ち上がらせた。
 ぴったりと前から抱き寄せられて、息を飲んだ。彼の香り……

「温かくなってきた……」

 シーリアはナサニエルの胸に頭をのせてうなずいた。

「ネイト……あ、愛してる」
 小声でささやいた。

 彼の手に力がこもる。

 ナサニエルを見あげた。おののきながら、答えを待つ。

 ピンと張りつめたナサニエルの顔に、どん欲な笑みが浮かんだ。
 それだけだった。
  
 シーリアは顔を伏せて、落胆した顔を隠した。

 ナサニエルがシーリアの顎を上げた。優しい口づけ。次第に深くなってお互いの息が上がった。

 ナサニエルは体を離して椅子から毛布を取った。丸いテーブルを動かし絨毯の上にそれを広げる。

 シーリアは彼の手に誘われるがままに毛布の上に横たわり、手で体を覆った。

 私達がこんなことしてるなんて……信じられない……

 暖炉の前で眠るドレイクのそばに、トランプカードが散らばっている。
 なぜか胸がちくりと痛んだ。

 彼が傍らで、しげしげと全身を見つめていた。

「……シーリア、隠してはだめだ」

 ナサニエルがまたがった。彼は何も隠していない。腕も……

 片腕が無くても、彼は美しかった。

 シーリアは体を隠すのをやめた。両手をたくましいナサニエルの肩に這わせてそろそろと撫でた。

 ナサニエルの顔に抑えた笑みが広がる。彼の体が、逃げ場なく覆い被さった。



 二人でくるまった毛布が少しずつずれ落ちる。

 ナサニエルは左腕のみで上半身を支えた。腕をなくしたことを、ここまで歯がゆく感じたことは無かった。

 シーリアの反応をとらえながら、必死に自分を抑えてその時を伸ばす。

 シーリアの首に顔をうずめた。彼女が息をつめてナサニエルの肩を噛んだ。

「シーリア!」

 未知の高さまで昇り詰めた瞬間、ナサニエルの脳は甘く激しくしびれ、意識が次第に飛んでいった。

 

 ナサニエルは、はっと目を覚ました。 

 なんてことだ……シーリアを押しつぶしている。
 あわてて体を横にずらした。

 物憂い動きで時計に目を向けた。もう早朝だった。外からは嵐の音が聞こえなくなっている。
 
 暖炉に行き、また薪を組んで火をつけた。
 足元に昔シーリアにせがまれて遊んだトランプカードが落ちていた。

 妙に落ち着かない気分になった。


 彼女のもとに戻り、足を交差して座った。シーリアに噛まれた右肩を手で包みながら彼女を見つめる。

 安らいだシーリアの寝顔。胸がうずく。

 満足させられたはずだ。

 目を閉じて、彼女の波打つ体、あえぎ声を思い出す。 
 ナサニエルの顔に抑えきれない笑みがこぼれた。

 キスで赤く腫れたシーリアの唇。手を伸ばしかけて止めた。

 初めてだったシーリア。無理はさせたくない。

 シーリアが寝返りをうち、体がはだけた。ナサニエルはたおやかな白い背中を目を細めて愛でた。


 ふと、彼女の腰のあったあたりに血のしみを見つけた。

 ナサニエルは顔を手で覆いうめき声をもらした。
 水をかけられたかのように、頭が冷える。

 痛い思いをさせてしまっただろうか。
 しばらく呆然と、それを眺めた。

 馬鹿なことを……彼女のバージンを床で奪ってしまった。
 静かにシーリアに毛布をかけ直した。

 シーリアは許してくれるだろうか……



「ネイト……」

 シーリアは目覚めると同時に、ナサニエルの名前をぼんやりとつぶやいた。

 すこしして、彼が後ろに横たわるのを感じた。

 体に回された彼の片腕。シーリアはほっとして、ナサニエルの手に手を重ねた。

 まだ、彼の顔は見られない。夕べのことが衝撃だった。
 新しい距離の取り具合が分からない。

 彼の左手をそわそわといじりながら、唇を噛む。

「……痛みは?」
 ナサニエルが後ろから穏やかに尋ねた。

 正直にうなずくと彼の体がたちまちこわばった。急いで首を横に振った。

「次は痛くない。約束する」
 彼は絞り出すように言いながら、腕に力を込めた。

 次がある──シーリアは身震いをした。体がまた熱くなる。

 ナサニエルは彼女のお腹を慎重な手つきで撫でた。
 シーリアの口から吐息が漏れる。

 静かに彼の手が離れた。シーリアは後ろを振り返った。
 ナサニエルが苦笑していた。

「この調子では、すぐに子供ができてしまいそうだ……」
 
 ナサニエルの言葉に、体がギクッと縮みあがった。
 寝返りをうち、彼から離れる。

「シーリア?」

「喉が渇いたみたい」

 黙って毛布を羽織り、それを引きずりながらキャビネットに向かった。扉を開けて飲み物を探す。見つからない。並ぶドアを開けては閉めた。

 ナサニエルが裸のままやって来た。まだ見慣れない姿。シーリアは視線を少しそらした。
 かつてなく、心がかき乱される。

「シーリア……」

「喉が渇いたの」

 彼は迷いなく右端の扉を開け、デカンタを取り出した。

 怪訝な顔でシーリアをちらちらと見ながら、ナサニエルはグラスにダークレッドの液体を注いでいる。
 グラスを差し出した。

「……ロンドンに行って、特別結婚許可証をもらってくるよ」

 シーリアは受け取ったグラスを取り落とした。

「シーリア!」

 絨毯にポートワインが染み込んでいった。

「怪我は?」

 グラスは無事だった。

「だ、大丈夫。……け、結婚許可証?それは……私達の?」
 声が裏返った。

 ナサニエルは不自然に黙り込んだ。
 デカンタをテーブルに音をたてて置く。
 耳が赤い。

「どうして驚く。決まっているだろう?」

 シーリアは体の力が抜けて、キャビネットにもたれた。
──ネイトと私が結婚?

 口を両手で覆い、彼の言葉を噛み締めた。視界が白くまばゆくなり、体が浮いている気がする。

 ナサニエルは彼女をじっと見ながら眉間に皺を寄せている。

「今日中に婚約撤回通知をヘイズへ送る。それで、やつと君の婚約は終わりだ」

 シーリアは素早くキャビネットから体を起こした。

「や、やめて、だめよ!またフィリップがあなたを傷つけるかもしれない!」
 
 ナサニエルが激しくまばたきをした。

「……こ、怖いの」
 小さくつぶやきながら、指先をいじる。

 ナサニエルがゆっくりと近づいて、シーリアの腰に腕を回した。
 急に白い歯を見せて笑った。

「そんなことを心配しているのか?」

「……そんなこと?」

「シーリー……あの時は油断していただけだ。もう二度とやられるもんか……君が心配ならヘイズを立ち入り禁止にしても──」
「そうして」
 
 ナサニエルは彼女の頭に優しい口づけを落とした。

「……分かった」

 シーリアは彼を見上げた。輝く瞳がまっすぐに見返してくる。自然と励まされた。

「シーリア、こうなってしまったからには急がないと……子供が出来るかもしれない」

 ナサニエルの胸に頬をのせた。

 目の奥が熱くなる。気づくとお腹に手をあてていた。

「ヘイズを説得して円満に婚約解消することができなかった。やつは裁判にして騒ぎ立てるだろう。君の名誉を守れなかったことを──許してほしい」
 ぼそぼそとナサニエルが言った。

「フィリップを説得しようとしてたの?」

 彼は苦い顔になって顔をそらした。

「ネイト……」

 無心でナサニエルにしがみつく。一度離れ、毛布を開き、彼を招き入れて再び抱きしめた。

「誰に何と言われてもいい。社交界から離れて、あなたとここで暮らすの」

 シーリアは彼と目を合わせ、夢見心地になりながらほほ笑んだ。

 ナサニエルの息が震える。

「シーリア……」
 ナサニエルがついばむように口づけをした。
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