幼すぎた君との別れから
34話
たくましい体が離れて、シーリアは体の一部がもぎ取られたような気がした。
何かの衝撃音。
その人がまた近づいてきた。徐々に目の焦点が合う。
「ネイト……」
ナサニエルが立ち止まり、しばらく瞼を閉じたあと頷いた。
ここは……
シーリアは耳に押しあてていた手をゆっくりとおろした。
風に吹かれた玄関ドアが壁を叩き続けている。
ドレイクが、少し離れた所からじっと見ていた。
「よくやった。ドレイク」
ランタンを拾い、ナサニエルが言った。
そうだった──
「……ボートハウスに入ろうと」
「おいで……」
ナサニエルはばたつくドアを背中でおさえた。シーリアはよろよろと立ち上がりボートハウスの中に入った。
ランタンの灯りを頼りに、内階段のある狭い玄関ホールを抜け、サロンに入る。
ナサニエルが後ろで内ドアを閉める音。
ドレイクはブルブルと体を振って水を散らしたあと、暖炉に向かい、伏せて体を舐め始めた。
一面が窓になった左右の壁。後ろから吹き込むすきま風に、カーテンが揺れていた。シーリアは部屋の真ん中に立ち、窓からできる限り離れた。
建物の中だもの、大丈夫……きっと、大丈夫……
ナサニエルが暖炉の中に薪を組む。マッチをレンガでこすり火をつけると、薪の上の枝にのせた。
少しずつ、薪に火が燃え広がり、サロンの中が炎の色に照らされた。
「……あなたを探してたの」
小さくつぶやく。
ナサニエルはこちらをひとつも見ない。背中が怒っているように見えた。
「……私を探してたの?」
「ああ」
音もなくやってきたナサニエルが、シーリアを抱きしめた。
彼の体は小刻みに震えている。
ナサニエルを見上げながら、彼の背中に両手を回した。仄暗い灰色の瞳……
冷たい体だった。
自分の体も濡れて冷え切っている。彼を温めたくても、できない……
雷が光る。目を閉じて、耳を塞いだ。
大きな雷鳴に叫んだ。
ナサニエルが左腕に力を込めたあと、離れた。
「いやっ」
「少し待っていてくれ」
彼が窓のカーテンを一つずつ閉めて回る。そのままドアに向かった。
「ネイト……」
「すぐ戻る」
ナサニエルがサロンを出てドアを閉めた。シーリアはドアを見ながら体を凍りつかせた。
ナサニエルはなかなか戻らない。
暖炉前の床に座り、ドレイクに身を寄せた。
『深く息をして』
以前ナサニエルに言われた通りにゆっくりと呼吸を繰り返す。
雷はあれっきり。玄関ドアは相変わらず激しく音をたてていた。
ドレイクの体も震えている。
シーリアは椅子からクッションを取り、ドレイクの体から水を吸い取った。
ドレイクが張りつめたシーリアの顔を舐めた。
何か食べ物があったはず……
サイドテーブルの上にビスケット缶を見つけた。夏にフローレンスが置いていったものだろう。
水差しの水はいつのものか分からない。ドレイクに飲ませるのは諦めた。
堅焼きの丸いビスケットを手に取り、割ってドレイクに与えた。
二枚食べたあと、ドレイクは暖炉の前で眠った。
キャビネットに、昔ナサニエルとフローレンスとで遊んだトランプを見つけた。
それを手に取り、眠るドレイクのもとに戻った。かじかんだ手で意味なくカードをいじりながら、時計を何度も確認する。
歯が震えてカチカチと鳴った。
二十分が過ぎた。
サロンを出ると、ナサニエルは内階段をおりドアを開けて船着き場に出た。
収納ベンチの中に毛布が一枚。こわばった肩が少し下がる。
毛布を肩にかけ、壁にフックでかかったロープとナイフを取り、また階段をのぼった。
暴れる玄関ドアを何とかしないと、ここも外と変わらない。
足と歯で張ったロープを左手のナイフで切る。両手があった頃は難なくできたことが、今は手間取りながらでしかできない。
吹き込む雨風に打たれながら、何とかドアノブ同士を縛り付け玄関ドアを固定した。
ナサニエルは振り向いて後ろのサロンを見つめた。
狂気が波のように繰り返し押し寄せて、まだあそこには戻れない。
シーリアを見つけたのに、ひどく気が立っていた。
ドアが壁に打ちつける音が止んだ。
少し待ってから、シーリアはサロンを出た。
ドアの前の床に残された、ろうそくの短くなったランタン、ロープとナイフ。階段脇に毛布。
シーリアはランタンを持ち上げて、そわそわと周りを見回した。
ナサニエルはホールの隅の壁にもたれていた。初めは、暗くて気がつかなかった。
「ネイト……どうしたの?」
彼は毛布を拾い肩にかけると、ゆっくりと近づき、シーリアの背中に腕を回した。
「部屋に戻ろう」
いつもより聞き取りにくい声。シーリアはナサニエルの顔を見あげた。
野性味を帯びた無表情な顔。
彼にあからさまに唇を見つめられて、あわてて目をそらした。
サロンに入るとドレイクの寝息が聞こえた。
「……何か食べる?」
ビスケットしか、まだ見つけていないけれど……
「いや」
シーリアは目を伏せてうなずいた。
気を取り直して風と雨の音に耳を澄ませる。
「……嵐がやんだら帰る?」
「今日は無理だろう」
ナサニエルはシーリアのそばの椅子に毛布を置き、少し離れてジャケットのボタンを外し始めた。
「君もその濡れた服を脱いで」
シーリアは胸元をぎゅっと握りしめた。
いずれそう言われる気はしていた。
ぐっしょりと濡れて重たくなったドレスや肌着は、熱を奪い続けている。
脱げば震えはましになるだろうけれど……
「……脱ぐ必要ある?」
「凍えて死にたくなければ」
「着るものがないの……」
「毛布を被ればいい」
平然とウエストコートを脱ぎ捨てるナサニエル。
シーリアの空っぽな胃がきゅっと縮んだ。
椅子の後ろに膝をついて、シーリアは身を隠した。ドレスの前にずらりと並んだボタンを少しずつ外す。
椅子の背もたれ越しに彼を覗き見た。裸の上半身が見える。唾が飲み込めない。
シーリアはコルセットで締め上げた体を見下ろした。ミス・バークリーほど胸は大きく育たなかった。
何を考えているの。彼にその気はないわ──
コルセットのフックを外す。
何枚も重ねた服をやっとのことで脱ぎ、絨毯の上に裸で座り込んで小さく息をついた。
肌が息を吹き返したかのよう……
水分がどれだけ体温を奪っていたのか、ひしひしと感じた。
裸の胸を見下ろして、両腕でそっと隠した。
毛布はどこだったかしら。
後ろからふいに肩を撫でられて、体がビクッと跳ねた。
ナサニエルが後ろに膝をついた。肩を這う彼の唇。
「ネ、ネイト……」
肌についた水滴を吸われて、シーリアは小さなあえぎ声を漏らした。
今のは私の声?
ぎこちなく顔だけ振り向いた。彼の沈んだ灰色の目は、瞳孔がぽっかりと開いている。
厚い胸板。ナサニエルと裸でいることを、シーリアは強烈に意識した。
毛布を……
「……君を感じたい、シーリア……」
乞うようなかすかなつぶやき。
ざわっと肌が騒いだ。
体の奥がイエスと熱を帯びて、うずいていく。
ナサニエルが彼女の手を引き、立ち上がらせた。
ぴったりと前から抱き寄せられて、息を飲んだ。彼の香り……
「温かくなってきた……」
シーリアはナサニエルの胸に頭をのせてうなずいた。
「ネイト……あ、愛してる」
小声でささやいた。
彼の手に力がこもる。
ナサニエルを見あげた。おののきながら、答えを待つ。
ピンと張りつめたナサニエルの顔に、どん欲な笑みが浮かんだ。
それだけだった。
シーリアは顔を伏せて、落胆した顔を隠した。
ナサニエルがシーリアの顎を上げた。優しい口づけ。次第に深くなってお互いの息が上がった。
ナサニエルは体を離して椅子から毛布を取った。丸いテーブルを動かし絨毯の上にそれを広げる。
シーリアは彼の手に誘われるがままに毛布の上に横たわり、手で体を覆った。
私達がこんなことしてるなんて……信じられない……
暖炉の前で眠るドレイクのそばに、トランプカードが散らばっている。
なぜか胸がちくりと痛んだ。
彼が傍らで、しげしげと全身を見つめていた。
「……シーリア、隠してはだめだ」
ナサニエルがまたがった。彼は何も隠していない。腕も……
片腕が無くても、彼は美しかった。
シーリアは体を隠すのをやめた。両手をたくましいナサニエルの肩に這わせてそろそろと撫でた。
ナサニエルの顔に抑えた笑みが広がる。彼の体が、逃げ場なく覆い被さった。
二人でくるまった毛布が少しずつずれ落ちる。
ナサニエルは左腕のみで上半身を支えた。腕をなくしたことを、ここまで歯がゆく感じたことは無かった。
シーリアの反応をとらえながら、必死に自分を抑えてその時を伸ばす。
シーリアの首に顔をうずめた。彼女が息をつめてナサニエルの肩を噛んだ。
「シーリア!」
未知の高さまで昇り詰めた瞬間、ナサニエルの脳は甘く激しくしびれ、意識が次第に飛んでいった。
ナサニエルは、はっと目を覚ました。
なんてことだ……シーリアを押しつぶしている。
あわてて体を横にずらした。
物憂い動きで時計に目を向けた。もう早朝だった。外からは嵐の音が聞こえなくなっている。
暖炉に行き、また薪を組んで火をつけた。
足元に昔シーリアにせがまれて遊んだトランプカードが落ちていた。
妙に落ち着かない気分になった。
彼女のもとに戻り、足を交差して座った。シーリアに噛まれた右肩を手で包みながら彼女を見つめる。
安らいだシーリアの寝顔。胸がうずく。
満足させられたはずだ。
目を閉じて、彼女の波打つ体、あえぎ声を思い出す。
ナサニエルの顔に抑えきれない笑みがこぼれた。
キスで赤く腫れたシーリアの唇。手を伸ばしかけて止めた。
初めてだったシーリア。無理はさせたくない。
シーリアが寝返りをうち、体がはだけた。ナサニエルはたおやかな白い背中を目を細めて愛でた。
ふと、彼女の腰のあったあたりに血のしみを見つけた。
ナサニエルは顔を手で覆いうめき声をもらした。
水をかけられたかのように、頭が冷える。
痛い思いをさせてしまっただろうか。
しばらく呆然と、それを眺めた。
馬鹿なことを……彼女のバージンを床で奪ってしまった。
静かにシーリアに毛布をかけ直した。
シーリアは許してくれるだろうか……
「ネイト……」
シーリアは目覚めると同時に、ナサニエルの名前をぼんやりとつぶやいた。
すこしして、彼が後ろに横たわるのを感じた。
体に回された彼の片腕。シーリアはほっとして、ナサニエルの手に手を重ねた。
まだ、彼の顔は見られない。夕べのことが衝撃だった。
新しい距離の取り具合が分からない。
彼の左手をそわそわといじりながら、唇を噛む。
「……痛みは?」
ナサニエルが後ろから穏やかに尋ねた。
正直にうなずくと彼の体がたちまちこわばった。急いで首を横に振った。
「次は痛くない。約束する」
彼は絞り出すように言いながら、腕に力を込めた。
次がある──シーリアは身震いをした。体がまた熱くなる。
ナサニエルは彼女のお腹を慎重な手つきで撫でた。
シーリアの口から吐息が漏れる。
静かに彼の手が離れた。シーリアは後ろを振り返った。
ナサニエルが苦笑していた。
「この調子では、すぐに子供ができてしまいそうだ……」
ナサニエルの言葉に、体がギクッと縮みあがった。
寝返りをうち、彼から離れる。
「シーリア?」
「喉が渇いたみたい」
黙って毛布を羽織り、それを引きずりながらキャビネットに向かった。扉を開けて飲み物を探す。見つからない。並ぶドアを開けては閉めた。
ナサニエルが裸のままやって来た。まだ見慣れない姿。シーリアは視線を少しそらした。
かつてなく、心がかき乱される。
「シーリア……」
「喉が渇いたの」
彼は迷いなく右端の扉を開け、デカンタを取り出した。
怪訝な顔でシーリアをちらちらと見ながら、ナサニエルはグラスにダークレッドの液体を注いでいる。
グラスを差し出した。
「……ロンドンに行って、特別結婚許可証をもらってくるよ」
シーリアは受け取ったグラスを取り落とした。
「シーリア!」
絨毯にポートワインが染み込んでいった。
「怪我は?」
グラスは無事だった。
「だ、大丈夫。……け、結婚許可証?それは……私達の?」
声が裏返った。
ナサニエルは不自然に黙り込んだ。
デカンタをテーブルに音をたてて置く。
耳が赤い。
「どうして驚く。決まっているだろう?」
シーリアは体の力が抜けて、キャビネットにもたれた。
──ネイトと私が結婚?
口を両手で覆い、彼の言葉を噛み締めた。視界が白くまばゆくなり、体が浮いている気がする。
ナサニエルは彼女をじっと見ながら眉間に皺を寄せている。
「今日中に婚約撤回通知をヘイズへ送る。それで、やつと君の婚約は終わりだ」
シーリアは素早くキャビネットから体を起こした。
「や、やめて、だめよ!またフィリップがあなたを傷つけるかもしれない!」
ナサニエルが激しくまばたきをした。
「……こ、怖いの」
小さくつぶやきながら、指先をいじる。
ナサニエルがゆっくりと近づいて、シーリアの腰に腕を回した。
急に白い歯を見せて笑った。
「そんなことを心配しているのか?」
「……そんなこと?」
「シーリー……あの時は油断していただけだ。もう二度とやられるもんか……君が心配ならヘイズを立ち入り禁止にしても──」
「そうして」
ナサニエルは彼女の頭に優しい口づけを落とした。
「……分かった」
シーリアは彼を見上げた。輝く瞳がまっすぐに見返してくる。自然と励まされた。
「シーリア、こうなってしまったからには急がないと……子供が出来るかもしれない」
ナサニエルの胸に頬をのせた。
目の奥が熱くなる。気づくとお腹に手をあてていた。
「ヘイズを説得して円満に婚約解消することができなかった。やつは裁判にして騒ぎ立てるだろう。君の名誉を守れなかったことを──許してほしい」
ぼそぼそとナサニエルが言った。
「フィリップを説得しようとしてたの?」
彼は苦い顔になって顔をそらした。
「ネイト……」
無心でナサニエルにしがみつく。一度離れ、毛布を開き、彼を招き入れて再び抱きしめた。
「誰に何と言われてもいい。社交界から離れて、あなたとここで暮らすの」
シーリアは彼と目を合わせ、夢見心地になりながらほほ笑んだ。
ナサニエルの息が震える。
「シーリア……」
ナサニエルがついばむように口づけをした。
何かの衝撃音。
その人がまた近づいてきた。徐々に目の焦点が合う。
「ネイト……」
ナサニエルが立ち止まり、しばらく瞼を閉じたあと頷いた。
ここは……
シーリアは耳に押しあてていた手をゆっくりとおろした。
風に吹かれた玄関ドアが壁を叩き続けている。
ドレイクが、少し離れた所からじっと見ていた。
「よくやった。ドレイク」
ランタンを拾い、ナサニエルが言った。
そうだった──
「……ボートハウスに入ろうと」
「おいで……」
ナサニエルはばたつくドアを背中でおさえた。シーリアはよろよろと立ち上がりボートハウスの中に入った。
ランタンの灯りを頼りに、内階段のある狭い玄関ホールを抜け、サロンに入る。
ナサニエルが後ろで内ドアを閉める音。
ドレイクはブルブルと体を振って水を散らしたあと、暖炉に向かい、伏せて体を舐め始めた。
一面が窓になった左右の壁。後ろから吹き込むすきま風に、カーテンが揺れていた。シーリアは部屋の真ん中に立ち、窓からできる限り離れた。
建物の中だもの、大丈夫……きっと、大丈夫……
ナサニエルが暖炉の中に薪を組む。マッチをレンガでこすり火をつけると、薪の上の枝にのせた。
少しずつ、薪に火が燃え広がり、サロンの中が炎の色に照らされた。
「……あなたを探してたの」
小さくつぶやく。
ナサニエルはこちらをひとつも見ない。背中が怒っているように見えた。
「……私を探してたの?」
「ああ」
音もなくやってきたナサニエルが、シーリアを抱きしめた。
彼の体は小刻みに震えている。
ナサニエルを見上げながら、彼の背中に両手を回した。仄暗い灰色の瞳……
冷たい体だった。
自分の体も濡れて冷え切っている。彼を温めたくても、できない……
雷が光る。目を閉じて、耳を塞いだ。
大きな雷鳴に叫んだ。
ナサニエルが左腕に力を込めたあと、離れた。
「いやっ」
「少し待っていてくれ」
彼が窓のカーテンを一つずつ閉めて回る。そのままドアに向かった。
「ネイト……」
「すぐ戻る」
ナサニエルがサロンを出てドアを閉めた。シーリアはドアを見ながら体を凍りつかせた。
ナサニエルはなかなか戻らない。
暖炉前の床に座り、ドレイクに身を寄せた。
『深く息をして』
以前ナサニエルに言われた通りにゆっくりと呼吸を繰り返す。
雷はあれっきり。玄関ドアは相変わらず激しく音をたてていた。
ドレイクの体も震えている。
シーリアは椅子からクッションを取り、ドレイクの体から水を吸い取った。
ドレイクが張りつめたシーリアの顔を舐めた。
何か食べ物があったはず……
サイドテーブルの上にビスケット缶を見つけた。夏にフローレンスが置いていったものだろう。
水差しの水はいつのものか分からない。ドレイクに飲ませるのは諦めた。
堅焼きの丸いビスケットを手に取り、割ってドレイクに与えた。
二枚食べたあと、ドレイクは暖炉の前で眠った。
キャビネットに、昔ナサニエルとフローレンスとで遊んだトランプを見つけた。
それを手に取り、眠るドレイクのもとに戻った。かじかんだ手で意味なくカードをいじりながら、時計を何度も確認する。
歯が震えてカチカチと鳴った。
二十分が過ぎた。
サロンを出ると、ナサニエルは内階段をおりドアを開けて船着き場に出た。
収納ベンチの中に毛布が一枚。こわばった肩が少し下がる。
毛布を肩にかけ、壁にフックでかかったロープとナイフを取り、また階段をのぼった。
暴れる玄関ドアを何とかしないと、ここも外と変わらない。
足と歯で張ったロープを左手のナイフで切る。両手があった頃は難なくできたことが、今は手間取りながらでしかできない。
吹き込む雨風に打たれながら、何とかドアノブ同士を縛り付け玄関ドアを固定した。
ナサニエルは振り向いて後ろのサロンを見つめた。
狂気が波のように繰り返し押し寄せて、まだあそこには戻れない。
シーリアを見つけたのに、ひどく気が立っていた。
ドアが壁に打ちつける音が止んだ。
少し待ってから、シーリアはサロンを出た。
ドアの前の床に残された、ろうそくの短くなったランタン、ロープとナイフ。階段脇に毛布。
シーリアはランタンを持ち上げて、そわそわと周りを見回した。
ナサニエルはホールの隅の壁にもたれていた。初めは、暗くて気がつかなかった。
「ネイト……どうしたの?」
彼は毛布を拾い肩にかけると、ゆっくりと近づき、シーリアの背中に腕を回した。
「部屋に戻ろう」
いつもより聞き取りにくい声。シーリアはナサニエルの顔を見あげた。
野性味を帯びた無表情な顔。
彼にあからさまに唇を見つめられて、あわてて目をそらした。
サロンに入るとドレイクの寝息が聞こえた。
「……何か食べる?」
ビスケットしか、まだ見つけていないけれど……
「いや」
シーリアは目を伏せてうなずいた。
気を取り直して風と雨の音に耳を澄ませる。
「……嵐がやんだら帰る?」
「今日は無理だろう」
ナサニエルはシーリアのそばの椅子に毛布を置き、少し離れてジャケットのボタンを外し始めた。
「君もその濡れた服を脱いで」
シーリアは胸元をぎゅっと握りしめた。
いずれそう言われる気はしていた。
ぐっしょりと濡れて重たくなったドレスや肌着は、熱を奪い続けている。
脱げば震えはましになるだろうけれど……
「……脱ぐ必要ある?」
「凍えて死にたくなければ」
「着るものがないの……」
「毛布を被ればいい」
平然とウエストコートを脱ぎ捨てるナサニエル。
シーリアの空っぽな胃がきゅっと縮んだ。
椅子の後ろに膝をついて、シーリアは身を隠した。ドレスの前にずらりと並んだボタンを少しずつ外す。
椅子の背もたれ越しに彼を覗き見た。裸の上半身が見える。唾が飲み込めない。
シーリアはコルセットで締め上げた体を見下ろした。ミス・バークリーほど胸は大きく育たなかった。
何を考えているの。彼にその気はないわ──
コルセットのフックを外す。
何枚も重ねた服をやっとのことで脱ぎ、絨毯の上に裸で座り込んで小さく息をついた。
肌が息を吹き返したかのよう……
水分がどれだけ体温を奪っていたのか、ひしひしと感じた。
裸の胸を見下ろして、両腕でそっと隠した。
毛布はどこだったかしら。
後ろからふいに肩を撫でられて、体がビクッと跳ねた。
ナサニエルが後ろに膝をついた。肩を這う彼の唇。
「ネ、ネイト……」
肌についた水滴を吸われて、シーリアは小さなあえぎ声を漏らした。
今のは私の声?
ぎこちなく顔だけ振り向いた。彼の沈んだ灰色の目は、瞳孔がぽっかりと開いている。
厚い胸板。ナサニエルと裸でいることを、シーリアは強烈に意識した。
毛布を……
「……君を感じたい、シーリア……」
乞うようなかすかなつぶやき。
ざわっと肌が騒いだ。
体の奥がイエスと熱を帯びて、うずいていく。
ナサニエルが彼女の手を引き、立ち上がらせた。
ぴったりと前から抱き寄せられて、息を飲んだ。彼の香り……
「温かくなってきた……」
シーリアはナサニエルの胸に頭をのせてうなずいた。
「ネイト……あ、愛してる」
小声でささやいた。
彼の手に力がこもる。
ナサニエルを見あげた。おののきながら、答えを待つ。
ピンと張りつめたナサニエルの顔に、どん欲な笑みが浮かんだ。
それだけだった。
シーリアは顔を伏せて、落胆した顔を隠した。
ナサニエルがシーリアの顎を上げた。優しい口づけ。次第に深くなってお互いの息が上がった。
ナサニエルは体を離して椅子から毛布を取った。丸いテーブルを動かし絨毯の上にそれを広げる。
シーリアは彼の手に誘われるがままに毛布の上に横たわり、手で体を覆った。
私達がこんなことしてるなんて……信じられない……
暖炉の前で眠るドレイクのそばに、トランプカードが散らばっている。
なぜか胸がちくりと痛んだ。
彼が傍らで、しげしげと全身を見つめていた。
「……シーリア、隠してはだめだ」
ナサニエルがまたがった。彼は何も隠していない。腕も……
片腕が無くても、彼は美しかった。
シーリアは体を隠すのをやめた。両手をたくましいナサニエルの肩に這わせてそろそろと撫でた。
ナサニエルの顔に抑えた笑みが広がる。彼の体が、逃げ場なく覆い被さった。
二人でくるまった毛布が少しずつずれ落ちる。
ナサニエルは左腕のみで上半身を支えた。腕をなくしたことを、ここまで歯がゆく感じたことは無かった。
シーリアの反応をとらえながら、必死に自分を抑えてその時を伸ばす。
シーリアの首に顔をうずめた。彼女が息をつめてナサニエルの肩を噛んだ。
「シーリア!」
未知の高さまで昇り詰めた瞬間、ナサニエルの脳は甘く激しくしびれ、意識が次第に飛んでいった。
ナサニエルは、はっと目を覚ました。
なんてことだ……シーリアを押しつぶしている。
あわてて体を横にずらした。
物憂い動きで時計に目を向けた。もう早朝だった。外からは嵐の音が聞こえなくなっている。
暖炉に行き、また薪を組んで火をつけた。
足元に昔シーリアにせがまれて遊んだトランプカードが落ちていた。
妙に落ち着かない気分になった。
彼女のもとに戻り、足を交差して座った。シーリアに噛まれた右肩を手で包みながら彼女を見つめる。
安らいだシーリアの寝顔。胸がうずく。
満足させられたはずだ。
目を閉じて、彼女の波打つ体、あえぎ声を思い出す。
ナサニエルの顔に抑えきれない笑みがこぼれた。
キスで赤く腫れたシーリアの唇。手を伸ばしかけて止めた。
初めてだったシーリア。無理はさせたくない。
シーリアが寝返りをうち、体がはだけた。ナサニエルはたおやかな白い背中を目を細めて愛でた。
ふと、彼女の腰のあったあたりに血のしみを見つけた。
ナサニエルは顔を手で覆いうめき声をもらした。
水をかけられたかのように、頭が冷える。
痛い思いをさせてしまっただろうか。
しばらく呆然と、それを眺めた。
馬鹿なことを……彼女のバージンを床で奪ってしまった。
静かにシーリアに毛布をかけ直した。
シーリアは許してくれるだろうか……
「ネイト……」
シーリアは目覚めると同時に、ナサニエルの名前をぼんやりとつぶやいた。
すこしして、彼が後ろに横たわるのを感じた。
体に回された彼の片腕。シーリアはほっとして、ナサニエルの手に手を重ねた。
まだ、彼の顔は見られない。夕べのことが衝撃だった。
新しい距離の取り具合が分からない。
彼の左手をそわそわといじりながら、唇を噛む。
「……痛みは?」
ナサニエルが後ろから穏やかに尋ねた。
正直にうなずくと彼の体がたちまちこわばった。急いで首を横に振った。
「次は痛くない。約束する」
彼は絞り出すように言いながら、腕に力を込めた。
次がある──シーリアは身震いをした。体がまた熱くなる。
ナサニエルは彼女のお腹を慎重な手つきで撫でた。
シーリアの口から吐息が漏れる。
静かに彼の手が離れた。シーリアは後ろを振り返った。
ナサニエルが苦笑していた。
「この調子では、すぐに子供ができてしまいそうだ……」
ナサニエルの言葉に、体がギクッと縮みあがった。
寝返りをうち、彼から離れる。
「シーリア?」
「喉が渇いたみたい」
黙って毛布を羽織り、それを引きずりながらキャビネットに向かった。扉を開けて飲み物を探す。見つからない。並ぶドアを開けては閉めた。
ナサニエルが裸のままやって来た。まだ見慣れない姿。シーリアは視線を少しそらした。
かつてなく、心がかき乱される。
「シーリア……」
「喉が渇いたの」
彼は迷いなく右端の扉を開け、デカンタを取り出した。
怪訝な顔でシーリアをちらちらと見ながら、ナサニエルはグラスにダークレッドの液体を注いでいる。
グラスを差し出した。
「……ロンドンに行って、特別結婚許可証をもらってくるよ」
シーリアは受け取ったグラスを取り落とした。
「シーリア!」
絨毯にポートワインが染み込んでいった。
「怪我は?」
グラスは無事だった。
「だ、大丈夫。……け、結婚許可証?それは……私達の?」
声が裏返った。
ナサニエルは不自然に黙り込んだ。
デカンタをテーブルに音をたてて置く。
耳が赤い。
「どうして驚く。決まっているだろう?」
シーリアは体の力が抜けて、キャビネットにもたれた。
──ネイトと私が結婚?
口を両手で覆い、彼の言葉を噛み締めた。視界が白くまばゆくなり、体が浮いている気がする。
ナサニエルは彼女をじっと見ながら眉間に皺を寄せている。
「今日中に婚約撤回通知をヘイズへ送る。それで、やつと君の婚約は終わりだ」
シーリアは素早くキャビネットから体を起こした。
「や、やめて、だめよ!またフィリップがあなたを傷つけるかもしれない!」
ナサニエルが激しくまばたきをした。
「……こ、怖いの」
小さくつぶやきながら、指先をいじる。
ナサニエルがゆっくりと近づいて、シーリアの腰に腕を回した。
急に白い歯を見せて笑った。
「そんなことを心配しているのか?」
「……そんなこと?」
「シーリー……あの時は油断していただけだ。もう二度とやられるもんか……君が心配ならヘイズを立ち入り禁止にしても──」
「そうして」
ナサニエルは彼女の頭に優しい口づけを落とした。
「……分かった」
シーリアは彼を見上げた。輝く瞳がまっすぐに見返してくる。自然と励まされた。
「シーリア、こうなってしまったからには急がないと……子供が出来るかもしれない」
ナサニエルの胸に頬をのせた。
目の奥が熱くなる。気づくとお腹に手をあてていた。
「ヘイズを説得して円満に婚約解消することができなかった。やつは裁判にして騒ぎ立てるだろう。君の名誉を守れなかったことを──許してほしい」
ぼそぼそとナサニエルが言った。
「フィリップを説得しようとしてたの?」
彼は苦い顔になって顔をそらした。
「ネイト……」
無心でナサニエルにしがみつく。一度離れ、毛布を開き、彼を招き入れて再び抱きしめた。
「誰に何と言われてもいい。社交界から離れて、あなたとここで暮らすの」
シーリアは彼と目を合わせ、夢見心地になりながらほほ笑んだ。
ナサニエルの息が震える。
「シーリア……」
ナサニエルがついばむように口づけをした。