幼すぎた君との別れから
36話
シーリアは鏡台の椅子に座った。おろしたばかりの白いナイトドレスを着た自分を、鏡越しに見つめる。
持っていた中で、一番襟ぐりの深いスクエアネックのデザイン。肩から胸もとに薄いレースのフリルが縁どられている。
シーリアは柔らかな生地の手触りを確かめた。
フィリップとの結婚後のために、準備されていたものだった。
立ったり座ったりを繰り返しながら、何度も時計を確認する。
やがて午前零時になった。
ドアを見て唇を噛む。諦めてベッドにむかった。
眠れないまま横たわっているとき、とても小さなノックの音が聞こえた。
駆け寄ってドアを開ける。
ドアの向こうに、ナサニエルがブロンズ色のガウンを着て立っていた。
がっしりとした長身の体に、つい一歩後ずさる。
「起こしただろうか……」
ナサニエルが静かな口調で尋ねた。
首を横に振るだけで精一杯だった。
彼の視線が、顔からナイトドレスにおりた。
シーリアの体が喜びに震える。
ドアを大きく開いて中に招いても、彼は入って来なかった。
「結婚前に部屋を訪ねるのは、まずいだろうね……」
「……そ、そうね」
「……嵐で線路が土砂に埋もれている。復旧にはあと二日かかるそうだ。そのあとロンドンに向かうよ」
シーリアは幾度もうなずいた。
彼は時間をかけて薄く照らされた部屋の中を見回したあと、咳払いをした。
「お休み、シーリア……」
かすれた声でそう言うと、シーリアの頬に口づけをして、ナサニエルはドアを閉めた。
翌日、新聞に嵐の記事が載っていた。死者や行方不明者も出ていた。
運が悪ければ、自分達も同じことになっていた。改めて身のすくむ思いがした。
ミセス・ケインズは、前日より更に言葉数が少なかった。
ナサニエルの後ろにいるアリと何度すれ違っても、二人は不自然に目を合わせなかった。
冷え込む朝。その日はベッドから出るのが辛いほどだった。
顔を洗い、呼び鈴を引いてメイドを呼ぶ。
丁度着替え終わった頃に、フランス人の料理長が朝から部屋を訪ねてきた。
「レディ・シーリア。今日の晩餐のメニューを相談してもよろしいでしょうか」
「メニューを?どうして私に?」
「旦那様が、これからはあなたに相談するようにと」
料理長が額を掻く。
シーリアは胸を大きく膨らませた。もう女主人になったような気がする。頬がぽかぽかとしてきた。
「そう……分かったわ。何ができそう?慣れないから、いろいろ教えてくれる?」
「ええ、喜んで。レディ・シーリア」
料理長が下がったあと、女中頭がやってきた。部屋に彼女を通し、初めて聞く備品や帳簿の話に、シーリアは何とかついていった。
クロッカーが給仕をしながらダイニング・テーブルのまわりを回っている。
今日の晩餐のメインは子羊の香草焼きを選んだ。
ナサニエルが食欲旺盛に食べる姿に、シーリアは胸を撫で下ろした。
「予定通り明日ロンドンに向かうよ」
ナサニエルが言った。
シーリアは彼にはにかんだ笑みを返した。
「あの……アリさんもロンドンに?」
ミセス・ケインズがか細い声で尋ねる。
「もちろん」
「今夜はどちらに?」
「明日の準備で忙しいそうだ」
ナサニエルの後ろには、アリの代わりに若い従僕が控えている。
ミセス・ケインズがしゅんとしてこうべを垂れた。
ダイニング・ルームをあとにしながら、シーリアは後ろを振り返った。
ナサニエルと目を合わせる。溶けるような優しい眼差し。
急に別れが切なくてたまらなくなった。
その日着たナイトドレスは、手と顔以外の肌を見せない、いつも通りのハイネックだった。
スクエアネックのナイト・ドレスは、フィリップを思い出して居心地が悪くなるのでやめた。
ベッドに座り自分の体を抱きしめて、ナサニエルのことを考える。
少し離れるくらいで嘆いていては、彼もうんざりするだろう……
ノックの音がした。
息を止めて駆け寄る。ナサニエルが一昨日と同じ姿で立っていた。
じっと彼を見つめた。ナサニエルはほんのり耳を赤らめて一瞬目を伏せた。
「ロンドンに発つ前に……君の顔が見たかった」
唇を湿らせて低くつぶやく。
シーリアは胸に手のひらをあててうなずいた。ナサニエルの顔にゆっくりと笑みが広がる。
ドアを大きく開いて彼を招いた。彼は素早く中に入った。
ドアを閉めたとたんに、ナサニエルは腕を伸ばしてシーリアの体を抱きしめた。
唇を合わせて、同時にため息を漏らす。
「式まで待たないといけないのに……」
ナサニエルが彼女の髪に顔をうずめてうなった。
シーリアは彼にしがみついた。
こうしていることが自然に思えてならなかった。
ひとつになった瞬間、わけもなく狼狽えて、ベッドから逃げ出したくなった。ナサニエルが彼女の耳元でささやいて宥める。
シーリアは首を左右に振り、彼の下で苦しみ悶えた。
巧みに愛され、もう解放してとすすり泣く。
ナサニエルが顔を引きつらせて笑った。
降伏して、彼に身を委ねた。
ナサニエルのほとばしる熱気。
とうとう高みから解き放たれた。
シーリアは自分が何者かも忘れて、少し死んだような気がした。
徐々に現実に戻った。天蓋を閉め切った薄暗いベッドの中、ちょっとずつ、目が慣れてくる。
ナサニエルが横に体をずらして、じっと見ていることに気がついた。
「な……なあに?」
いつの間にか胸元にきちんとかけられていた毛布を、シーリアは鼻の上まで引き上げた。
「いや……」
ナサニエルが彼女の体を毛布の上から抱き寄せた。
「どうしてインドに来なかったんだろうと思って」
シーリアは目元をこわばらせて瞬きをした。
インドへの船のチケットと手紙は、あれから直視することができず箱にしまってある。
彼の胸に顔をうずめて黙り込んだ。
おじはきっと、隠したことを悔やんでいた。
ナサニエルが彼女のほつれた三つ編みに、もの憂げに指をからめる。
「不安があった?」
「……ええ」
いいえ……受け取っていたら、迷いなく行っていたわ!
叫び出してしまいそうで、シーリアは歯を食いしばった。
「それで良かったのかもしれない……あのときは戦争が再開して、港まで直接迎えにいくこともできなかった。官舎でずっと待たせることになっていただろう……」
抑揚の無い声で、ナサニエルは言った。
それでも行きたかった──
ナサニエルを見上げた。彼の視線を求める。力ない微笑みが返ってきた。
シーリアは頭を両腕で抱えて、体をぎゅっと小さく丸めた。
「シーリア……どうしたんだ」
上半身を起こしたナサニエルを、唇を引き結んで見つめる。
「あなたを崇拝してる……私の全てなの」
目の前にあった右腕の断端に口づけをした。
ナサニエルが息を呑む。負傷した腕が震えた。
もう一度そこに長めにキスをする。
「シーリア……」
ナサニエルは静かに横たわり、されるがままになっていた。張りつめた体から力が抜けて、呼吸が深くなっていく。
彼の全てが愛おしくてたまらない……
少しして、ナサニエルが彼女を自分の上に引き上げた。
頭を起こしたシーリアを、彼は一切の動きを止めて仰ぎ見ている。
少し緊張した。
彼の表情が次第に明るくなった。
「シーリア……もう君から離れられない。私達は二人で一つだ」
シーリアはほっと表情をゆるめて、うなずいた。まるで愛してると言われているようで、涙が出そうになる。
「明日、あなたはロンドンに行ってしまうけど……」
「二日後には戻る。そのあと屋敷で式を挙げよう」
シーリアはナサニエルの胸に頬をあてて、包み込むような優しい香りを吸い込んだ。心音が心地良い。
そのまま少し休んで、どちらともなくまた愛し合った。
彼の左腕を枕に、息を整える。次第に穏やかな眠気に包まれた。
何もかも上手くいっていて、怖いくらい……
「──ミセス・ケインズのせいで、アリがインドに帰ると言い出した」
ナサニエルのこぼした愚痴に、たちまち目が覚めた。両手をついて、身体を起こす。
「どうして──」
「ミセス・ケインズにプロポーズを断られたらしい」
ナサニエルが額に皺を寄せ、ぶっきらぼうに言った。
塞ぎ込んでいたミセス・ケインズを思い出し、喉が締め付けられた。
苦渋の決断だったのだろう。
宗教の違い、国の違い──亡くなったご主人のこともあるのかもしれない。
だけどアリ……何もインドに帰らなくても……
「止められないの?」
「アリは頑固だからな」
シーリアはナサニエルに引き戻され、よろよろとベッドに沈み込んだ。
目覚めたとき、ひとりだった。
くしゃくしゃになっているナイトドレスを足元に見つけて、それを着る。
ベッドを下りて、壁の呼び鈴を鳴らした。
メイドが間もなくやってきた。
「伯爵は?」
「朝早くにロンドンに出発されました。レディ・シーリア」
「そう……」
起こしてくれれば良かったのに……
黒いデイドレスをメイドに着せてもらい、朝食室に向かった。
ミセス・ケインズがすでに来ていた。
シーリアはサイドボードに用意された食事から、スクランブルエッグとマフィン、焼きリンゴを皿に取り、ミセス・ケインズの隣の席に着いた。
「……ネイトとアリはもう出発したみたい」
「ええ」
ミセス・ケインズは皿に盛ったケジャリーを黙々と食べている。
泣き腫らしたような瞼をしていた。
もう聞いたのだろう……
スクランブルエッグを呑み込むと、シーリアは小さくつぶやいた。
「……アリはインドに帰るのね」
とたんにミセス・ケインズがこちらを向いた。
目を見開いて、言葉を失っている。
口をおさえて朝食室を飛び出したミセス・ケインズを、シーリアは追いかけた。
屋敷の前庭で立ち尽くす、青ざめた顔をした彼女を見つけた。
「その、もう、知っているかと……」
シーリアはドレスの上から落ち着きなく腿をさすった。
ミセス・ケインズは足元を見ながらかぶりを振る。
「レディ・シーリア……私はどうしたらいいのでしょう……」
ミセス・ケインズが近づき、シーリアの肩に額をのせた。
うろたえながら、ミセス・ケインズの背中に手をあてる。
こんなことは初めてだった。
「ご、ごめんなさい」
ミセス・ケインズが一歩後ずさった。
無責任なことは言えない。だけど──
「アリは本気であなたが好きみたい」
ミセス・ケインズは顔を両手で覆い、肩を震わせていた。
持っていた中で、一番襟ぐりの深いスクエアネックのデザイン。肩から胸もとに薄いレースのフリルが縁どられている。
シーリアは柔らかな生地の手触りを確かめた。
フィリップとの結婚後のために、準備されていたものだった。
立ったり座ったりを繰り返しながら、何度も時計を確認する。
やがて午前零時になった。
ドアを見て唇を噛む。諦めてベッドにむかった。
眠れないまま横たわっているとき、とても小さなノックの音が聞こえた。
駆け寄ってドアを開ける。
ドアの向こうに、ナサニエルがブロンズ色のガウンを着て立っていた。
がっしりとした長身の体に、つい一歩後ずさる。
「起こしただろうか……」
ナサニエルが静かな口調で尋ねた。
首を横に振るだけで精一杯だった。
彼の視線が、顔からナイトドレスにおりた。
シーリアの体が喜びに震える。
ドアを大きく開いて中に招いても、彼は入って来なかった。
「結婚前に部屋を訪ねるのは、まずいだろうね……」
「……そ、そうね」
「……嵐で線路が土砂に埋もれている。復旧にはあと二日かかるそうだ。そのあとロンドンに向かうよ」
シーリアは幾度もうなずいた。
彼は時間をかけて薄く照らされた部屋の中を見回したあと、咳払いをした。
「お休み、シーリア……」
かすれた声でそう言うと、シーリアの頬に口づけをして、ナサニエルはドアを閉めた。
翌日、新聞に嵐の記事が載っていた。死者や行方不明者も出ていた。
運が悪ければ、自分達も同じことになっていた。改めて身のすくむ思いがした。
ミセス・ケインズは、前日より更に言葉数が少なかった。
ナサニエルの後ろにいるアリと何度すれ違っても、二人は不自然に目を合わせなかった。
冷え込む朝。その日はベッドから出るのが辛いほどだった。
顔を洗い、呼び鈴を引いてメイドを呼ぶ。
丁度着替え終わった頃に、フランス人の料理長が朝から部屋を訪ねてきた。
「レディ・シーリア。今日の晩餐のメニューを相談してもよろしいでしょうか」
「メニューを?どうして私に?」
「旦那様が、これからはあなたに相談するようにと」
料理長が額を掻く。
シーリアは胸を大きく膨らませた。もう女主人になったような気がする。頬がぽかぽかとしてきた。
「そう……分かったわ。何ができそう?慣れないから、いろいろ教えてくれる?」
「ええ、喜んで。レディ・シーリア」
料理長が下がったあと、女中頭がやってきた。部屋に彼女を通し、初めて聞く備品や帳簿の話に、シーリアは何とかついていった。
クロッカーが給仕をしながらダイニング・テーブルのまわりを回っている。
今日の晩餐のメインは子羊の香草焼きを選んだ。
ナサニエルが食欲旺盛に食べる姿に、シーリアは胸を撫で下ろした。
「予定通り明日ロンドンに向かうよ」
ナサニエルが言った。
シーリアは彼にはにかんだ笑みを返した。
「あの……アリさんもロンドンに?」
ミセス・ケインズがか細い声で尋ねる。
「もちろん」
「今夜はどちらに?」
「明日の準備で忙しいそうだ」
ナサニエルの後ろには、アリの代わりに若い従僕が控えている。
ミセス・ケインズがしゅんとしてこうべを垂れた。
ダイニング・ルームをあとにしながら、シーリアは後ろを振り返った。
ナサニエルと目を合わせる。溶けるような優しい眼差し。
急に別れが切なくてたまらなくなった。
その日着たナイトドレスは、手と顔以外の肌を見せない、いつも通りのハイネックだった。
スクエアネックのナイト・ドレスは、フィリップを思い出して居心地が悪くなるのでやめた。
ベッドに座り自分の体を抱きしめて、ナサニエルのことを考える。
少し離れるくらいで嘆いていては、彼もうんざりするだろう……
ノックの音がした。
息を止めて駆け寄る。ナサニエルが一昨日と同じ姿で立っていた。
じっと彼を見つめた。ナサニエルはほんのり耳を赤らめて一瞬目を伏せた。
「ロンドンに発つ前に……君の顔が見たかった」
唇を湿らせて低くつぶやく。
シーリアは胸に手のひらをあててうなずいた。ナサニエルの顔にゆっくりと笑みが広がる。
ドアを大きく開いて彼を招いた。彼は素早く中に入った。
ドアを閉めたとたんに、ナサニエルは腕を伸ばしてシーリアの体を抱きしめた。
唇を合わせて、同時にため息を漏らす。
「式まで待たないといけないのに……」
ナサニエルが彼女の髪に顔をうずめてうなった。
シーリアは彼にしがみついた。
こうしていることが自然に思えてならなかった。
ひとつになった瞬間、わけもなく狼狽えて、ベッドから逃げ出したくなった。ナサニエルが彼女の耳元でささやいて宥める。
シーリアは首を左右に振り、彼の下で苦しみ悶えた。
巧みに愛され、もう解放してとすすり泣く。
ナサニエルが顔を引きつらせて笑った。
降伏して、彼に身を委ねた。
ナサニエルのほとばしる熱気。
とうとう高みから解き放たれた。
シーリアは自分が何者かも忘れて、少し死んだような気がした。
徐々に現実に戻った。天蓋を閉め切った薄暗いベッドの中、ちょっとずつ、目が慣れてくる。
ナサニエルが横に体をずらして、じっと見ていることに気がついた。
「な……なあに?」
いつの間にか胸元にきちんとかけられていた毛布を、シーリアは鼻の上まで引き上げた。
「いや……」
ナサニエルが彼女の体を毛布の上から抱き寄せた。
「どうしてインドに来なかったんだろうと思って」
シーリアは目元をこわばらせて瞬きをした。
インドへの船のチケットと手紙は、あれから直視することができず箱にしまってある。
彼の胸に顔をうずめて黙り込んだ。
おじはきっと、隠したことを悔やんでいた。
ナサニエルが彼女のほつれた三つ編みに、もの憂げに指をからめる。
「不安があった?」
「……ええ」
いいえ……受け取っていたら、迷いなく行っていたわ!
叫び出してしまいそうで、シーリアは歯を食いしばった。
「それで良かったのかもしれない……あのときは戦争が再開して、港まで直接迎えにいくこともできなかった。官舎でずっと待たせることになっていただろう……」
抑揚の無い声で、ナサニエルは言った。
それでも行きたかった──
ナサニエルを見上げた。彼の視線を求める。力ない微笑みが返ってきた。
シーリアは頭を両腕で抱えて、体をぎゅっと小さく丸めた。
「シーリア……どうしたんだ」
上半身を起こしたナサニエルを、唇を引き結んで見つめる。
「あなたを崇拝してる……私の全てなの」
目の前にあった右腕の断端に口づけをした。
ナサニエルが息を呑む。負傷した腕が震えた。
もう一度そこに長めにキスをする。
「シーリア……」
ナサニエルは静かに横たわり、されるがままになっていた。張りつめた体から力が抜けて、呼吸が深くなっていく。
彼の全てが愛おしくてたまらない……
少しして、ナサニエルが彼女を自分の上に引き上げた。
頭を起こしたシーリアを、彼は一切の動きを止めて仰ぎ見ている。
少し緊張した。
彼の表情が次第に明るくなった。
「シーリア……もう君から離れられない。私達は二人で一つだ」
シーリアはほっと表情をゆるめて、うなずいた。まるで愛してると言われているようで、涙が出そうになる。
「明日、あなたはロンドンに行ってしまうけど……」
「二日後には戻る。そのあと屋敷で式を挙げよう」
シーリアはナサニエルの胸に頬をあてて、包み込むような優しい香りを吸い込んだ。心音が心地良い。
そのまま少し休んで、どちらともなくまた愛し合った。
彼の左腕を枕に、息を整える。次第に穏やかな眠気に包まれた。
何もかも上手くいっていて、怖いくらい……
「──ミセス・ケインズのせいで、アリがインドに帰ると言い出した」
ナサニエルのこぼした愚痴に、たちまち目が覚めた。両手をついて、身体を起こす。
「どうして──」
「ミセス・ケインズにプロポーズを断られたらしい」
ナサニエルが額に皺を寄せ、ぶっきらぼうに言った。
塞ぎ込んでいたミセス・ケインズを思い出し、喉が締め付けられた。
苦渋の決断だったのだろう。
宗教の違い、国の違い──亡くなったご主人のこともあるのかもしれない。
だけどアリ……何もインドに帰らなくても……
「止められないの?」
「アリは頑固だからな」
シーリアはナサニエルに引き戻され、よろよろとベッドに沈み込んだ。
目覚めたとき、ひとりだった。
くしゃくしゃになっているナイトドレスを足元に見つけて、それを着る。
ベッドを下りて、壁の呼び鈴を鳴らした。
メイドが間もなくやってきた。
「伯爵は?」
「朝早くにロンドンに出発されました。レディ・シーリア」
「そう……」
起こしてくれれば良かったのに……
黒いデイドレスをメイドに着せてもらい、朝食室に向かった。
ミセス・ケインズがすでに来ていた。
シーリアはサイドボードに用意された食事から、スクランブルエッグとマフィン、焼きリンゴを皿に取り、ミセス・ケインズの隣の席に着いた。
「……ネイトとアリはもう出発したみたい」
「ええ」
ミセス・ケインズは皿に盛ったケジャリーを黙々と食べている。
泣き腫らしたような瞼をしていた。
もう聞いたのだろう……
スクランブルエッグを呑み込むと、シーリアは小さくつぶやいた。
「……アリはインドに帰るのね」
とたんにミセス・ケインズがこちらを向いた。
目を見開いて、言葉を失っている。
口をおさえて朝食室を飛び出したミセス・ケインズを、シーリアは追いかけた。
屋敷の前庭で立ち尽くす、青ざめた顔をした彼女を見つけた。
「その、もう、知っているかと……」
シーリアはドレスの上から落ち着きなく腿をさすった。
ミセス・ケインズは足元を見ながらかぶりを振る。
「レディ・シーリア……私はどうしたらいいのでしょう……」
ミセス・ケインズが近づき、シーリアの肩に額をのせた。
うろたえながら、ミセス・ケインズの背中に手をあてる。
こんなことは初めてだった。
「ご、ごめんなさい」
ミセス・ケインズが一歩後ずさった。
無責任なことは言えない。だけど──
「アリは本気であなたが好きみたい」
ミセス・ケインズは顔を両手で覆い、肩を震わせていた。