幼すぎた君との別れから
38話
後見人と被後見人の結婚──厳しく見られるだろうとは思っていたが、予想以上だった。
審査が長引いて、帰宅予定日を一日過ぎていた。
通された個室の椅子で目を閉じ、鼻筋を指でこすり続ける。
「フォーチェスター卿、お待たせ致しました」
やっと事務官がやってきた。
上半身を背もたれから起こし、トレーで差し出された書類を素早く奪い取る。
特別結婚許可証。ナサニエル・デ・レイシーとシーリア・デ・レイシーの名前が記されていた。
胸に熱いものがこみ上げる。
許可証を額にあて、ナサニエルは再び椅子に沈み込んだ。
事務局を出て御者とアリの待つ馬車に戻り、そのままユーストン駅に向かった。
これで、シーリアはあるべき場所に戻る。
馬車の中で感慨深くため息をつく。つい笑みがこぼれた。
ここまでくるのに五年……いや、ほぼ六年か。
シーリアが待っている。
遅くなった。すねているだろうか……
「レイシー!」
駅ですれ違いざまに呼び止められた。
「シェリダン、タルボット」
シェリダンがステッキを帽子のつばにあてた。その後ろでタルボットが顎を一度上げる。
ラウンジジャケットを着た二人。軍服姿ばかり見てきたせいか、新鮮だった。
「ロンドンに出てきていたのか?」
「ああ」
「俺たちは男二人、リヴァプールへの小旅行から帰ってきたところだ。お前は何をしに?」
別に、隠すこともない。ふいにむずがゆくなった首をこすりながら、ナサニエルは答えた。
「……近く結婚することになった。その手続きだ」
「なんだと?」
気配を消していたタルボットが、急に声を荒げた。
じっとナサニエルの空の袖を見つめる。
「相手は?」
「レディ・シーリア・デ・レイシー……はとこだ」
シェリダンがステッキを前につき、視線を上げる。
「シーリア・デ・レイシー、シーリア・デ・レイシー……なにやら聞いたことがあるぞ……そうだ、社交界を一時騒がせたという、幻の美女だろう!」
ナサニエルは顔を歪めた。
社交界から離れて暮らすのが、突然理想的に思えてきた。
タルボットが不快な笑い声をあげた。
「……ありえない」
ナサニエルに近づき、空の袖を松葉杖ではたく。
「急いで帰れ、デ・レイシー、相手の目が覚めて捨てられる前にな」
あっけにとられて言葉も出なかった。
タルボットが松葉杖をついて、駅舎の外に歩いていく。
追うナサニエルの肩をシェリダンがつかんだ。
「許してやれ、レイシー。タルボットは婚約者に捨てられて落ち込んでいるんだ」
フォーチェスター駅から馬車に乗り、屋敷に向かった。
シーリアに会ったこともないくせに──そう胸のなかで悪態をつく。
タルボットのせいで、ずっと気分は台無しだった。
あいつの情のない婚約者とシーリアはまるで違う。分かっているのに気持ちが切り替わらない。
夕方に屋敷に着いたとき、シーリアの出迎えは無かった。
ナサニエルは少し拍子抜けした。
熱く迎えてくれると思っていた。
シルクハットを胸に抱え、玄関ホールを見回す。
「シーリアは。ドローイング・ルームか?」
妙に神妙な面持ちのクロッカーが息を飲んだ。
「旦那様、その……電報は届いておりませんでしたか……朝一番にお送りしたのですが……入れ違いでございましょうか」
歯切れ悪くクロッカーは言った。
何か嫌な流れに、ナサニエルの胃がキリキリと痛む。
両耳を撫でつけ、胸を息で膨らませた。
「……なんだ、言え、クロッカー」
クロッカーの唾を飲み込む音が、はっきりと聞こえた。
「旦那様、レディ・シーリアは、昨日からミスター・フィリップ・ヘイズの所に行かれたきりでございます」
眉間に皺をよせ、首を捻った。
クロッカーの視線がナサニエルの体に下がる。
全身が気づかないうちにぶるぶると震えていた。
自分が自分でないような気がする。
「……ヘイズのところへ向かう、また馬車の準備を」
「かしこまりました、旦那様」
クロッカーが従僕に、指示を出した。
勝手に足が執務室へ向かった。
デスクの天板に帽子を置き、引き出しを開ける。あのけばけばしい婚約指輪がない。ほかの引き出しも中身をぶちまけながらあさった。見つからなかった。
なぜだ……シーリア……
またあの指輪をはめたのか?
デスクに手をついた。
次第に視界が暗くなっていく。
横たわるシーリアの白い喉を掴む自分が思い浮かんだ。
「大尉……」
アリが付いてきていたことに気が付かなかった。
「シーリアから取り上げた婚約指輪がなくなっている……」
放心しながらつぶやいた。
「……返しに行かれたのかもしれませんよ」
目を合わせずにアリは散らばった床を片付ける。
ドアがノックされた。アリが向かう。ミセス・ケインズだった。
「ミセス・ケインズ……君はいったい今まで何をしていた」
「大尉」
アリの声が尖る。
ミセス・ケインズが頭を垂れた。
「申し訳ありません。私も先ほど姉のところから戻ったばかりで……驚いております……」
ナサニエルは片手で両目を覆った。
誰かに言ってほしい──シーリアは私を愛していると……
「……ミセス・ケインズ……私がインドにいる間、シーリアは私の話をしていただろうか……」
ミセス・ケインズが硬直したあと、正直にかぶりを振る。
うなだれたナサニエルの口から、不自然な笑い声が漏れた。
「……ですが旦那様、今思えばレディ・シーリアはインドの話ばかりしていました。あれはきっと……あなたの話だったのですね」
素早く顔を上げる。
「シーリアがインドの話を?」
「ええ……おかげで私もインドに詳しくなりました」
ミセス・ケインズがぎこちない微笑みを浮かべた。
「そうか……」
深呼吸をして前を見る。
少しだけ視野が開けるのを感じた。
「レディ・シーリアが自らミスター・ヘイズのもとに戻るとは、私には考えられません……どうしてすぐ戻らないのか」
ミセス・ケインズは手が白くなるほどドレスのスカートを握りしめている。
ナサニエルは首を横に振りながら後ずさりをした。
何も考えたくない。
部屋がノックされた。馬車が準備できたとドアの向こうでクロッカーが伝えた。
審査が長引いて、帰宅予定日を一日過ぎていた。
通された個室の椅子で目を閉じ、鼻筋を指でこすり続ける。
「フォーチェスター卿、お待たせ致しました」
やっと事務官がやってきた。
上半身を背もたれから起こし、トレーで差し出された書類を素早く奪い取る。
特別結婚許可証。ナサニエル・デ・レイシーとシーリア・デ・レイシーの名前が記されていた。
胸に熱いものがこみ上げる。
許可証を額にあて、ナサニエルは再び椅子に沈み込んだ。
事務局を出て御者とアリの待つ馬車に戻り、そのままユーストン駅に向かった。
これで、シーリアはあるべき場所に戻る。
馬車の中で感慨深くため息をつく。つい笑みがこぼれた。
ここまでくるのに五年……いや、ほぼ六年か。
シーリアが待っている。
遅くなった。すねているだろうか……
「レイシー!」
駅ですれ違いざまに呼び止められた。
「シェリダン、タルボット」
シェリダンがステッキを帽子のつばにあてた。その後ろでタルボットが顎を一度上げる。
ラウンジジャケットを着た二人。軍服姿ばかり見てきたせいか、新鮮だった。
「ロンドンに出てきていたのか?」
「ああ」
「俺たちは男二人、リヴァプールへの小旅行から帰ってきたところだ。お前は何をしに?」
別に、隠すこともない。ふいにむずがゆくなった首をこすりながら、ナサニエルは答えた。
「……近く結婚することになった。その手続きだ」
「なんだと?」
気配を消していたタルボットが、急に声を荒げた。
じっとナサニエルの空の袖を見つめる。
「相手は?」
「レディ・シーリア・デ・レイシー……はとこだ」
シェリダンがステッキを前につき、視線を上げる。
「シーリア・デ・レイシー、シーリア・デ・レイシー……なにやら聞いたことがあるぞ……そうだ、社交界を一時騒がせたという、幻の美女だろう!」
ナサニエルは顔を歪めた。
社交界から離れて暮らすのが、突然理想的に思えてきた。
タルボットが不快な笑い声をあげた。
「……ありえない」
ナサニエルに近づき、空の袖を松葉杖ではたく。
「急いで帰れ、デ・レイシー、相手の目が覚めて捨てられる前にな」
あっけにとられて言葉も出なかった。
タルボットが松葉杖をついて、駅舎の外に歩いていく。
追うナサニエルの肩をシェリダンがつかんだ。
「許してやれ、レイシー。タルボットは婚約者に捨てられて落ち込んでいるんだ」
フォーチェスター駅から馬車に乗り、屋敷に向かった。
シーリアに会ったこともないくせに──そう胸のなかで悪態をつく。
タルボットのせいで、ずっと気分は台無しだった。
あいつの情のない婚約者とシーリアはまるで違う。分かっているのに気持ちが切り替わらない。
夕方に屋敷に着いたとき、シーリアの出迎えは無かった。
ナサニエルは少し拍子抜けした。
熱く迎えてくれると思っていた。
シルクハットを胸に抱え、玄関ホールを見回す。
「シーリアは。ドローイング・ルームか?」
妙に神妙な面持ちのクロッカーが息を飲んだ。
「旦那様、その……電報は届いておりませんでしたか……朝一番にお送りしたのですが……入れ違いでございましょうか」
歯切れ悪くクロッカーは言った。
何か嫌な流れに、ナサニエルの胃がキリキリと痛む。
両耳を撫でつけ、胸を息で膨らませた。
「……なんだ、言え、クロッカー」
クロッカーの唾を飲み込む音が、はっきりと聞こえた。
「旦那様、レディ・シーリアは、昨日からミスター・フィリップ・ヘイズの所に行かれたきりでございます」
眉間に皺をよせ、首を捻った。
クロッカーの視線がナサニエルの体に下がる。
全身が気づかないうちにぶるぶると震えていた。
自分が自分でないような気がする。
「……ヘイズのところへ向かう、また馬車の準備を」
「かしこまりました、旦那様」
クロッカーが従僕に、指示を出した。
勝手に足が執務室へ向かった。
デスクの天板に帽子を置き、引き出しを開ける。あのけばけばしい婚約指輪がない。ほかの引き出しも中身をぶちまけながらあさった。見つからなかった。
なぜだ……シーリア……
またあの指輪をはめたのか?
デスクに手をついた。
次第に視界が暗くなっていく。
横たわるシーリアの白い喉を掴む自分が思い浮かんだ。
「大尉……」
アリが付いてきていたことに気が付かなかった。
「シーリアから取り上げた婚約指輪がなくなっている……」
放心しながらつぶやいた。
「……返しに行かれたのかもしれませんよ」
目を合わせずにアリは散らばった床を片付ける。
ドアがノックされた。アリが向かう。ミセス・ケインズだった。
「ミセス・ケインズ……君はいったい今まで何をしていた」
「大尉」
アリの声が尖る。
ミセス・ケインズが頭を垂れた。
「申し訳ありません。私も先ほど姉のところから戻ったばかりで……驚いております……」
ナサニエルは片手で両目を覆った。
誰かに言ってほしい──シーリアは私を愛していると……
「……ミセス・ケインズ……私がインドにいる間、シーリアは私の話をしていただろうか……」
ミセス・ケインズが硬直したあと、正直にかぶりを振る。
うなだれたナサニエルの口から、不自然な笑い声が漏れた。
「……ですが旦那様、今思えばレディ・シーリアはインドの話ばかりしていました。あれはきっと……あなたの話だったのですね」
素早く顔を上げる。
「シーリアがインドの話を?」
「ええ……おかげで私もインドに詳しくなりました」
ミセス・ケインズがぎこちない微笑みを浮かべた。
「そうか……」
深呼吸をして前を見る。
少しだけ視野が開けるのを感じた。
「レディ・シーリアが自らミスター・ヘイズのもとに戻るとは、私には考えられません……どうしてすぐ戻らないのか」
ミセス・ケインズは手が白くなるほどドレスのスカートを握りしめている。
ナサニエルは首を横に振りながら後ずさりをした。
何も考えたくない。
部屋がノックされた。馬車が準備できたとドアの向こうでクロッカーが伝えた。