幼すぎた君との別れから
39話
ヘイズ家のドローイング・ルームには、ヘイズ卿とレディ・ヘイズしかいなかった。
案内した執事が会釈をしてドアを閉める。シーリアはギクシャクとカーテシーをした。
指輪を入れたバッグがいやに重たく感じる。
「こちらに座りなさい」
おおらかな声でヘイズ卿が言った。
シーリアは肩をすぼめて、指し示された椅子に座った。
「砂糖は一つでしたね?」
微笑みながら、レディ・ヘイズが尋ねる。
「はい……」
テーブルの上の三つの銀皿にはぎっしりとケーキやペストリーが盛りつけられていた。
「料理人が張り切って作ったのよ。久しぶりにあなたが来るから」
勧められたケーキを食べ、紅茶で無理やり流し込む。
ヘイズ卿夫妻は、シーリアの父が生きていた頃の思い出話を始めた。
シーリアは相づちをうちながら、手の甲を掻いた。まるで婚約撤回など、無かったかのようだった。
用心深く二人を見ながら、シーリアはバッグの金口に手を伸ばした。
「あの、フィリップは……」
「フィリップは哀れな奴よ」
ヘイズ卿が唐突に大きな声を出した。
「哀しみが大きすぎて、あの婚約撤回通知のことを私たちには伝えられなかったようだ」
シーリアは視線を下げて、目をぎゅっと閉じた。
やめて……
「レディ・シーリア……フィリップはわが息子ながらできた男だ。賢く、健康で、見た目もいい。君をずっと思ってきた。これ以上の相手はおるまい……なぜ突然気を変えた。フォーチェスターに何か脅されているのか?ならば私が──」
「……彼はそんなことしません」
ヘイズ卿があざ笑った。
「君はフォーチェスターに惑わされているようだ。やつは後見人の立場を利用して、君をいいように金づるにするつもりなのだろう。……女の幸せをみすみす捨てるつもりなのか?」
ヘイズ卿の声が徐々に高くなる。
シーリアは首を左右に振り、バッグをあさった。指輪のケースを握りしめる。
「ミスター・フィリップ・ヘイズはどちらですか?……今日は謝罪と指輪の返還に来ました」
声が細くなる。けれども何とか言い切った。
少しでもネイトにふさわしくあるために。
ヘイズ卿は目を剥いて押し黙ったあと、急に立ち上がった。
「フィリップはまだ準備に時間がかかる。エレノア、レディ・シーリアを庭園に案内してはどうだ」
レディ・ヘイズが夫と目を合わせてうなずいた。
ヘイズ家の庭園を延々と歩く。昔と違って管理が行き届いていない。奥の方へ行くほど藪になる。
迷子のような気分になった。
「レディ・ヘイズ……申し訳なく思っています」
「あそこに建物があるでしょう?」
唇を噛み締めて、レディ・ヘイズの指さすほうに目を向けた。
塗り壁の古い小さな建物。赤茶色の屋根の上に鐘が見える。
「礼拝堂よ。昔はここで式を挙げたそうよ。だけど、今は無理ね……」
レディ・ヘイズがくすりと笑った。壁は表面が朽ちて、ところどころ石積みが露出している。
「案内するわ」
子供の頃、フィリップと忍び込んで遊んだことがある。
レディ・ヘイズがドアを開け、中に入った。
「レディ・シーリア?」
建物の中からレディ・ヘイズの声が聞こえた。
シーリアは気の重さに顔をゆがめながら、中に進んだ。
石造りの厚い壁。祭壇の背後にある細長い三つの窓から光がにじむ。
「ゆっくりご覧なさい」
仕方なく、左右に並ぶベンチの間を歩く。ここに来ることももうないだろう、そう感じながら中を見て回る。
ネイトに早く会いたい。
婚約が白紙に戻れば、やましさなく堂々と彼と向き合える。その時が待ち遠しい。
「中世に建てられたのよ。ヘイズ家の歴史を感じるでしょう?」
少し遠くから声がした。
祭壇前で振り返ると、レディ・ヘイズはいなかった。
こんなことをしに来たのではないのに。
「あの、レディ・ヘイズ、どこですか──」
ガチャリと音がした。
寒気を感じながらドアに駆け寄る。
厚い木製のドアが開かない。鍵が閉められていた。
ちょっとした報復で、そのうち戻ってくると最初は思っていた。
時間が過ぎて夕焼けになる頃には、このままここで死んでしまうのではないかと感じるようになった。
ドアの錆びついたヒンジ。
ハンドバッグの金口をその隙間に引っ掛け動かした。金口はすぐ負けて、外すことはできなかった。
ドアのリング状の取っ手を握り、じっとする。真っ暗になってからは、そこから動けなくなった。
明るい歌を小声で歌って気を紛らわす。
祭壇の背後の細い窓から朝日が差し込んだ。
外から声が聞こえた。ヘイズ卿のがなり声と、フィリップの裏返った声。
急いで立ち上がる。
ドアがノックされた。
「シーリア、そこにいるのか?」
声が出ない。かわりにドアを何度も叩き返した。
「少し下がってくれ」
鍵を開ける音。ドアがこちら側に押し開かれた。フィリップとヘイズ卿が入り口の向こうに立ちふさがっている。
フィリップが入ると、ヘイズ卿は中に入らずにすぐドアと鍵を閉めた。
「父さん!」
「二時間したら戻る」
フィリップは、共感を求めるように困り顔を見せながらため息をついた。
今はどういう状態なのか……頭が麻痺してくる。
早く終わらせよう。
壊れたバッグから、指輪のケースを取り出しフィリップに差し出した。
彼は一瞥しただけで受け取らない。
「……あなたを傷つけたことを申し訳なく思っています」
フィリップの口が引きつる。
「父がこんな事をするとは思わなかった……少し冷静さをなくしているんだ」
髪を指でかき乱しながらフィリップが言った。
シーリアは朽ちた木製のベンチに近づき、その上に指輪のケースを置いた。
「ここに置いておきます」
「シーリア……」
フィリップから顔をそらす。
今は何時だろう。
ヘイズ家に行くとしか、言わなかった。クロッカーに詳しく説明してくればよかった。
ネイトは心配しているだろうか……それとも、あらぬ誤解をしているだろうか。
もし彼の心が離れてしまったら……
思わず顔を両手で覆う。
「……もう帰ります」
フィリップはしばらく口を閉ざした。
「……君がこのことを誰かに言わないか心配だ」
手を下ろし、目を見開く。握り締めた手のひらに爪が深くくいこんだ。
「言わないわ」
「どうだろう……あの男が追及しないとは思えないな」
フィリップは祭壇の前に向かい、ベンチの端に横向きに腰掛けた。
「懐かしいな。ここに来たのは久しぶりだ」
ぼそっとフィリップがつぶやく。
「ヘイズ卿はこんな事をしてどうするつもりなの」
「……父は、君とスコットランドで駆け落ち婚してこいと言っている」
視線を合わせずに、フィリップが答えた。
目に火花が散った。じりじりと後ずさりをして、背中をドアに押し付ける。
「父さんは僕らをここで二人きりにして、仲を深めさせたいんだ」
シーリアはじっとフィリップを見据えた。
小さくフィリップが動くたびに、彼女の体がビクっと身じろぐ。
何か武器になるもの……バッグを胸に抱える。
何としても、この身を守る。
ネイトを悲しませたくない。
「君を辱めるつもりはない」
シーリアはコクコクと頷いた。
時間が果てしなく経った気がする。
「フィリップ、来たぞ」
外からヘイズ卿の声がした。
ドアの取手を握り、チャンスを窺う。素早くフィリップが向かってくる。
ヘイズ卿が鍵を開けると、フィリップは逆らうシーリアを押さえ込みながら、自分だけ外に出た。
「フィリップ!」
大声で叫んだ。
また、鍵が閉まる。
ドアの外から聞こえるフィリップの声にぞっとした。
「後でまた来るよ」
ネイトなら、こういうときほど冷静になるはず──
座り込み、両手を組んで口に押し付ける。
外から軽い足音がした。ガタガタと物音もする。
立ち上がり、ドアから数歩後ずさる。天井近くにある小さな丸い開口部から、何かが数個落ちた。
「リンゴです。レディ・シーリア」
ジョージの幼い声がした。
「ジョージ、助けて!閉じ込められているの!」
ジョージの返事を祈りながら待つ。
「僕は父に言われただけです」
彼の足音が素早く去っていった。
案内した執事が会釈をしてドアを閉める。シーリアはギクシャクとカーテシーをした。
指輪を入れたバッグがいやに重たく感じる。
「こちらに座りなさい」
おおらかな声でヘイズ卿が言った。
シーリアは肩をすぼめて、指し示された椅子に座った。
「砂糖は一つでしたね?」
微笑みながら、レディ・ヘイズが尋ねる。
「はい……」
テーブルの上の三つの銀皿にはぎっしりとケーキやペストリーが盛りつけられていた。
「料理人が張り切って作ったのよ。久しぶりにあなたが来るから」
勧められたケーキを食べ、紅茶で無理やり流し込む。
ヘイズ卿夫妻は、シーリアの父が生きていた頃の思い出話を始めた。
シーリアは相づちをうちながら、手の甲を掻いた。まるで婚約撤回など、無かったかのようだった。
用心深く二人を見ながら、シーリアはバッグの金口に手を伸ばした。
「あの、フィリップは……」
「フィリップは哀れな奴よ」
ヘイズ卿が唐突に大きな声を出した。
「哀しみが大きすぎて、あの婚約撤回通知のことを私たちには伝えられなかったようだ」
シーリアは視線を下げて、目をぎゅっと閉じた。
やめて……
「レディ・シーリア……フィリップはわが息子ながらできた男だ。賢く、健康で、見た目もいい。君をずっと思ってきた。これ以上の相手はおるまい……なぜ突然気を変えた。フォーチェスターに何か脅されているのか?ならば私が──」
「……彼はそんなことしません」
ヘイズ卿があざ笑った。
「君はフォーチェスターに惑わされているようだ。やつは後見人の立場を利用して、君をいいように金づるにするつもりなのだろう。……女の幸せをみすみす捨てるつもりなのか?」
ヘイズ卿の声が徐々に高くなる。
シーリアは首を左右に振り、バッグをあさった。指輪のケースを握りしめる。
「ミスター・フィリップ・ヘイズはどちらですか?……今日は謝罪と指輪の返還に来ました」
声が細くなる。けれども何とか言い切った。
少しでもネイトにふさわしくあるために。
ヘイズ卿は目を剥いて押し黙ったあと、急に立ち上がった。
「フィリップはまだ準備に時間がかかる。エレノア、レディ・シーリアを庭園に案内してはどうだ」
レディ・ヘイズが夫と目を合わせてうなずいた。
ヘイズ家の庭園を延々と歩く。昔と違って管理が行き届いていない。奥の方へ行くほど藪になる。
迷子のような気分になった。
「レディ・ヘイズ……申し訳なく思っています」
「あそこに建物があるでしょう?」
唇を噛み締めて、レディ・ヘイズの指さすほうに目を向けた。
塗り壁の古い小さな建物。赤茶色の屋根の上に鐘が見える。
「礼拝堂よ。昔はここで式を挙げたそうよ。だけど、今は無理ね……」
レディ・ヘイズがくすりと笑った。壁は表面が朽ちて、ところどころ石積みが露出している。
「案内するわ」
子供の頃、フィリップと忍び込んで遊んだことがある。
レディ・ヘイズがドアを開け、中に入った。
「レディ・シーリア?」
建物の中からレディ・ヘイズの声が聞こえた。
シーリアは気の重さに顔をゆがめながら、中に進んだ。
石造りの厚い壁。祭壇の背後にある細長い三つの窓から光がにじむ。
「ゆっくりご覧なさい」
仕方なく、左右に並ぶベンチの間を歩く。ここに来ることももうないだろう、そう感じながら中を見て回る。
ネイトに早く会いたい。
婚約が白紙に戻れば、やましさなく堂々と彼と向き合える。その時が待ち遠しい。
「中世に建てられたのよ。ヘイズ家の歴史を感じるでしょう?」
少し遠くから声がした。
祭壇前で振り返ると、レディ・ヘイズはいなかった。
こんなことをしに来たのではないのに。
「あの、レディ・ヘイズ、どこですか──」
ガチャリと音がした。
寒気を感じながらドアに駆け寄る。
厚い木製のドアが開かない。鍵が閉められていた。
ちょっとした報復で、そのうち戻ってくると最初は思っていた。
時間が過ぎて夕焼けになる頃には、このままここで死んでしまうのではないかと感じるようになった。
ドアの錆びついたヒンジ。
ハンドバッグの金口をその隙間に引っ掛け動かした。金口はすぐ負けて、外すことはできなかった。
ドアのリング状の取っ手を握り、じっとする。真っ暗になってからは、そこから動けなくなった。
明るい歌を小声で歌って気を紛らわす。
祭壇の背後の細い窓から朝日が差し込んだ。
外から声が聞こえた。ヘイズ卿のがなり声と、フィリップの裏返った声。
急いで立ち上がる。
ドアがノックされた。
「シーリア、そこにいるのか?」
声が出ない。かわりにドアを何度も叩き返した。
「少し下がってくれ」
鍵を開ける音。ドアがこちら側に押し開かれた。フィリップとヘイズ卿が入り口の向こうに立ちふさがっている。
フィリップが入ると、ヘイズ卿は中に入らずにすぐドアと鍵を閉めた。
「父さん!」
「二時間したら戻る」
フィリップは、共感を求めるように困り顔を見せながらため息をついた。
今はどういう状態なのか……頭が麻痺してくる。
早く終わらせよう。
壊れたバッグから、指輪のケースを取り出しフィリップに差し出した。
彼は一瞥しただけで受け取らない。
「……あなたを傷つけたことを申し訳なく思っています」
フィリップの口が引きつる。
「父がこんな事をするとは思わなかった……少し冷静さをなくしているんだ」
髪を指でかき乱しながらフィリップが言った。
シーリアは朽ちた木製のベンチに近づき、その上に指輪のケースを置いた。
「ここに置いておきます」
「シーリア……」
フィリップから顔をそらす。
今は何時だろう。
ヘイズ家に行くとしか、言わなかった。クロッカーに詳しく説明してくればよかった。
ネイトは心配しているだろうか……それとも、あらぬ誤解をしているだろうか。
もし彼の心が離れてしまったら……
思わず顔を両手で覆う。
「……もう帰ります」
フィリップはしばらく口を閉ざした。
「……君がこのことを誰かに言わないか心配だ」
手を下ろし、目を見開く。握り締めた手のひらに爪が深くくいこんだ。
「言わないわ」
「どうだろう……あの男が追及しないとは思えないな」
フィリップは祭壇の前に向かい、ベンチの端に横向きに腰掛けた。
「懐かしいな。ここに来たのは久しぶりだ」
ぼそっとフィリップがつぶやく。
「ヘイズ卿はこんな事をしてどうするつもりなの」
「……父は、君とスコットランドで駆け落ち婚してこいと言っている」
視線を合わせずに、フィリップが答えた。
目に火花が散った。じりじりと後ずさりをして、背中をドアに押し付ける。
「父さんは僕らをここで二人きりにして、仲を深めさせたいんだ」
シーリアはじっとフィリップを見据えた。
小さくフィリップが動くたびに、彼女の体がビクっと身じろぐ。
何か武器になるもの……バッグを胸に抱える。
何としても、この身を守る。
ネイトを悲しませたくない。
「君を辱めるつもりはない」
シーリアはコクコクと頷いた。
時間が果てしなく経った気がする。
「フィリップ、来たぞ」
外からヘイズ卿の声がした。
ドアの取手を握り、チャンスを窺う。素早くフィリップが向かってくる。
ヘイズ卿が鍵を開けると、フィリップは逆らうシーリアを押さえ込みながら、自分だけ外に出た。
「フィリップ!」
大声で叫んだ。
また、鍵が閉まる。
ドアの外から聞こえるフィリップの声にぞっとした。
「後でまた来るよ」
ネイトなら、こういうときほど冷静になるはず──
座り込み、両手を組んで口に押し付ける。
外から軽い足音がした。ガタガタと物音もする。
立ち上がり、ドアから数歩後ずさる。天井近くにある小さな丸い開口部から、何かが数個落ちた。
「リンゴです。レディ・シーリア」
ジョージの幼い声がした。
「ジョージ、助けて!閉じ込められているの!」
ジョージの返事を祈りながら待つ。
「僕は父に言われただけです」
彼の足音が素早く去っていった。