幼すぎた君との別れから
5話
不快な笑みを浮かべながら、バークリーが顔を離した。
シーリアを慈しむべき人物が、こんな女だったとは……
ナサニエルはバークリーを押しのけると、腕で唇を拭った。
バークリーの口の端がひくひくと動く。
「なんて失礼なの……」
「失礼なのは君だ、ミス・バークリー。君はシーリアの家庭教師に相応しくない。今はっきりと分かった」
バークリーが背を伸ばし、震える手で髪をなでつけた。
「私、キスは初めてだったんです。責任はとっていただけますね?」
どこからか、うめき声が聞こえた。ナサニエルは周りに視線を巡らせた。
「誰だ?」
「誰でもいいわ。ナサニエル様、紳士なら責任を取って結婚してくれるでしょう?没落したとはいえ、私はレディよ」
どこまでも図々しい女だ……
「死んでもごめんだ。ほかの獲物を狙え」
バークリーが、激しい歯ぎしりをした。
「あなたにキスされたと、伯爵に言うわ」
ナサニエルは息を呑んでのけぞった。
「……好きにすればいい。父は私を信頼している。君が仕事を失うだけだ」
やっとのことで、喉から声を絞り出した。
父は責任を取らせようとするだろうか……
ナサニエルをにらみつけると、バークリーは大きな足音を立てて走って行った。
やっかいなことになった……
バークリーは捨て身になっている。
ナサニエルはため息をつくと、両手で何度も顔を擦った。
すすり泣きが一瞬聞こえた。レモンの木の後ろからだ。
木の後ろに回り、ナサニエルは思わず唸り声をもらした。
シーリアが立ちすくんで、声を殺して泣いている。
「いつからそこにいたんだ」
ナサニエルは、髪をぐしゃぐしゃにかき乱した。
涙がいっぱいにたまった目でこちらを見ながら、シーリアは口元を震わせている。
「どうしてあの人とキスしたの」
ナサニエルは自分の腿を強く叩いた。
「したんじゃない。されたんだ!」
弁解の言葉が、勝手に口をついて出てきた。
「あの人と、結婚しないといけないの?」
「シーリア……するわけないだろう!?」
彼女が顔をそむけてうなだれた。リボンを巻いた華奢なうなじが見える。
まだだめだと自分に言い聞かせながら、無理やり視線をそらした。
深呼吸をした。
「シーリア」
ナサニエルは薄暗い陰からランプの灯る通路にシーリアを連れだした。膝をつき、彼女の両手を取って顔を見上げる。
シーリアの頬に涙が伝った。
「髪型を変えたんだね。それにドレスも……とてもよく似合ってる」
泣きやませようとして言ったのに、シーリアはよけいに泣いた。
ナサニエルはもどかしさに身悶えした。
「怪我をしてるじゃないか!」
シーリアの白い手袋に血がにじんでいた。手袋を脱がせ、痛々しい傷に思わず歯を食いしばる。
立ち上がり、トラウザーズのポケットからハンカチを取り出す。しゃがんでシーリアの手のひらを丁寧に包んだ。
「棘が刺さっただけなのに……」
シーリアの鼻をすする音が次第におさまった。
手首で涙を拭い大きく息をついたあと、彼女が大人びた微笑みを見せた。
「一人で……私の名前を呼んでた……」
愛情のこもった眼差しで、シーリアがささやく。
ナサニエルは両目を手で覆った。
あれも聞かれていたのか……
羽根のような口づけを感じた。
呆然と手を下ろす。
シーリアははにかみながらこちらを見ていた。
彼女がまた顔を寄せる。
────だめだ……とめろ、早く……
「何をしている!」
息を殺して立ち上がった。
父とバークリーがそこに立っていた。
シーリアは無意識に後ずさりをした。
伯爵が鼻にしわを寄せてこちらを見ている。自分が塵くずにでもなったような気がした。
「これは一体どういうことだ。シーリア」
シーリアは首をすくめて、ひたすらレンガの敷かれた地面を見つめた。
「あなた……また懲りずに!」
甲高いミス・バークリーの声。
まさか彼女がこんなにも早く、伯爵を連れてくるなんて……
「旦那様、レディ・シーリアはまるで私の言いつけを守らないのです。部屋にいろと言ったのに、反抗ばかりして……!」
伯爵が額を手でおさえた。
「少し黙ってくれ、ミス・バークリー。君の話は後だ」
「でも旦那様、先ほどの話は……」
「後だと言っただろう」
重たい声に、バークリーは顔をひきつらせる。
「……ナサニエル、お前がこんな子供に手を出すはずがない」
伯爵の視線がまたシーリアに向けられた。
デ・レイシー家に引き継がれる、父と同じ灰色の瞳。
こんなときに限って父と伯爵が重なって見える。
「シーリア、君にはがっかりした。預け先が決まり次第、出て行ってくれ」
──出て行ってくれ──
やっとのことで意味を理解する。びくりと震えた。
反射的に場違いな笑い声を漏らした。
おじ様にとって、私は家族じゃないんだもの……
顔を歪めてゆっくりと頷く。
ぼんやりとした視界に映った、バークリーの含み笑い。
心が麻痺して、何とも思わない。
バークリーの姿が、ナサニエルの背中に遮られた。
「やめてください。シーリアは何もしていません」
ナサニエルの静かな声は妙に決意に満ちていて、シーリアをぞっとさせた。
「ナサニエルお兄様……」
シーリアのかすれた声に、ナサニエルが振り向き、首を横に振った。
張り詰めた表情が、何も言うなと伝えている。
「お前から手を出したと言うのか?こんな子供に?」
両手を握りしめて、ナサニエルがぎこちなく頷いた。
伯爵が真顔で笑った。そのあと、音を立てて大きく息を吸いこむ。
「何を言っているか、分かっているのか?」
「……はい、私が──」
伯爵はわななく片手を前にかざして、ナサニエルを遮った。
アイアンの丸テーブルまで進み、グラスにウイスキーを注ぐと、伯爵は一気にそれをあおった。
「ナサニエル、本当のことを言え」
「本当のことです」
「おじ様!私からキスをしたんです!」
「シーリア!部屋に戻れ」
ナサニエルが語気を強めた。
「守らせてくれ……さあ行くんだ」
今度はシーリアにだけ聞こえるようにつぶやく。
行けるわけない──彼の袖の端をつかんだ。
シーリアとナサニエルをまじまじと交互に見ると、伯爵はグラスをテーブルに叩きつけた。
「ミス・バークリー。シーリアを部屋に連れて行け。ナサニエルと二人で話がある」
バークリーは口をすぼめて、視線を彷徨わせている。
「早くしろ!」
たじろいだバークリーが、シーリアの腕をつかみ、彼女を強引に外に引きずり出した。
シーリアを慈しむべき人物が、こんな女だったとは……
ナサニエルはバークリーを押しのけると、腕で唇を拭った。
バークリーの口の端がひくひくと動く。
「なんて失礼なの……」
「失礼なのは君だ、ミス・バークリー。君はシーリアの家庭教師に相応しくない。今はっきりと分かった」
バークリーが背を伸ばし、震える手で髪をなでつけた。
「私、キスは初めてだったんです。責任はとっていただけますね?」
どこからか、うめき声が聞こえた。ナサニエルは周りに視線を巡らせた。
「誰だ?」
「誰でもいいわ。ナサニエル様、紳士なら責任を取って結婚してくれるでしょう?没落したとはいえ、私はレディよ」
どこまでも図々しい女だ……
「死んでもごめんだ。ほかの獲物を狙え」
バークリーが、激しい歯ぎしりをした。
「あなたにキスされたと、伯爵に言うわ」
ナサニエルは息を呑んでのけぞった。
「……好きにすればいい。父は私を信頼している。君が仕事を失うだけだ」
やっとのことで、喉から声を絞り出した。
父は責任を取らせようとするだろうか……
ナサニエルをにらみつけると、バークリーは大きな足音を立てて走って行った。
やっかいなことになった……
バークリーは捨て身になっている。
ナサニエルはため息をつくと、両手で何度も顔を擦った。
すすり泣きが一瞬聞こえた。レモンの木の後ろからだ。
木の後ろに回り、ナサニエルは思わず唸り声をもらした。
シーリアが立ちすくんで、声を殺して泣いている。
「いつからそこにいたんだ」
ナサニエルは、髪をぐしゃぐしゃにかき乱した。
涙がいっぱいにたまった目でこちらを見ながら、シーリアは口元を震わせている。
「どうしてあの人とキスしたの」
ナサニエルは自分の腿を強く叩いた。
「したんじゃない。されたんだ!」
弁解の言葉が、勝手に口をついて出てきた。
「あの人と、結婚しないといけないの?」
「シーリア……するわけないだろう!?」
彼女が顔をそむけてうなだれた。リボンを巻いた華奢なうなじが見える。
まだだめだと自分に言い聞かせながら、無理やり視線をそらした。
深呼吸をした。
「シーリア」
ナサニエルは薄暗い陰からランプの灯る通路にシーリアを連れだした。膝をつき、彼女の両手を取って顔を見上げる。
シーリアの頬に涙が伝った。
「髪型を変えたんだね。それにドレスも……とてもよく似合ってる」
泣きやませようとして言ったのに、シーリアはよけいに泣いた。
ナサニエルはもどかしさに身悶えした。
「怪我をしてるじゃないか!」
シーリアの白い手袋に血がにじんでいた。手袋を脱がせ、痛々しい傷に思わず歯を食いしばる。
立ち上がり、トラウザーズのポケットからハンカチを取り出す。しゃがんでシーリアの手のひらを丁寧に包んだ。
「棘が刺さっただけなのに……」
シーリアの鼻をすする音が次第におさまった。
手首で涙を拭い大きく息をついたあと、彼女が大人びた微笑みを見せた。
「一人で……私の名前を呼んでた……」
愛情のこもった眼差しで、シーリアがささやく。
ナサニエルは両目を手で覆った。
あれも聞かれていたのか……
羽根のような口づけを感じた。
呆然と手を下ろす。
シーリアははにかみながらこちらを見ていた。
彼女がまた顔を寄せる。
────だめだ……とめろ、早く……
「何をしている!」
息を殺して立ち上がった。
父とバークリーがそこに立っていた。
シーリアは無意識に後ずさりをした。
伯爵が鼻にしわを寄せてこちらを見ている。自分が塵くずにでもなったような気がした。
「これは一体どういうことだ。シーリア」
シーリアは首をすくめて、ひたすらレンガの敷かれた地面を見つめた。
「あなた……また懲りずに!」
甲高いミス・バークリーの声。
まさか彼女がこんなにも早く、伯爵を連れてくるなんて……
「旦那様、レディ・シーリアはまるで私の言いつけを守らないのです。部屋にいろと言ったのに、反抗ばかりして……!」
伯爵が額を手でおさえた。
「少し黙ってくれ、ミス・バークリー。君の話は後だ」
「でも旦那様、先ほどの話は……」
「後だと言っただろう」
重たい声に、バークリーは顔をひきつらせる。
「……ナサニエル、お前がこんな子供に手を出すはずがない」
伯爵の視線がまたシーリアに向けられた。
デ・レイシー家に引き継がれる、父と同じ灰色の瞳。
こんなときに限って父と伯爵が重なって見える。
「シーリア、君にはがっかりした。預け先が決まり次第、出て行ってくれ」
──出て行ってくれ──
やっとのことで意味を理解する。びくりと震えた。
反射的に場違いな笑い声を漏らした。
おじ様にとって、私は家族じゃないんだもの……
顔を歪めてゆっくりと頷く。
ぼんやりとした視界に映った、バークリーの含み笑い。
心が麻痺して、何とも思わない。
バークリーの姿が、ナサニエルの背中に遮られた。
「やめてください。シーリアは何もしていません」
ナサニエルの静かな声は妙に決意に満ちていて、シーリアをぞっとさせた。
「ナサニエルお兄様……」
シーリアのかすれた声に、ナサニエルが振り向き、首を横に振った。
張り詰めた表情が、何も言うなと伝えている。
「お前から手を出したと言うのか?こんな子供に?」
両手を握りしめて、ナサニエルがぎこちなく頷いた。
伯爵が真顔で笑った。そのあと、音を立てて大きく息を吸いこむ。
「何を言っているか、分かっているのか?」
「……はい、私が──」
伯爵はわななく片手を前にかざして、ナサニエルを遮った。
アイアンの丸テーブルまで進み、グラスにウイスキーを注ぐと、伯爵は一気にそれをあおった。
「ナサニエル、本当のことを言え」
「本当のことです」
「おじ様!私からキスをしたんです!」
「シーリア!部屋に戻れ」
ナサニエルが語気を強めた。
「守らせてくれ……さあ行くんだ」
今度はシーリアにだけ聞こえるようにつぶやく。
行けるわけない──彼の袖の端をつかんだ。
シーリアとナサニエルをまじまじと交互に見ると、伯爵はグラスをテーブルに叩きつけた。
「ミス・バークリー。シーリアを部屋に連れて行け。ナサニエルと二人で話がある」
バークリーは口をすぼめて、視線を彷徨わせている。
「早くしろ!」
たじろいだバークリーが、シーリアの腕をつかみ、彼女を強引に外に引きずり出した。