幼すぎた君との別れから

43話

 馬車の中で隣に座るシーリアを抱き寄せた。いつもはピンク色の唇が、紫色になっている。優しく何度かキスをしたら、少し血色が良くなった。

 目が半分しか開いていない。疲れ果てたのだろう。

 彼女がナサニエルの胸に頭を預けた。

 フィリップ・ヘイズとの婚約の経緯が聞きたくて仕方がないが、今はその時ではない。

 シーリアは安心したようにそのまま眠ってしまった。

 彼女の明るい茶色の髪をいじりながら、物思いにふける。

 シーリアは私のためにフィリップ・ヘイズと婚約していた。

 ずっと、そのことを黙っていた。

 心のままに喜んではいけない気がした。



 屋敷に着くと、馬車の音だけでミセス・ケインズとクロッカーが出てきた。

 シーリアを持ち上げようとしても、片腕ではやはり無理だった。
 馬車のドアをあけた従僕にシーリアを運ばせた。 

 眠ったまま従僕に抱かれ、大階段から回廊、部屋に続く通路へと運ばれるシーリア。その様子を、顔をゆがめながら目で追う。

 ミセス・ケインズが両手をぎゅっと握りしめながら、視線で問いかけてくる。

「ミセス・ケインズ。シーリアは無事だった」
 目をしっかりと合わせてケインズにうなずく。

「そうですか……よかった」
 ミセス・ケインズが震える吐息をついて、少しふらついた。

「クロッカー、シーリアに食べやすい食事と温かい飲み物を。部屋まで持ってきてくれ」

「かしこまりました、旦那様」
 クロッカーが調理場のある地下室に向かう。

 ミセス・ケインズが両手をこすり合わせながら、まだ物言いたげにこちらを見ている。
 ナサニエルはやっと察した。

「アリなら警官を手伝っている、何も心配はいらない……そうだ、あとで迎えをやらないとな」

 ミセス・ケインズの表情がぱっと華やかになった。

「馬車を頼んできます」

 ミセス・ケインズはいそいそとホールボーイのもとに向かった。

 ナサニエルは両眉を上げた。
 ミセス・ケインズは、プロポーズを受ける気になったのだろうか。

 つい忍び笑いをした。

 アリの狙い通りになりそうだ。


 ナサニエルは首や肩を揉みながら、ゆっくりと大階段をのぼった。



 チキンスープの美味しそうな香りがする。
 目を開けるとベッドに寝かされていた。真横に腰掛けるナサニエルが身じろぎをする。

 シーリアが腕を伸ばすと彼が手の甲に何度も口づけしてくれた。

「食べられそうかい?」

 もぞもぞと体を起こした。サイドテーブルの上に置かれた食事。カップをとり、温かいミルクをごくごくと飲み干した。
 ナサニエルが目を丸くして微笑んだ。

 誰かがナイトドレスに着替えさせてくれている。髪もほどかれていた。
 全然気がつかなかった。

 食べ終わり、それだけでひどく疲れて横になった。
 冷たい礼拝堂の感覚がまだ抜けない。毛布を顎まで引き上げて、うつろに天蓋を見つめる。

 ナサニエルがジャケットとウエストコートを脱いで、ベッドの隣に滑り込んだ。

 思わず息をひそめる。今は応えられそうになかった。

 ナサニエルはシーリアの額にかかる髪をそっと払いのけた。
 抱きしめて、ただ横になるだけだった。

 体の力が抜けた。

 ナサニエルの背中に手を回し、サスペンダーを何度も指でたどる。

「……怒らないの?」

「……そうだな……明日怒ることにしよう」

 ナサニエルが先に眠る。顔をじっと眺めた。表情から険しさが消えている。シーリアは少尉だったころの彼を思い出した。
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