幼すぎた君との別れから

8話

1880年、イングランド


 引き締まったナサニエルの唇の形。口づけの感触。

 驚ききった彼の顔は、嵐の前触れのよう──


 シーリアは、ベッドの上で目を閉じたまま身悶えをした。

 夢を見ながら、夢だと分かっていた。


 ゆっくりと目を開けてベッドから体を起こすと、シーリアは毛布を胸にかき寄せて部屋を見回した。

 フリンジの付いた天蓋付きベッド、マホガニーの書き物机。いくつも絵の飾られたオリーブグリーンの壁、天井には複雑な漆喰のレリーフが施されている。

 一瞬、自分の部屋ではないように感じた。

 あの夢を見ると、学習室や、その横の質素な寝室で過ごしていた頃の自分に戻ってしまう。



 アップにした明るい茶色の髪。コルセットできつく締め上げたウエストにクリーム色のバッスルドレス。鏡に映る自分の姿は、社交界デビューした令嬢そのものだった。

「お誕生日おめでとうございます。レディ・シーリア」

 シーリアの身支度をしたメイドが温かく微笑んだ。

 二月十四日。今日で十八歳。堂々と恋のできる年齢。


「あ、あの、手紙は届いていなかった?」

「お手紙ですか?レディ・アンブローズからなら、お誕生日のメッセージカードが届いていましたが……」

「そう……」

 シーリアは、まつ毛を伏せた。

 彼から手紙が来たことは一度もなかった。戦争中なら、なおさら届くわけがない。

 あの日のことが、本当に夢だったのではないかと思える時がある。



 身支度をすませると、冷え切った廊下を足早に歩いて、朝食室に向かった。

 丸いテーブルの上に置かれた、今日の新聞。
 食事は後回しにして、まず先にそれを手に取った。

 講和条約が結ばれて終わったはずだったのに、また始まったアフガニスタンとの戦争。
 記事はそのことばかりで埋め尽くされている。

 ナサニエルのいる部隊もインドから進軍していた。

 シーリアは息をひそめて一つ一つの記事を読んだ。

 負傷者名簿、戦死者名簿。
 いつも、寿命が縮むようだった。


 伯爵が、朝食室に入ってきた。

 シーリアはすかさず立ち上がり、膝を折った。
「お、おはようございます」

 伯爵はいつも通り何も言わないまま、冷ややかな視線を新聞に向けた。

 お前に心配する資格はない──そう言われているような気がする。

 シーリアは椅子に座り直し、かすかに手を震わせながらそのまま新聞を読んだ。
< 8 / 46 >

この作品をシェア

pagetop